竹崎城 ① ― 2009年06月07日 10時09分47秒
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竹崎城は南北朝時代(1378年頃)に足利尊氏の反逆にたいして、南朝に対して、南朝の懐良新王に味方して、島原の有馬泰隆が築城し、足利方(今川了俊)の大軍を退けたといわれている。
この地区は戦国時代有馬氏(島原)と龍造寺氏(肥前)両者の勢力の接点であったため、攻防が繰り返された。この時代の末、龍造寺家晴によって修築されその後、龍造寺家(諫早家)の出城として重要な役割を果たしてきたが島原の乱(1637年~38年)後取り壊されたと伝えられている。
竹崎城址展望台の位置は、竹崎観世音の「拝み堂」の跡地と伝えられる場所である。竹崎観世音の由来は、和銅2年(709年)行基菩薩によって開基され、平安時代藤津郡付近は京の仁和寺の荘園であった。そして、後深草天皇の頃は、竹崎観世音寺は仁和寺の末寺で勅願寺として33坊が建ち並び隆盛を極めたと言われている。
太良町は、地元竹崎地区から通称拝み堂といわれる土地を含め、26.679hmの寄贈を受け、全面的な協力と支援のもとに、平成3年度に竹崎アイランド構想の一連として竹崎城址展望台の建設に着手し、平成4年度に完成しました。
竹崎城 ② ― 2009年06月07日 10時13分27秒
竹崎城 ③ ― 2009年06月07日 10時15分02秒
竹崎城 ④ ― 2009年06月07日 10時20分45秒
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天授4年(1378年)今から621年前島原の有馬隆泰は、懐良(かねなが)親王に味方して兵をあげ、 この竹崎城を構築してたて籠り、足利方の鎮西探題今川了俊の大軍を退けて功を立てました。今太良町内に古城址と伝えられる伊福城、城山城(瀬戸)、正知田城(川原)、八幡城(北町)、 城の辻(陣の内)等もこの時代に築かれ、竹崎城を中心にして、南朝方の味方をしたものと 言われています。
竹崎城は、その後も幾度かの攻防の歴史を秘めております。この城は、竹崎島の特殊の地形を 利用した水陸両面に備えた山城と水城との性格を合わせもつ、構築様式で、中世の城郭研究上 重要なものであるが、城郭の主要部分は殆んど破壊されていて、往時の規模や構造を偲ぶことは できません。現在、僅かに東西500メートル、南北600メートルにわたる石垣の一部が残り、又、 幅10メートル、深さ6メートル、長さ40メートルにわたる空濠が二條残っているにすぎません。
竹崎城 ⑤ ― 2009年06月07日 10時25分41秒
竹崎城 ⑥ ― 2009年06月07日 10時27分39秒
竹崎城 ⑦ ― 2009年06月07日 10時30分24秒
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竹崎城は南北朝時代(1378年頃)に足利尊氏の反逆にたいして、南朝に対して、南朝の懐良新王に味方して、島原の有馬泰隆が築城し、足利方(今川了俊)の大軍を退けたといわれている。この地区は戦国時代有馬氏(島原)と龍造寺氏(肥前)両者の勢力の接点の接点であったため、攻防が繰り返された。
この時代の末、龍造寺家晴によって修築されその後、龍造寺家(諫早家)の出城として重要な役割を果たしてきたが島原の乱(1637年~38年)後取り壊されたと伝えられている。 竹崎城址展望台の位置は、竹崎観世音の「拝み堂」の跡地と伝えられる場所である。
竹崎観世音の由来は、和銅2年(709年)行基菩薩によって開基され、平安時代藤津郡付近は京の仁和寺の荘園であった。そして、後深草天皇の頃は、竹崎観世音寺は仁和寺の末寺で勅願寺として33坊が建ち並び隆盛を極めたと言われている。太良町は、地元竹崎地区から通称拝み堂といわれる土地を含め、26.679hmの寄贈を受け、全面的な協力と支援のもとに、平成3年度に竹崎アイランド構想の一連として竹崎城址展望台の建設に着手し、平成4年度に完成しました。
竹崎城 ⑧ ― 2009年06月07日 10時33分14秒
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夜燈鼻燈台跡外海から流れ入る有明海の潮流は、竹崎沖で東西に大きく分かれ、佐賀方面と諫早方面へと流れて満潮となり、干潮には逆流して竹崎沖で合流し外海へと出る。この分岐と合流の複雑な浪立ちが竹崎沖の三角浪といわれた。
さらに近くに鶴ノ瀬の岩礁があり、海の難所と恐れられ、海難事故が多かった。もともと夜燈鼻と佐賀( 厘外)港には燈台が立ち、それぞれ近くの寺が管理して来た。その後、しばらく中絶していたのを寛延年間(1748年~50年)、諫早領の家老 早田番佐衛門が再建したが、文政11年(1828年)の大風で倒れたので、明治2年(1869年)番佐衛門五世の孫 早田市右衛門が再建した。
これが我が国燈台史上初の11面ガラス鏡式洋風燈台である。それまで竹崎観世音寺で管理していたが廃止となり、昭和29年(1954年)海上保安庁により新燈台が設立され現在に至っている。その跡に佐賀藩、国学副教授 武富圯南(いなん)の筆による照海灯の碑が建っている。
===現地説明版より===
竹崎城 ⑨ ― 2009年06月07日 10時35分21秒
この場所に今から250年位前に諫早藩の 早田番左衛門という人が、再建しましたが、文政11年、大風で倒れてしまいました。そして、明治2年、番左衛門の五世の孫、早田市右衛門がこの地に再建しました。これが我が国、 燈台史上初めての十一面ガラス鏡式洋風燈台で、その当時は最新式のものでした。それまでは、 竹崎観世音寺で管理していましたが、昭和29年海上保安庁により、新燈台が設立されて現在に 至っています。今、その跡に佐賀藩、国学副教授でありました武富圯南(いなん)の筆による照海燈の碑が建てられています。
===現地説明版より===
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