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豊浦山 神上寺 ⑩2009年08月01日 14時53分11秒

(写真をクリックすると大きくなります)==近松門左衛門誕生之地石碑== 江戸時代の初め、身重になった女中が世に憚って出産したいと、神上寺に救いを求めてきた。然し、神上寺は女人禁制で囲うこともできず、山門前の寺侍木川家に総てを頼んだ。木川家では家の前の川沿いの地に小屋掛けして住まわせ、月満ちて男子が誕生した。その後、時を経て、西市などで浄瑠璃芝居があると、その作者は近松門左衛門で、神上寺山門前で生まれた男の子その人であもということで、この地を近松屋敷と言うようになった。以上が、神上寺前一帯から、豊田郷に広く伝わる伝説である。 (参考)下関の郷土史家 吉村藤舟の説長府藩家老 椙杜元周の子息、広品(ひろがず)(13才)と、その子守役の奥女中との間に生まれたのが、即ち、この小屋で生まれた男子である。この子を平馬と名付け、神上寺で養われていたが、母と別れて、赤間関 永福寺から、唐津の近松寺で僧侶となり祖門と称じて上洛した。京都では還俗して越前藩の杉森家に寄宿して、椙杜信盛と称したのが、後の近松門左衛門であるという。
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◇◇近松門左衛門出生伝説地◇◇
江戸時代の初め、身重になった女中が世に憚って出産したいと、神上寺に救いを求めてきた。然し、神上寺は女人禁制で囲うこともできず、山門前の寺侍木川家に総てを頼んだ。木川家では家の前の川沿いの地に小屋掛けして住まわせ、月満ちて男子が誕生した。その後、時を経て、西市などで浄瑠璃芝居があると、その作者は近松門左衛門で、神上寺山門前で生まれた男の子その人であもということで、この地を近松屋敷と言うようになった。以上が、神上寺前一帯から、豊田郷に広く伝わる伝説である。
(参考)下関の郷土史家 吉村藤舟の説長府藩家老 椙杜元周の子息、広品(ひろがず)(13才)と、その子守役の奥女中との間に生まれたのが、即ち、この小屋で生まれた男子である。この子を平馬と名付け、神上寺で養われていたが、母と別れて、赤間関 永福寺から、唐津の近松寺で僧侶となり祖門と称じて上洛した。京都では還俗して越前藩の杉森家に寄宿して、椙杜信盛と称したのが、後の近松門左衛門であるという。
===現地説明板より===

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