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紅葉の功山寺 (下関)2009年12月01日 09時18分37秒

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===功山寺山門===
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写真をクリックすると大きくなります。 この壮大な二重櫓造りの功山寺山門は、安永二年(1773年)長府藩主十代、毛利匡芳の命により建立(再建)されたものです。山門(山門)とは、本堂へ入るのに通らねばならない門、三解脱門(空・無相・無作)にたとえ、その略からといわれています。禅僧の門にみられる三間三戸二重門。二階楼上に釈迦・十六羅漢を置くのが普通ですが、この櫓の中には市指定文化財(彫刻)の二十八部衆立像が、国宝の仏殿の中から移されて安置されています。建築様式の特徴として、土間に自然石の礎石(礎盤)を並べ、本柱四本と控柱八本で支えられた重厚な門、入母屋造り、本瓦で葺かれた屋根は見事な反りを見せています。また、櫓を支えている太い十二本の柱は全て円柱で柱の上部を僅かに円く削りこみ、その下部先端は急に細めた、粽型となっています。山門の建築資材は、これまでに度々修理が施されていますが、その箇所を除いて、すべて欅の素木を用いて建てられています。木鼻等の彫刻物、および組物を含め簡素な中にも重厚さを秘めた功山寺の山門は、この時代の禅宗洋式を今に伝える貴重な文化財です。

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◇◇◇功山寺山門◇◇◇
この壮大な二重櫓造りの功山寺山門は、安永二年(1773年)長府藩主十代、毛利匡芳の命により建立(再建)されたものです。山門(山門)とは、本堂へ入るのに通らねばならない門、三解脱門(空・無相・無作)にたとえ、その略からといわれています。禅僧の門にみられる三間三戸二重門。二階楼上に釈迦・十六羅漢を置くのが普通ですが、この櫓の中には市指定文化財(彫刻)の二十八部衆立像が、国宝の仏殿の中から移されて安置されています。建築様式の特徴として、土間に自然石の礎石(礎盤)を並べ、本柱四本と控柱八本で支えられた重厚な門、入母屋造り、本瓦で葺かれた屋根は見事な反りを見せています。また、櫓を支えている太い十二本の柱は全て円柱で柱の上部を僅かに円く削りこみ、その下部先端は急に細めた、粽型となっています。山門の建築資材は、これまでに度々修理が施されていますが、その箇所を除いて、すべて欅の素木を用いて建てられています。木鼻等の彫刻物、および組物を含め簡素な中にも重厚さを秘めた功山寺の山門は、この時代の禅宗洋式を今に伝える貴重な文化財です。
===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===功山寺仏殿===
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写真をクリックすると大きくなります。 この功山寺仏殿は鎌倉時代末期の唐様(禅宗様)建築様式の典型的な建造物です。床は四半瓦敷、礎石と柱の間に木製の礎盤を入れ柱は上下部分が細く粽型になっています。見事な曲線美を見せる檜皮葺、入母屋造りの屋根を支えている化粧棰は天井中央より放射状に配置され、扇棰とも呼ばれています。また、二重屋根の内部の組み上がりの高さが異なった箇所を補うために海老虹梁(梁と同意)が用いられています。さらに前面両角には釣鐘型の特徴をもった花頭窓を有するなど、 我が国最古の禅寺洋式がよく残されており、鎌倉の円覚寺舎利殿同様、寺院建築史上、貴重な建築物です。この仏殿は、内陣柱上部に「此堂元應二年卯月五日柱立」の墨書があることから、西暦1320年に建てられたものとみられています。功山寺はもと臨済宗・長福寺と呼ばれていましたが、毛利秀元により曹洞宗・笑山寺と改称、さらに慶安3年 (1650年)秀元の没後、戒名(功山玄譽大居士)をもって功山寺と改称しています。

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◇◇◇功山寺仏殿◇◇◇
この功山寺仏殿は鎌倉時代末期の唐様(禅宗様)建築様式の典型的な建造物です。床は四半瓦敷、礎石と柱の間に木製の礎盤を入れ柱は上下部分が細く粽型になっています。見事な曲線美を見せる檜皮葺、入母屋造りの屋根を支えている化粧棰は天井中央より放射状に配置され、扇棰とも呼ばれています。また、二重屋根の内部の組み上がりの高さが異なった箇所を補うために海老虹梁(梁と同意)が用いられています。さらに前面両角には釣鐘型の特徴をもった花頭窓を有するなど、 我が国最古の禅寺洋式がよく残されており、鎌倉の円覚寺舎利殿同様、寺院建築史上、貴重な建築物です。この仏殿は、内陣柱上部に「此堂元應二年卯月五日柱立」の墨書があることから、西暦1320年に建てられたものとみられています。功山寺はもと臨済宗・長福寺と呼ばれていましたが、毛利秀元により曹洞宗・笑山寺と改称、さらに慶安3年 (1650年)秀元の没後、戒名(功山玄譽大居士)をもって功山寺と改称しています。
===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===功山寺境内===
(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===功山寺境内===

(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===五重石塔===
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(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===長府博物館石段===
(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===万骨塔===
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写真をクリックすると大きくなります。 この万骨塔は昭和八年(1933年)十月、当地に「長門尊攘堂」を創設した桂弥一が、日本各地から石を取り寄せて建設した慰霊塔で、有名・無名の勤王の士を、当時の府県毎に祀っていた。なお、名称は「一将功成って万骨枯るに由来する。

◇◇◇万 骨 塔◇◇◇
昭和八年(1933年)十月、当地に「長門尊攘堂」を創設した桂弥一が、日本各地から石を取り寄せて建設した慰霊塔で、有名・無名の勤王の士を、当時の府県毎に祀っていた。なお、名称は「一将功成って万骨枯るに由来する。