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東光寺 ①2008年08月22日 13時14分28秒

(click..play) (写真をクリックすると大きくなります)                 東光寺三門 護国山東光寺は、元禄4年(1691)に3代藩主毛利吉就が萩出身の名僧慧極を開山として創建した全国屈指の黄檗宗の寺院で、大照院と並んで毛利家の菩提寺である。総門、三門、鐘楼、大雄宝殿はいずれも国の重要文化財に指定されており、名刹の面影を残している。本堂裏の毛利家墓所は国指定の史跡で、吉就から11代までの奇数代の藩主とその夫人及び一族、関係者の墓があり、墓前には藩士が寄進した500余基の石灯籠が立ち並ぶ。このほか殉難十一烈士墓、維新志士慰霊墓八基などがある。寺宝類も多く、長州藩御用絵師の雲谷派の絵画、県指定有形文化財の木額、柱聯、傍牌などがある。

東光寺 ②2008年08月22日 13時25分35秒

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            東光寺大雄宝殿説明板
大雄宝殿は、元禄11年(1698)4代藩主毛利吉広によって建立されたものである。

東光寺 ③2008年08月22日 13時29分55秒

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 大雄宝殿は、元禄11年(1698) 4代藩主毛利吉広によって建立されたものである。建物は、一重裳階付きの仏殿形式で桁行 19.93m、梁間 14.617m、正面一間通りは吹き放ちになっており、屋根は入母屋造り本瓦葺きで、棟の中央に宝珠と両端に鯱を置いている。堂内の土間は漆喰叩仕上げで、建物中央部に格子天井を張るなど特色ある唐様建築である。規模の壮大さと相まって、当地方の寺院建築中最高水準を示すものと高く評価される。

東光寺 ④2008年08月22日 13時36分10秒

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             東光寺鐘楼説明板
鐘楼の建築年代は元禄7年(1694)に4代藩主吉広によって梵鐘が寄進されているので、そのとき同時に建立されたと思われる。
 建物の形式は、黄檗宗特有の一重裳階付入母屋造り二層で裳階部分は桟瓦葺き、屋根は入母屋造り、本瓦葺、桁行 4.62m、梁間3.65mである。
 上層には梵鐘がつってあり、鐘銘は開山慧極の撰で、萩藩の御細工人、鋳物師郡司喜兵衛信安・信之父子が鋳造したものである。

東光寺 ⑤2008年08月22日 13時40分45秒

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鐘楼の建築年代は元禄7年(1694)に4代藩主吉広によって梵鐘が寄進されているので、そのとき同時に建立されたと思われる。
 建物の形式は、黄檗宗特有の一重裳階付入母屋造り二層で裳階部分は桟瓦葺き、屋根は入母屋造り、本瓦葺、桁行 4.62m、梁間3.65mである。
 上層には梵鐘がつってあり、鐘銘は開山慧極の撰で、萩藩の御細工人、鋳物師郡司喜兵衛信安・信之父子が鋳造したものである。

東光寺 ⑥2008年08月22日 13時48分01秒

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東光寺 ⑦2008年08月22日 13時51分14秒

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        黄檗宗(おうばくしゅう)東光寺
「みどころ」

●明末、清初の中国風の雄大華麗な建築美
●春蘭秋菊の美を競う諸堂の扁額、柱聯にみる黄檗墨跡
●静寂、そして幾何学美をもつ毛利氏廟所

「沿革」

萩市大字椿東字椎原にあり山号を護国山といい、元禄4年(1691)萩藩三代藩主毛利吉就が建立しました。吉就は若くして深く黄檗宗(おうばくしゅう禅宗の一派)に帰依して、京都府宇治市、本山黄檗山万福寺に範を求めて広壮な堂宇を建立し、萩出身の高僧慧極道明禅師を開山に迎えました。
吉就の没後ここに墓所を営み、毛利氏菩提寺となりました。黄檗三叢林の随一と称えられ、文化年間の最盛時には全山塔40棟を数えたといいます。

「建築物」

中国の明時代の末から清時代の初めにかけての黄檗伽藍様式で、伽藍配置は龍の形を表わしたものと伝えられています。

①総門 元禄6年(1693)頃の建立 重要文化財
②三門 文化9年(1812)建立 重要文化財
③鐘楼 元禄7年(1694)頃の建立 重要文化財
④大雄宝殿 元禄11年(1698)建立 重要文化財
⑤大方丈書院 寛政4年(1792)建立

東光寺パンフレットより