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豊後 杵築城 ①2008年09月01日 14時20分56秒


(click..play)           杵築城本丸入り口城門
沿革 応永元年(1394)木付頼直が築城した。文禄2年(1592)に木付鎮直が宗家の大友氏が除封されことにより自害するまで200年間木付氏が城主であった。天正14年(1586)には九州統一を目指す島津軍の猛攻に耐え、関が原の戦では、西軍に付いた大友軍の攻撃をも耐えたことから勝山城とも呼ばれた。 細川氏、小笠原氏のあと正保2年(1645)松平(能見)英親が3万2千石で入城し明治4年の廃藩置県まで約230年、松平氏による泰平の世が続きました。

豊後 杵築城 ②2008年09月01日 14時29分12秒

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  この杵築城は応永元年1394年、木付頼直が築城し、以後木付氏代々の居城となった。文禄2年1593年、文禄の役の際、大友義統が敵の大軍来襲の報せに前線から逃走し、秀吉によって改易され大友義統が自刃したと知り、城主・木付統直は切腹し木付氏は滅んだ。その後、前田玄以・杉原長房が城主となったが、慶長5年1600年関ヶ原合戦の戦功で丹後田辺城主細川忠興が中津城に入り、杵築城には重臣松井興長が城代となった。寛永9年1632年細川忠利が豊前小倉から肥後熊本に移封となり、城代松井氏も八代城へと移った。その後、小笠原忠知が4万石で入ったが、正保2年1645年三河吉田へ移り、替わって松平[能見]英親が豊後高田から3万7千石で入封した。以後、松平氏が12代続き明治を迎えました。

豊後 杵築城 ③2008年09月01日 14時32分48秒

(click..play) (写真をクリックすると大きくなります) 杵築城説明板
建長2年(1250)大友氏二代親秀の六男親重は、豊後国速見郡武者所として、八坂郷木付荘に封ぜられ、地名の木付を氏として、竹ノ尾の高台に築城し竹ノ尾城にいった。木付氏四代頼直のとき城を現在地の城山に移築、応永元年1394年九月竣工、木付城と名づけた。木付城を別の名を台山城・臥牛城また勝山城とも呼ばれるが、台山とは八坂川、高山川の合流地点に突出した台地に由来し臥牛は台山の地形が牛の寝た姿に似ていることによる。勝山城のいわれは木付16代鎮直の時代島津義弘軍の攻城を受けたが天正15年1587年二月これを撃退勝利をおさめた武功にあやかるものである。さて文禄2年1593年木付氏滅亡後、藩主の交代相つぎ正保2年1645年松平英親が転封されてより明治に致るまで松平氏の冶藩下に栄えた。杵築の地名は正徳2年1712年八月徳川六代将軍家宣下賜の朱印状に木付の文字が杵築と書かれたことによる。
杵築城説明板より

豊後 杵築城 ④2008年09月01日 14時37分12秒

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宮本武蔵について説明板
慶長17年(1612)関門海峡浮かぶ巌流島で、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘を行ったとき、この試合の検分役を務めたのは、細川藩筆頭家老で、杵築(木付)城代の松井興長であった。決闘が終わって門司城代沼田延元のもとにいた武蔵は、佐々木小次郎の門人たちに命を狙われたので、鉄砲組に護衛されて養父無二斎のいる豊後へ送り届けたと沼田家記に記されている。[二天記]では松井興長は、無二斎の門人でありと記述されており、地元では武蔵が杵築に来たのではないかと言い伝えられている。
杵築市観光協会 説明板より

豊後 杵築城 ⑤2008年09月01日 14時42分33秒

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            杵築城右側面より

豊後 杵築城 ⑥2008年09月01日 14時51分58秒

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           杵築城絵図
 沿 革   杵築市は和銅6年(約1200年前)の豊後風土記によると、八坂郷と安岐の一部を包含していた。城下町形成の始めは、鎌倉時代に八坂郷木付の庄に、大友氏の一族大友親重[入部してから木付氏に改めた。約700年前]が鴨川に竹の尾城を築いたが、145年後の応永元年、四代木付頼直に至り、今の城山公園に築城して移った。それから、約180年後の文禄2年に、木付氏も宗家大友氏の滅亡の時、殉死して終わりを告げた。爾来50年間は前田、杉原、早川、細川、小笠原の諸侯が相次いで居城したが正保2年松平英親が豊後高田から転封されるに及び、明治4年の廃藩置県まで約230年、松平氏による泰平の世が続きました。

豊後 杵築城 ⑦2008年09月01日 14時55分04秒

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       杵築城内展望台より 杵築湾を望む

豊後 杵築城 ⑧2008年09月01日 14時59分00秒

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  この「勘定場の坂」は、土塀と石畳が美しく、海と杵築城が見える唯一の坂。ゆるやかな傾斜と広い石段は、馬や駕籠(かご)かきの脚に合うように考慮されたもの。上から24段目の階段には、富士山のレリーフのような踏み石が埋められており、西(二十四)の富士とよばれています。

豊後 杵築城 ⑨2008年09月01日 15時02分51秒

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  この「酢屋の坂」は北台武家屋敷から南台武家屋敷に通じる石畳の坂道。名前の由来は角の綾部味噌店の前身が酢屋だったことからと言われている。武家屋敷の古びた建物と石畳が調和し、勘定場の坂と共に代表的な坂道となっています。

豊後 杵築城 ⑩2008年09月01日 15時06分06秒

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この杵築城は八坂川河口の台山に築かれ、三方を海と川に囲まれた要害堅固な城であった。現在では、本丸跡は城山公園として整備され、昭和45年に建てられた三層の天守は杵築市のシンボルとなっている。天守内部には歴代藩主ゆかりの品々が展示され、最上階からは360度の展望が楽しめます。
  対岸八坂大橋付近からの杵築城眺望