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桜の日出城趾と鏝絵2009年04月04日 13時23分08秒

(写真をクリックすると大きくなります)===現地説明版===
◇◇◇慶長六年(1601年)日出藩、初代藩主、木下延俊は入国後直ちに築城にかかり、翌年八月には大方の普請ができ入城した。城の縄張り(設計)は細川忠興が行い、石垣の構築は家臣で築城の名手穴生理右衛門が野面積みで築き、木材は鹿鳴越の大木を用いたといわれる。 別名暘谷城とよばれ、三代藩主、木下俊長が中国古書「淮南子」より引用し命名したといわれる。 本丸には三層の天守閣をはじめ、二層の櫓五箇所・平櫓が築かれ、これを中心に二の丸・三の丸・外郭と三重の構えを備え、外郭には武家屋敷や民家を取り入れた。明治七年(1874年)大分県は城内建物を競売に付し取り壊したが、その一つ隅櫓(鬼門櫓)は町内仁王地区へと移築され現存している。 本丸下の海岸は俗に「城下海岸」と呼ばれ、眺望絶佳、大分県百景、別府八景の一つに指定されている。この海中の真清水が湧く一帯は、 「城下かれい」の名で知られるマコガレイの棲息地となっている。◇◇◇
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◇◇◇日出城趾 (暘谷城趾)◇◇◇

◇慶長六年(1601年)日出藩、初代藩主、木下延俊は入国後直ちに築城にかかり、翌年八月には大方の普請ができ入城した。城の縄張り(設計)は細川忠興が行い、石垣の構築は家臣で築城の名手穴生理右衛門が野面積みで築き、木材は鹿鳴越の大木を用いたといわれる。 別名暘谷城とよばれ、三代藩主、木下俊長が中国古書「淮南子」より引用し命名したといわれる。 本丸には三層の天守閣をはじめ、二層の櫓五箇所・平櫓が築かれ、これを中心に二の丸・三の丸・外郭と三重の構えを備え、外郭には武家屋敷や民家を取り入れた。明治七年(1874年)大分県は城内建物を競売に付し取り壊したが、その一つ隅櫓(鬼門櫓)は町内仁王地区へと移築され現存している。 本丸下の海岸は俗に「城下海岸」と呼ばれ、眺望絶佳、大分県百景、別府八景の一つに指定されている。この海中の真清水が湧く一帯は、 「城下かれい」の名で知られるマコガレイの棲息地となっている。

◇現地説明版より◇


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鏝絵は漆喰彫刻・左官絵・鏝掛け・蔵飾りなどとも呼ばれ、大分県内には多くの鏝絵が残っている。その数は七百軒・千四百点を数え、その数と民族性に於いて、日本一の名を欲しいままにしている。なかでも日出町の青柳鯉市・長市・親子を中心とする職人の豊かな感性と職人気質の手技は、独自の世界を創り上げている。青柳鯉市は、天保10年(1839)に日出後川の日出藩普請方左官、脇儀市の五男として生まれ、万延元年に青柳家の養子となります。長じて、父・儀市より左官業を学び、後に江戸に出て修行することになります。このとき、鯉市は江戸城内の仕事場や町中で長八の仕事を目にすることができ、大きな影響を受けたと思われます。その後、鯉市は帰藩し、御用左官として仕えるようになります。明治維新後は、それまでの技術を生かして町場の職人になり、鏝絵の普及に努めました。 このようにして、長八の鏝絵は大分へ伝わり、鯉市の子・長市や、弟子の藤居銀治らに伝えられていきました。大分での鏝絵の流行は明治10年代に始まり、20~30年代に最盛期を迎えます。現在の日出町から杵築市や山香町、さらに隣接する宇佐市や院内町、安心院町などに広がっていきました。
◇◇◇鏝 絵「こてえ」◇◇◇
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◇鏝絵は漆喰彫刻・左官絵・鏝掛け・蔵飾りなどとも呼ばれ、大分県内には多くの鏝絵が残っている。その数は七百軒・千四百点を数え、その数と民族性に於いて、日本一の名を欲しいままにしている。なかでも日出町の青柳鯉市・長市・親子を中心とする職人の豊かな感性と職人気質の手技は、独自の世界を創り上げている。青柳鯉市は、天保10年(1839)に日出後川の日出藩普請方左官、脇儀市の五男として生まれ、万延元年に青柳家の養子となります。長じて、父・儀市より左官業を学び、後に江戸に出て修行することになります。このとき、鯉市は江戸城内の仕事場や町中で長八の仕事を目にすることができ、大きな影響を受けたと思われます。その後、鯉市は帰藩し、御用左官として仕えるようになります。明治維新後は、それまでの技術を生かして町場の職人になり、鏝絵の普及に努めました。 このようにして、長八の鏝絵は大分へ伝わり、鯉市の子長市や、弟子の藤居銀治らに伝えられていきました。大分での鏝絵の流行は明治10年代に始まり、20~30年代に最盛期を迎えます。現在の日出町から杵築市や山香町、さらに隣接する宇佐市や院内町、安心院町などに広がっていきました。