今日はです
日田 永山城(丸山城) 跡① ― 2009年03月01日 10時03分44秒
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(写真をクリックすると大きくなります)===月隈公園説明板===
日田三丘の一つ、慶長の昔(1601年)豊臣秀吉の家来、日田郡令小川壱岐守が城を築いて丸山城と名ずけ、石川総輔のとき永山城と名を改めました。貞享三年(1686年)からは、日田郡代が岡の南側に永山布政所をおいて九州各地にある幕領や九州各藩の目付としてその威勢を天下にしめしたところです。岡の正面山腹に散在する横穴は、千数百年前の豪族の古墳だと伝えられています。 ===現地説明板より===
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日田三丘の一つ、慶長の昔(1601年)豊臣秀吉の家来、日田郡令小川壱岐守が城を築いて丸山城と名ずけ、石川総輔のとき永山城と名を改めました。貞享三年(1686年)からは、日田郡代が岡の南側に永山布政所をおいて九州各地にある幕領や九州各藩の目付としてその威勢を天下にしめしたところです。岡の正面山腹に散在する横穴は、千数百年前の豪族の古墳だと伝えられています。 ===現地説明板より===
日田 永山城(丸山城) 跡② ― 2009年03月01日 10時16分19秒
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(写真をクリックすると大きくなります)===説明板===
豆田町は、慶長六年(1601年)から九年にかけて、小川壱岐守光氏が月隈山に丸山城を築いた際、友田村から民家を移して城下町をつくったのに始まる。初め丸山町と云ったが、元和年間町づくりを継続した石川忠総のとき豆田町を改められた。整然とした屋敷割りと旧街路名は、初めからのものである。ある時期を除いて、日田が幕府直轄の天領となるのは、両小川氏が代官となった寛永十六年(1639年)からである。明和四年(1767年)揖斐十太夫が、代官から昇格し西国筋郡代となって以後はじめ代官として着任しても後には郡代に昇格している。また最初から郡代として着任した者もある。代官・郡代の権威と結びついて、大名の御用達や、公金の出納を担当した掛屋になった商人が台頭した。この掛屋の中で、草野家、手島家、千原家、広瀬家、などは、豆田町に居を構えた。中でも、広瀬淡窓の生家である。広瀬家で、初めて掛屋となった久兵衛の土木事業や府内藩の財政改革などの活躍は、広く知られている。町人の町として繁栄した豆田町も明和九年(1772年)の大火、明治十三年の平野町ー八幡町の大火によって大きな被害を受けた。それらの災禍を乗り越えて、再興された町並みが今日残っている町並の基礎をなしている。豆田町の町並みの特徴は、江戸時代初期の町割が、ほぼ完全に残っていること江戸時代から現在までの各時代の特徴を持つ家屋が混在していることである。
===現地説明板より===
豆田町は、慶長六年(1601年)から九年にかけて、小川壱岐守光氏が月隈山に丸山城を築いた際、友田村から民家を移して城下町をつくったのに始まる。初め丸山町と云ったが、元和年間町づくりを継続した石川忠総のとき豆田町を改められた。整然とした屋敷割りと旧街路名は、初めからのものである。ある時期を除いて、日田が幕府直轄の天領となるのは、両小川氏が代官となった寛永十六年(1639年)からである。明和四年(1767年)揖斐十太夫が、代官から昇格し西国筋郡代となって以後はじめ代官として着任しても後には郡代に昇格している。また最初から郡代として着任した者もある。代官・郡代の権威と結びついて、大名の御用達や、公金の出納を担当した掛屋になった商人が台頭した。この掛屋の中で、草野家、手島家、千原家、広瀬家、などは、豆田町に居を構えた。中でも、広瀬淡窓の生家である。広瀬家で、初めて掛屋となった久兵衛の土木事業や府内藩の財政改革などの活躍は、広く知られている。町人の町として繁栄した豆田町も明和九年(1772年)の大火、明治十三年の平野町ー八幡町の大火によって大きな被害を受けた。それらの災禍を乗り越えて、再興された町並みが今日残っている町並の基礎をなしている。豆田町の町並みの特徴は、江戸時代初期の町割が、ほぼ完全に残っていること江戸時代から現在までの各時代の特徴を持つ家屋が混在していることである。
===現地説明板より===
日田 永山城(丸山城) 跡③ ― 2009年03月01日 10時20分46秒
日田 永山城(丸山城) 跡④ ― 2009年03月01日 10時25分38秒
日田 永山城(丸山城) 跡⑤ ― 2009年03月01日 10時27分40秒
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===現地案内板より===
東側から見る永山城の石垣と白壁、ちょうど白壁と堀をはさんだ前に日田永山布政所があった場所。ですが現在は民家が建ち並んでいます。
【歴 史】 慶長6年(1601年)豊臣家の家臣である小川壱岐守光氏が丸山(月隈山)に築城しました。 元和2年(1616年)石川忠総が九州最初の譜代大名として美濃国大垣より6万石で入封、「丸山城を永山城と改め18年間居城としました。 石川氏のあと幕府直轄地にし、譜代の中津城主小笠原長次と杵築城の小笠原忠知の大名預所とし。 寛永16年(1639年)天領となり、山麓に日田陣屋永山布政所が置かれ、代官・郡代が支配しました。
===現地案内板より===
東側から見る永山城の石垣と白壁、ちょうど白壁と堀をはさんだ前に日田永山布政所があった場所。ですが現在は民家が建ち並んでいます。
【歴 史】 慶長6年(1601年)豊臣家の家臣である小川壱岐守光氏が丸山(月隈山)に築城しました。 元和2年(1616年)石川忠総が九州最初の譜代大名として美濃国大垣より6万石で入封、「丸山城を永山城と改め18年間居城としました。 石川氏のあと幕府直轄地にし、譜代の中津城主小笠原長次と杵築城の小笠原忠知の大名預所とし。 寛永16年(1639年)天領となり、山麓に日田陣屋永山布政所が置かれ、代官・郡代が支配しました。
日田 永山城(丸山城) 跡⑥ ― 2009年03月01日 10時30分33秒
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永山城三の丸入り口大手門付近よりの石垣、白壁、水堀
(click..play) ■ ■ ■陰徳倉碑■ ■ ■
天領日田の代官に任ぜられた塩谷大四郎正義は文化十四年に着任した。以来十九年間、当時の施政官としては善政といえる業績を挙げた。「陰徳倉」もその一つである。江戸幕府は災害や飢饉に備えて米や雑穀を貯えておく制度をつくり、その代金「助合穀銀」を年貢と同様に撤収した。このため、かえって百姓の困窮は増すばかりとなった。塩谷代官はこれとは別に救い米を備蓄することにして、着任の二年後、豆田・隈の町年寄が発起の形で、世話人三名を設け両町の富裕者から米を寄付させた。代官陣屋の東南にあった畑地に四棟の倉を建て、七百俵あまりの米をこれに収納した。そしてみずから「陰徳倉」と名づけ、文を起草し、豆田町四十八名、隈町四十五名の寄付高、氏名とともに碑に刻んだ。この米は毎年新穀と入れ替え、文政五年隈町大火の際には放出されて効果を表した。
現地陰徳倉碑より
永山城三の丸入り口大手門付近よりの石垣、白壁、水堀
(click..play) ■ ■ ■陰徳倉碑■ ■ ■
天領日田の代官に任ぜられた塩谷大四郎正義は文化十四年に着任した。以来十九年間、当時の施政官としては善政といえる業績を挙げた。「陰徳倉」もその一つである。江戸幕府は災害や飢饉に備えて米や雑穀を貯えておく制度をつくり、その代金「助合穀銀」を年貢と同様に撤収した。このため、かえって百姓の困窮は増すばかりとなった。塩谷代官はこれとは別に救い米を備蓄することにして、着任の二年後、豆田・隈の町年寄が発起の形で、世話人三名を設け両町の富裕者から米を寄付させた。代官陣屋の東南にあった畑地に四棟の倉を建て、七百俵あまりの米をこれに収納した。そしてみずから「陰徳倉」と名づけ、文を起草し、豆田町四十八名、隈町四十五名の寄付高、氏名とともに碑に刻んだ。この米は毎年新穀と入れ替え、文政五年隈町大火の際には放出されて効果を表した。
現地陰徳倉碑より
日田 永山城(丸山城) 跡⑦ ― 2009年03月01日 10時37分49秒
日田 永山城(丸山城) 跡⑧ ― 2009年03月01日 10時42分34秒
日田 永山城(丸山城) 跡⑨ ― 2009年03月01日 10時45分47秒
日田 永山城(丸山城) 跡⑩ ― 2009年03月01日 10時50分33秒
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永山城大手門右側(西側)から見た永山城、三の丸の石垣と白壁、水堀
下の写真は山頂に築かれた石垣と本丸跡石は丸い石が多く使用されているようです。天守台石垣下には月隈神社があります。
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永山城大手門右側(西側)から見た永山城、三の丸の石垣と白壁、水堀
下の写真は山頂に築かれた石垣と本丸跡石は丸い石が多く使用されているようです。天守台石垣下には月隈神社があります。
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