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武家屋敷(小姓小路)②2009年04月19日 10時45分52秒

   (写真をクリックすると大きくなります)===武家屋敷小姓小路跡===
◇◇◇慶長四年(1599年)領主大村喜前が玖島城を築き、城下に主な家臣を集め、住まわせたのが武家屋敷街の始まりです。当初、本小路、上小路、小姓小路、草場小路、外浦小路、の五つの道りが造られ、「五小路」と呼ばれました。後には、その周囲にも屋敷が建ち、岩船、久原、日向平などの武家屋敷街も出来ています。 小姓とは、殿様の側で仕えた家来のことをいい、初め小姓衆が住んだ通りであることから小姓小路と名付けられました。後には、小姓衆だけではなく、他の家臣も住みました。「牢屋の坂」の上からJRの線路を越えて続く通りで、大村の武家屋敷街の中でも、最もまとまって石垣の残っている通りで、武家屋敷の景観を残す貴重な場所です。通りの西端は、大村氏が最初に入った久原城があった場所と大村氏の記録に伝えられています。           ◇◇◇
小姓小路跡
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慶長四年(1599年)領主大村喜前が玖島城を築き、城下に主な家臣を集め、住まわせたのが武家屋敷街の始まりです。当初、本小路、上小路、小姓小路、草場小路、外浦小路、の五つの道りが造られ、「五小路」と呼ばれました。後には、その周囲にも屋敷が建ち、岩船、久原、日向平などの武家屋敷街も出来ています。 小姓とは、殿様の側で仕えた家来のことをいい、初め小姓衆が住んだ通りであることから小姓小路と名付けられました。後には、小姓衆だけではなく、他の家臣も住みました。「牢屋の坂」の上からJRの線路を越えて続く通りで、大村の武家屋敷街の中でも、最もまとまって石垣の残っている通りで、武家屋敷の景観を残す貴重な場所です。通りの西端は、大村氏が最初に入った久原城があった場所と大村氏の記録に伝えられています。
===現地説明版より===     

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