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今日はです

新年のご挨拶。2010年01月01日 00時00分00秒

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===唐津城===

写真をクリックすると大きくなります。 ◇◇◇新年のご挨拶。明けましておめでとうございます。本年も宜しく御願い致します。◇◇◇

(click..play)(click..play) ===新年のご挨拶===

吉木九重石塔(大分県国東)2010年01月16日 10時38分50秒

(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===吉木九重塔===
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写真をクリックすると大きくなります。 この九重石塔は南北朝期に活躍した、飯塚城主、第二代田原氏能(うじよし)が、父・貞広の供養をするために建立したものと伝えられています。基礎は四重。第四重の各面は二区に別れ、それぞれに格狭間(こうざま)が刻まれています。第一層の軸部の四面には、金剛界四方仏 (阿閦如来(あしゅくにょらい)=東・無量寿如来(むりょじゅにょらい)=西・ 宝生如来(ほうしょうにょらい)=南・不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)=北)の種子が力強く薬研彫りされています。最上層の笠から上を欠いていますが、鎌倉時代の様式を遺憾なく表現した力量感のあふれる豪壮な秀作です。総高6.12メートル。===現地説明板より===◇◇◇所在地=大分県国東市国東町大字北江◇◇◇吉木(よしき)九重石塔(県指定文化財、鎌倉時代後期 、凝灰岩、◇◇◇高さ=( 6m12cm)

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◇所在地=大分県国東市国東町大字北江 ◇吉木(よしき)九重石塔(県指定文化財、鎌倉時代後期 、凝灰岩、高さ=( 6m12cm)
この九重石塔は南北朝期に活躍した、飯塚城主、第二代田原氏能(うじよし)が、父・貞広の供養をするために建立したものと伝えられています。基礎は四重。第四重の各面は二区に別れ、それぞれに格狭間(こうざま)が刻まれています。第一層の軸部の四面には、金剛界四方仏 (阿閦如来(あしゅくにょらい)=東・無量寿如来(むりょじゅにょらい)=西・ 宝生如来(ほうしょうにょらい)=南・不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)=北)の種子が力強く薬研彫りされています。最上層の笠から上を欠いていますが、鎌倉時代の様式を遺憾なく表現した力量感のあふれる豪壮な秀作です。総高6.12メートル。
===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===現地説明板===
(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===吉木九重石塔碑===
(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===吉木九重石塔===
基礎部は四重。最上層の笠から上を欠いていますが、鎌倉時代の様式を遺憾なく表現した力量感のあふれる豪壮な秀作です。総高6.12メートル。

深見五重の塔 (大分県安心院)2010年01月19日 10時23分18秒

(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===深見五重の塔===
(写真をクリックすると大きくなります) 600x800===深見五重の塔===
昭和五十八年京都の醍醐寺五重の塔をモデルに建立され、朱塗りの堂々とした建築美を誇っている。◇御開帳◇毎月十五日、春秋の彼岸 、正月、お盆の各三日間です。
(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===深見五重の塔===

写真をクリックすると大きくなります。 ◇◇◇定樹山大建寺深見五重の塔 ◇◇◇この五重の塔は糸永貞樹翁が故郷への報恩感謝の念をこめて建立したものです。翁は明治28年4月15日当地鳥越で此の世に生を享け、18才の時に身一つで東京に出て、文字通り苦学力行、ユフ精器株式会社 (医療機器関係)を設立一代の成功者となりました。翁は常々今日、自分があるのは第一には両親をはじめ先祖のおかげであり、第二はこれまで接してきた周囲の多数の方々のおかげであると言っておりました。 郷土鳥越の地に平安から鎌倉にかけて栄えた大建寺と言う由緒あるお寺がありましたが、何時の時代にか廃寺となっており、大建寺跡地にふさわしい五重の塔を建立して、我が国の古き良き伝統を形として郷土に残したいと思い、美しさに定評のある平安時代建立の京都の国宝 醍醐寺の五重の塔をモデルに、昭和58年4月15日翁の88才の誕生日に米寿を記念して落慶したものです。九州においては唯一の木造五重の塔です。===現地五重塔建立之記より===

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◇塔 名=定樹山大建寺深見五重の塔 ◇ 所在地=大分県宇佐市安心院町鳥越 ◇総高(地盤面より)=28m17cm
◇◇◇定樹山大建寺深見五重の塔 ◇◇◇
この五重の塔は糸永貞樹翁が故郷への報恩感謝の念をこめて建立したものです。翁は明治28年4月15日当地鳥越で此の世に生を享け、18才の時に身一つで東京に出て、文字通り苦学力行、ユフ精器株式会社 (医療機器関係)を設立一代の成功者となりました。翁は常々今日、自分があるのは第一には両親をはじめ先祖のおかげであり、第二はこれまで接してきた周囲の多数の方々のおかげであると言っておりました。 郷土鳥越の地に平安から鎌倉にかけて栄えた大建寺と言う由緒あるお寺がありましたが、何時の時代にか廃寺となっており、大建寺跡地にふさわしい五重の塔を建立して、我が国の古き良き伝統を形として郷土に残したいと思い、美しさに定評のある平安時代建立の京都の国宝 醍醐寺の五重の塔をモデルに、昭和58年4月15日翁の88才の誕生日に米寿を記念して落慶したものです。九州においては唯一の木造五重の塔です。
===現地五重塔建立之記より===
◇◇◇糸永貞樹翁 銅像◇◇◇
(写真をクリックすると大きくなります) 800x600 糸永貞樹翁 銅像
糸永貞樹翁が故郷への報恩感謝の念をこめて建立したものです。翁は明治28年4月15日当地鳥越で此の世に生を享け、18才の時に身一つで東京に出て、文字通り苦学力行、ユフ精器株式会社 (医療機器関係)を設立一代の成功者となりました。
◇◇◇観音像(大建寺平和観音)◇◇◇
(写真をクリックすると大きくなります) 800x600 観音像(大建寺平和観音)
世界の恒久平和と人類の永遠の幸せを念じて昭和五十八年建立。 高さ十メートルの白御影石の一本彫りである。堂内には財宝幸福知恵長寿を守り災厄を祓う千手観音や海運宝珠観音、白衣薬師観音が安置してあります。
◇◇◇定樹山大建寺山門◇◇◇
大建寺山門には左右一対の仁王像が安置されています。樹齢六百年の欅(ケヤキ)の一本彫りです。欅(ケヤキ)の木目が薄っすらと見え印象的です。
定樹山大建寺山門仁王像左側 (写真をクリックすると大きくなります)
定樹山大建寺山門仁王像右側 (写真をクリックすると大きくなります)
観音像と五重の塔(写真をクリックすると大きくなります)
高さ十メートルの白御影石の一本彫りである。堂内には財宝幸福知恵長寿を守り災厄を祓う千手観音や海運宝珠観音、白衣薬師観音が安置してあります。

慈恩の滝(大分県天瀬)2010年01月29日 11時34分44秒

(写真をクリックすると大きくなります) 768x1024===慈恩の滝===
所在地=大分県日田市天瀬町 落差=30m (上段20m下段10m)幅=10m

写真をクリックすると大きくなります。◇◇◇慈恩の滝の由来◇◇◇今からおよそ千数百年の昔、この滝壷の中に大蛇が住んでいた。或る年の麦の実る頃、夜中にこの大蛇が滝壷より這い出して麦畑の中でのたうちまわり農民の汗による麦を荒してしまいわづか一夜で近郷の麦畑はほとんど全滅に近い被害を受けその年の秋の実りの田もこの大蛇に荒され其の後数年間、田畑を荒され続けた。このため農民はホトホトこまり八方手をつくし何とか大蛇を鎮めんものと、或るときは、加持祈祷に、またあるときは、滝壷に竹網を張るなどしたがその甲斐もなく大蛇に荒され農民は食べるものもなく困窮の果て、先祖より受けついだ田畑を捨て、家を捨てる者が続出しこの地域をはなれて行ったのである。 こんな年の・・・・夏の夕暮れどき、地域を通りかかった旅僧がこのありさまを聞き、及ばづながら経の功力により大蛇を鎮めて見ようと、その夜折から登る月光の下滝しぶきのかかるあたりに座して一心に読経を続けておりますと、やがて急に滝壷に逆渦巻が起り、波の中から凄まじい形相の大蛇が姿を現わしたのである。これを見た旅僧はそのような浅ましい姿では経を聞くことは出来まい。・・「心をやわらげ、姿を変えて現われよ」と、さとした。すると大蛇は、ザブンと水中に身を沈め、しばらくしてこんどは頭だけ大きく胴体は筆の軸位に痩細り長さは二丈(7m)あまり見るもあわれな姿で水の上に現れた。旅僧は大蛇に向い法を説きながら、「何故に田畑を荒すのか」と問いただすと、大蛇は頭を胴の方に向けて曲げ舌の先で体中を舐め始めたので、旅僧は大蛇に近づき、よく見ると、鱗の間に全身虫が寄生しているのを発見した旅僧はこの大蛇をあわれに思い、その胴体の上を経文で撫でさすると、大蛇は目を細め旅僧のなすままに静かにしていて、病気もよくなりその後は一度も田畑を荒すことなく稲や麦も実り農民の喜びは大変なものであった。農民はこの旅僧のために一つの寺を建立し慈恩寺と名付け寄進した。しかし慈恩寺は戦国の争乱で大分府内の領主大友宗麟の軍により滅失したのである。

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◇◇◇慈恩の滝の由来◇◇◇

今からおよそ千数百年の昔、この滝壷の中に大蛇が住んでいた。或る年の麦の実る頃、夜中にこの大蛇が滝壷より這い出して麦畑の中でのたうちまわり農民の汗による麦を荒してしまいわづか一夜で近郷の麦畑はほとんど全滅に近い被害を受けその年の秋の実りの田もこの大蛇に荒され其の後数年間、田畑を荒され続けた。このため農民はホトホトこまり八方手をつくし何とか大蛇を鎮めんものと、或るときは、加持祈祷に、またあるときは、滝壷に竹網を張るなどしたがその甲斐もなく大蛇に荒され農民は食べるものもなく困窮の果て、先祖より受けついだ田畑を捨て、家を捨てる者が続出しこの地域をはなれて行ったのである。 こんな年の・・・・夏の夕暮れどき、地域を通りかかった旅僧がこのありさまを聞き、及ばづながら経の功力により大蛇を鎮めて見ようと、その夜折から登る月光の下滝しぶきのかかるあたりに座して一心に読経を続けておりますと、やがて急に滝壷に逆渦巻が起り、波の中から凄まじい形相の大蛇が姿を現わしたのである。これを見た旅僧はそのような浅ましい姿では経を聞くことは出来まい。・・「心をやわらげ、姿を変えて現われよ」と、さとした。すると大蛇は、ザブンと水中に身を沈め、しばらくしてこんどは頭だけ大きく胴体は筆の軸位に痩細り長さは二丈(7m)あまり見るもあわれな姿で水の上に現れた。旅僧は大蛇に向い法を説きながら、「何故に田畑を荒すのか」と問いただすと、大蛇は頭を胴の方に向けて曲げ舌の先で体中を舐め始めたので、旅僧は大蛇に近づき、よく見ると、鱗の間に全身虫が寄生しているのを発見した旅僧はこの大蛇をあわれに思い、その胴体の上を経文で撫でさすると、大蛇は目を細め旅僧のなすままに静かにしていて、病気もよくなりその後は一度も田畑を荒すことなく稲や麦も実り農民の喜びは大変なものであった。農民はこの旅僧のために一つの寺を建立し慈恩寺と名付け寄進した。しかし慈恩寺は戦国の争乱で大分府内の領主大友宗麟の軍により滅失したのである。


===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===昇り竜===
慈恩の滝そばに建立された龍、名版には上昇喜龍と記されています。
(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===河童===

整備された遊歩道を川沿いに行くと、岩の上に可愛らしい河童が目につきます。更に進むと滝の裏側に行けるのですが只今工事中に付き入れませんの看板があり裏側に行く事が出来ませんでした。

三日月の滝(大分県玖珠)2010年01月30日 13時31分28秒

(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===三日月の滝===

三日月の瀧 平安時代、京の都で醍醐天皇の御孫姫、小松女院と、笛の名手、清原正高少納言は恋をしますが身分の違いもあり、正高は豊後の国に配せられます。 小松女院は正高の後を慕って穴井四郎弘次・荘隈次郎利勢と十一人の侍女を伴いはるばると当地までやってきました。 滝のほとりで一人の老樵に出合い正高はすでに矢野氏の娘を娶り長野の館に住んでいることを聞き、今は尋ねても詮なきことと、旅に使った笠や衣を松の枝に掛け辞世の歌「笛竹のひとよの節と知るならば 吹くとも風になびかざらまし」と詠み十一人の侍女と手を携えて瀧の水底に身を投じました。 正高はこの事を聞いて驚き里人と淵瀬を探し、小松女院と侍女の御遺骸を引き揚げ御墓所をつくり、神社を建て御魂を鎮められました。 玖珠川を挟む、嵐山・桜ヶ岡両瀧神社では現在も入水の日を祭日として厳粛に大祭が催されています。

◇◇◇三日月の滝◇◇◇

平安時代、京の都で醍醐天皇の御孫姫、小松女院と、笛の名手、清原正高少納言は恋をしますが身分の違いもあり、正高は豊後の国に配せられます。 小松女院は正高の後を慕って穴井四郎弘次・荘隈次郎利勢と十一人の侍女を伴いはるばると当地までやってきました。 滝のほとりで一人の老樵に出合い正高はすでに矢野氏の娘を娶り長野の館に住んでいることを聞き、今は尋ねても詮なきことと、旅に使った笠や衣を松の枝に掛け辞世の歌「笛竹のひとよの節と知るならば 吹くとも風になびかざらまし」と詠み十一人の侍女と手を携えて瀧の水底に身を投じました。 正高はこの事を聞いて驚き里人と淵瀬を探し、小松女院と侍女の御遺骸を引き揚げ御墓所をつくり、神社を建て御魂を鎮められました。 玖珠川を挟む、嵐山・桜ヶ岡両瀧神社では現在も入水の日を祭日として厳粛に大祭が催されています。

===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===三日月の滝===
所在地=大分県玖珠郡玖珠町

落差約5m幅約50mの滝で、馬蹄形の滝壁を持つことから、その形を三日月に例えて三日月の滝と呼ばれています。

竜門の滝 (大分県玖珠)2010年01月31日 10時11分43秒

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竜門の滝由来、 国定公園であり元内務省名勝指定地「竜門の滝」は寛元年中(750余年前)鎌倉時代に宋朝より蘭渓道隆禅師が来朝の砌り当地に杖を留められ、この滝をご覧になられ形容が唐土河南府の竜門の滝に似ているので、この滝を「竜門の滝」と名付け、またこの地の奇景十二の名所を定め傍に一寺を建立し吉祥山竜門寺とされました。

(C) Script by ja4chu
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この滝は 国定公園であり元内務省名勝指定地「竜門の滝」は寛元年中(750余年前)鎌倉時代に宋朝より蘭渓道隆禅師が来朝の砌り当地に杖を留められこの滝をご覧になられ形容が唐土河南府の竜門の滝に似ているのでこの滝を「竜門の滝」と名付け、またこの地の奇景十二の名所を定め傍に一寺を建立し吉祥山竜門寺とされました。


===現地説明板より===
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この竜門の滝は中間に滝壷がある二段落としの滝で、全体としては幅40m、落差20mの滝である。1段目の滝は深い滝壷を穿っており、この滝壺をに溜まった水が流れ出す2段目の滝は滑らかで、夏季には滝滑りの子どもでにぎわう。この滝滑りの様子は地元の夏の風物詩ともなっています。

===所在地===大分県玖珠郡九重町===