ようこそ! あなたは アクセスカウンター 番目のお客様です
今日はです

旧楠本正隆屋敷①2009年05月01日 08時58分17秒

(写真をクリックすると大きくなります)===旧楠本正隆屋敷門===
◇◇◇この屋敷は、長崎府判事であった正隆によって明治三年に建てられたものです。建物は寄棟造り、桟瓦葺き、平屋建て一部2階の主家と渡り廊下で結ばれた別棟の離れからできています。建物の様式から、近世武家住宅の系譜を引くもので、建物だけでなく石垣、庭園などを含めた屋敷地の全体がほぼそのまま残っており、旧大村藩内に残る武家屋敷の遺構としては、最も形式の整ったものの一つです。 ◇◇◇
◇◇◇旧楠本正隆屋敷門◇◇◇
> (click..play)


この屋敷は、長崎府判事であった正隆によって明治三年に建てられたものです。建物は寄棟造り、桟瓦葺き、平屋建て一部2階の主家と渡り廊下で結ばれた別棟の離れからできています。建物の様式から、近世武家住宅の系譜を引くもので、建物だけでなく石垣、庭園などを含めた屋敷地の全体がほぼそのまま残っており、旧大村藩内に残る武家屋敷の遺構としては、最も形式の整ったものの一つです。
===現地説明板より===

旧楠本正隆屋敷②2009年05月01日 09時10分32秒

(写真をクリックすると大きくなります)===屋敷見取り図===
◇◇◇この屋敷は、長崎府判事であった正隆によって明治三年に建てられたものです。建物は寄棟造り、桟瓦葺き、平屋建て一部2階の主家と渡り廊下で結ばれた別棟の離れからできています。建物の様式から、近世武家住宅の系譜を引くもので、建物だけでなく石垣、庭園などを含めた屋敷地の全体がほぼそのまま残っており、旧大村藩内に残る武家屋敷の遺構としては、最も形式の整ったものの一つです。 ◇◇◇

旧楠本正隆屋敷③2009年05月01日 09時23分00秒

(写真をクリックすると大きくなります)===旧楠本正隆屋敷内===
◇◇◇この屋敷は幕末から明治にかけて活躍した政治家楠本正隆の旧家です。正隆は、幕末大村藩三十七士の一人として、倒幕から維新に活躍しました。明治新政府では、行政官として、新潟県令・東京府知事などを歴任し、近代的都市づくりに貢献しました。後には国会議員となり、衆議院議長を務めました。屋敷・庭園とも良く残され、大村の武家屋敷の貴重な遺構として公開され、建物が長崎県の有形文化財に、建物を含む敷地全体が、大村市の史跡に指定されています。 ◇◇◇
◇◇◇旧楠本正隆屋敷◇◇◇
(click..play)(click..play)
この屋敷は幕末から明治にかけて活躍した政治家楠本正隆の旧家です。正隆は、幕末大村藩三十七士の一人として、倒幕から維新に活躍しました。明治新政府では、行政官として、新潟県令・東京府知事などを歴任し、近代的都市づくりに貢献しました。後には国会議員となり、衆議院議長を務めました。屋敷・庭園とも良く残され、大村の武家屋敷の貴重な遺構として公開され、建物が長崎県の有形文化財に、建物を含む敷地全体が、大村市の史跡に指定されています。

旧楠本正隆屋敷④2009年05月01日 09時25分32秒

(写真をクリックすると大きくなります)===旧楠本正隆屋敷玄関===

旧楠本正隆屋敷⑤2009年05月01日 09時31分43秒

(写真をクリックすると大きくなります)===楠本正隆記念碑===
◇◇◇この記念碑は、衆議院議長、男爵楠本正隆を顕彰するため、明治三七年八月、貴族院議員伯爵大村純雄等によって、現東京都港区芝公園に建てられたものです。建設当初、縦二丈一尺(6m36cm)横九尺(2m72cm)あり、大変大きな記念碑でしたが、その後、長い年月の間に碑は二つに折れてしまいました。大村市では、旧楠本正隆屋敷の整備にあたり、とくに東京都にお願いしてお譲りいただいたものです。◇◇◇
◇◇◇楠本正隆記念碑◇◇◇
(click..play)(click..play)
この記念碑は、衆議院議長、男爵楠本正隆を顕彰するため、明治三七年八月、貴族院議員伯爵大村純雄等によって、現東京都港区芝公園に建てられたものです。建設当初、縦二丈一尺(6m36cm)横九尺(2m72cm)あり、大変大きな記念碑でしたが、その後、長い年月の間に碑は二つに折れてしまいました。大村市では、旧楠本正隆屋敷の整備にあたり、とくに東京都にお願いしてお譲りいただいたものです。
===楠本正隆記念碑説明版より===

旧楠本正隆屋敷⑥2009年05月01日 09時33分32秒

(写真をクリックすると大きくなります)===楠本正隆記念碑===
◇◇◇この記念碑は、衆議院議長、男爵楠本正隆を顕彰するため、明治三七年八月、貴族院議員伯爵大村純雄等によって、現東京都港区芝公園に建てられたものです。建設当初、縦二丈一尺(6m36cm)横九尺(2m72cm)あり、大変大きな記念碑でしたが、その後、長い年月の間に碑は二つに折れてしまいました。大村市では、旧楠本正隆屋敷の整備にあたり、とくに東京都にお願いしてお譲りいただいたものです。現在では、楠本正隆屋敷横にある駐車場山手側に折れた記念碑を写真のように、修復し建てられています。◇◇◇
◇◇◇楠本正隆記念碑◇◇◇
(click..play)(click..play)
この記念碑は、衆議院議長、男爵楠本正隆を顕彰するため、明治三七年八月、貴族院議員伯爵大村純雄等によって、現東京都港区芝公園に建てられたものです。建設当初、縦二丈一尺(6m36cm)横九尺(2m72cm)あり、大変大きな記念碑でしたが、その後、長い年月の間に碑は二つに折れてしまいました。大村市では、旧楠本正隆屋敷の整備にあたり、とくに東京都にお願いしてお譲りいただいたものです。現在では、楠本正隆屋敷横にある駐車場山手側に折れた記念碑を写真のように、修復し建てられています。

旧楠本正隆屋敷⑦2009年05月01日 09時35分27秒

(写真をクリックすると大きくなります)===長崎街道案内絵図===

旧楠本正隆屋敷⑧2009年05月01日 09時38分31秒

(写真をクリックすると大きくなります)===楠本正隆屋敷西門===

日向平武家屋敷跡①2009年05月02日 10時03分16秒

(写真をクリックすると大きくなります)=== 日向平武家屋敷跡===
◇◇◇藩主の大村喜前が、慶長4年(1599年)玖島城を築いて、元の三城の城下町を移し、各地に住んでいた家臣を玖島城下に住まわせ、城下町を形成しました。江戸末期には、164軒を超える武家屋敷が建ち並んでいたと言われており、今もなお残る武家屋敷跡や石垣に当時の面影がしのばれます。慶応元年(1865年)に、大村藩の元締役を務めた中尾静摩が建てた屋敷です。寄棟造り一部二階・平屋建ての建物を前後に二棟並べ、その間を部屋と両側二本の廊下で連結した広大なものです。玖島城下に残る民間の武家住宅としては最も保存状態が良く、歴史的景観を構成する貴重な要素となっています。内部の見学はできません。◇◇◇
◇◇◇日向平(ひなたびら)武家屋敷跡◇◇◇
(click..play)(click..play)
藩主の大村喜前が、慶長4年(1599年)玖島城を築いて、元の三城の城下町を移し、各地に住んでいた家臣を玖島城下に住まわせ、城下町を形成しました。江戸末期には、164軒を超える武家屋敷が建ち並んでいたと言われており、今もなお残る武家屋敷跡や石垣に当時の面影がしのばれます。慶応元年(1865年)に、大村藩の元締役を務めた中尾静摩が建てた屋敷です。寄棟造り一部二階・平屋建ての建物を前後に二棟並べ、その間を部屋と両側二本の廊下で連結した広大なものです。玖島城下に残る民間の武家住宅としては最も保存状態が良く、歴史的景観を構成する貴重な要素となっています。内部の見学はできません。

日向平武家屋敷跡②2009年05月02日 10時11分54秒

(写真をクリックすると大きくなります)===日向平武家屋敷跡===
◇◇◇この通りは江戸末期には、164軒を超える武家屋敷が建ち並んでいたと言われており、今もなお残る武家屋敷跡や石垣に当時の面影がしのばれます。慶応元年(1865年)に、大村藩の元締役を務めた中尾静摩が建てた屋敷です。寄棟造り一部二階・平屋建ての建物を前後に二棟並べ、その間を部屋と両側二本の廊下で連結した広大なものです。玖島城下に残る民間の武家住宅としては最も保存状態が良く、歴史的景観を構成する貴重な要素となっています。◇◇◇
◇◇◇日向平(ひなたびら)武家屋敷跡石垣◇◇◇
(click..play)(click..play)
この通りは江戸末期には、164軒を超える武家屋敷が建ち並んでいたと言われており、今もなお残る武家屋敷跡や石垣に当時の面影がしのばれます。慶応元年(1865年)に、大村藩の元締役を務めた中尾静摩が建てた屋敷です。寄棟造り一部二階・平屋建ての建物を前後に二棟並べ、その間を部屋と両側二本の廊下で連結した広大なものです。玖島城下に残る民間の武家住宅としては最も保存状態が良く、歴史的景観を構成する貴重な要素となっています。

(C) Script by ja4chu