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豊後森 機関庫(大分県玖珠)2010年02月06日 12時00分32秒

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===豊後森 機関庫===
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この建物は昭和9年に建設され、蒸気機関車からディーゼル機関車へ切り替わる昭和46年まで使われていた豊後森機関庫です。豊後森機関庫は久留米と大分を結ぶ久大本線の中間にあり、蒸気機関車を動かすのに不可欠な石炭と水を補給し、さらに機関車の点検や修理を行う中継基地として、最盛期の昭和23年頃には250人を超える従業員が働いていました。しかし、昭和46年に久大本線で全ての蒸気機関車がディーゼル機関車に置き換わったのを機に、この豊後森機関庫は廃止になり、以後40年近く放置されて来ています。豊後森機関庫は扇形の機関庫であり、京都の梅小路機関庫、岡山の津山機関庫と全国でも数カ所しか現存しておらず、九州では唯一現存している機関庫です。また、敷地内には機関車を回転させ、向きを変える転車台も残されています。このように豊後森機関庫は日本に現存する数少ない扇形機関庫として貴重な鉄道遺産です。

◇◇◇豊後森機関庫◇◇◇
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この建物は昭和9年に建設され、蒸気機関車からディーゼル機関車へ切り替わる昭和46年まで使われていた豊後森機関庫です。豊後森機関庫は久留米と大分を結ぶ久大本線の中間にあり、蒸気機関車を動かすのに不可欠な石炭と水を補給し、さらに機関車の点検や修理を行う中継基地として、最盛期の昭和23年頃には250人を超える従業員が働いていました。しかし、昭和46年に久大本線で全ての蒸気機関車がディーゼル機関車に置き換わったのを機に、この豊後森機関庫は廃止になり、以後40年近く放置されて来ています。豊後森機関庫は扇形の機関庫であり、京都の梅小路機関庫、岡山の津山機関庫と全国でも数カ所しか現存しておらず、九州では唯一現存している機関庫です。また、敷地内には機関車を回転させ、向きを変える転車台も残されています。このように豊後森機関庫は日本に現存する数少ない扇形機関庫として貴重な鉄道遺産です。


(写真をクリックすると大きくなります)800x600===豊後森 機関庫説明板===

>◇◇◇豊後森機関庫の歴史◇◇◇●昭和9年5月8日(1934年)熊本建設省より森駅に正式工事認可おりる。 5月より工事着工にかかる。●昭和9年9月6日(1934年)久大線工事は順調に進み、11月には全線開通予定で、最後の区間日田、天瀬間の工事が行われ、久大線の心臓部、機関庫も順調に工事進展、保線区事務所、官舎30棟、電気、電話、給水等の附属工事もあり、昼夜を問わずすすめられた。●昭和9年11月15日(1934年)久大線、最後の区間日田~天瀬間が開通、これにより久留米・日田間の久大西線が全線開通●昭和9年11月17日(1934年)久大線全線開通 森機関庫の落成を祝う。●昭和20年(1945年)米軍艦載機からの機銃掃射による攻撃で「機関区」にも被害が及ぶ。現在もその痕跡を見ることが出来る。当時国鉄職員2名がその攻撃の犠牲となる。 ※玖珠町で最初の航空写真は、米軍によって撮影されたものだと言う。その写真には、皮肉にも機関庫が写されていた。●昭和29年3月15日(1954年)豊後森機関区は隆盛を極め、配備車は25両、職員は217人が勤務していた。 ●昭和45年(1971年)蒸気機関車は廃止され、新しくディーゼル車が導入さる。無煙化で同時に旧豊後森駅機関区に幕は下ろされる。 ●昭和59年11月4日豊後森機関区開設50周年記念式典開催。国鉄合理化で同機関区の乗務員は66人。廃止された機関庫には宮原線を最初に走った「キハ07形式」1両が保管されていた。現在キハ07形は大分鉄道管理局が保有。

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◇◇◇豊後森機関庫の歴史◇◇◇
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●昭和9年5月8日(1934年)熊本建設省より森駅に正式工事認可おりる。 5月より工事着工にかかる。 ●昭和9年9月6日(1934年)久大線工事は順調に進み、11月には全線開通予定で、最後の区間日田、天瀬間の工事が行われ、久大線の心臓部、機関庫も順調に工事進展、保線区事務所、官舎30棟、電気、電話、給水等の附属工事もあり、昼夜を問わずすすめられた。 ●昭和9年11月15日(1934年)久大線、最後の区間日田~天瀬間が開通、これにより久留米・日田間の久大西線が全線開通 ●昭和9年11月17日(1934年)久大線全線開通 森機関庫の落成を祝う。 ●昭和20年(1945年)米軍艦載機からの機銃掃射による攻撃で「機関区」にも被害が及ぶ。現在もその痕跡を見ることが出来る。当時国鉄職員2名がその攻撃の犠牲となる。 ※玖珠町で最初の航空写真は、米軍によって撮影されたものだと言う。その写真には、皮肉にも機関庫が写されていた。 ●昭和29年3月15日(1954年)豊後森機関区は隆盛を極め、配備車は25両、職員は217人が勤務していた。 ●昭和45年(1971年)蒸気機関車は廃止され、新しくディーゼル車が導入さる。無煙化で同時に旧豊後森駅機関区に幕は下ろされる。 ●昭和59年11月4日豊後森機関区開設50周年記念式典開催。国鉄合理化で同機関区の乗務員は66人。廃止された機関庫には宮原線を最初に走った「キハ07形式」1両が保管されていた。現在キハ07形は大分鉄道管理局が保有。


◇◇◇豊後森機関庫・地図◇◇◇
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===説明板地図拡大===
この地図は現地説明板を拡大したものです。
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===豊後森 機関庫===
転車台から機関庫までのレールはないがその当時40年前の機関庫が偲ばれます。 (写真をクリックすると大きくなります)800x600===豊後森 機関庫===
この上に蒸気機関車を載せ回転させて1~12まである機関庫を選び蒸気機関車を機関庫に格納する転車台です。 (写真をクリックすると大きくなります)800x600===転車台回転部①===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===転車台回転部②===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===転車台操作部=== 転車台操作部のなかで第1番目から第12番目までのうちの機関庫を選び機関車を機関庫に格納するものです。
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===豊後森機関区全景 ===
1987年(昭和62年3月31日)日本国有鉄道(115年の歴史)はこの日をもって幕を閉じた。1987年(昭和62年4月1日日本国有鉄道は分割民営化でJR九州と改められました。
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===転車台に載せられたSL機関車=== 本線から引き込まれた蒸気機関車はターンテーブルに載せられ、番号のところまで回転させ機関庫へ格納する。
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===機関庫=== 機関庫に格納されているキハ07です。
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===蒸気機関車=== 乗務員が打診で各部を点検している様子です。
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===蒸気機関車=== 乗務員が前面ハッチを開け中に溜まったスス等を取り除いている様子です。

鷹栖つり橋(大分県宇佐)2010年02月07日 14時39分41秒

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===鷹栖つり橋説明板===
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◇◇◇鷹栖つり橋◇◇◇本橋の特色、本橋は橋長132.5m(支間105.0m)、幅員1.5mのPC吊り床版形式の歩道橋であります。1.PC吊り床版の構造は、吊り橋のケーブルと補剛桁を一体としたシンプルのものであります。2.主塔のデザインは、対岸の田野から飛び立った鷹が百間岩の巣へ帰る姿又、鷹栖観音堂がある対岸に向かって人が合掌しているイメージをしたものであります。      (部材・・・ステンレスSUS304 t=9.0mm 高さ16.0m) ===所在地===大分県宇佐市上拝田 ==PC吊りとは==コンクリートの中に鋼材等を通して強度を高めたもの。PC鋼材を両サイドから引っ張り、圧縮力を加えて強化することで、コンクリートの最大弱点である荷重によるヒビ割れを防止し、構造物の寿命を長くすることができるというものです。

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◇◇◇鷹栖つり橋◇◇◇
本橋の特色、本橋は橋長132.5m(支間105.0m)、幅員1.5mのPC吊り床版形式の歩道橋であります。

1.PC吊り床版の構造は、吊り橋のケーブルと補剛桁を一体としたシンプルのものであります。

2.主塔のデザインは、対岸の田野から飛び立った鷹が百間岩の巣へ帰る姿又、鷹栖観音堂がある対岸に向かって人が合掌しているイメージをしたものであります。

(部材・・・ステンレスSUS304 t=9.0mm 高さ16.0m) 所在地◇大分県宇佐市上拝田 ==PC吊りとは==コンクリートの中に鋼材等を通して強度を高めたもの。PC鋼材を両サイドから引っ張り、圧縮力を加えて強化することで、コンクリートの最大弱点である荷重によるヒビ割れを防止し、構造物の寿命を長くすることができるというものです。
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===鷹栖つり橋===
上拝田地区側から見る鷹栖つり橋
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===鷹栖つり橋=== 本橋は橋長132.5m(支間105.0m)、幅員1.5mのPC吊り床版形式の歩道橋であります。
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===鷹栖つり橋===
この橋を渡って行くと対岸の上拝田地区に在所する観音寺の奥の院があります。
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===鷹栖つり橋=== 上拝田地区側から見た風景です。

鷹栖観音堂(大分県宇佐)2010年02月09日 14時31分36秒

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===鷹栖観音堂説明板===
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◇◇◇鷹栖観音堂は、対岸の上拝田地区に所在する観音寺の奥の院であります。奈良時代に僧法蓮の開基と伝えられ、宇佐弥勤寺未寺でありました。多くの長い柱で舞台を造り、その上に堂舎を乗せた懸造りとよばれる県内でも数少ない建築様式でできています。御堂は幾度か建て替えられたと考えられますが、現存するものは内陣の柱、板壁などに見られる「文化文政」期の墨書、あるいは建物の作風から江戸時代後期の建築と考えられています。毎年一月四日夜には無病息災と五穀豊穣を祈願する鬼会行事が行なわれます。また、一月十日には一度お参りすれば千日分の御利益があるといわれる千日参りが終日行なわれます。 ===所在地===大分県宇佐市上拝田 ==

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◇◇◇鷹栖観音堂◇◇◇

鷹栖観音堂は、対岸の上拝田地区に所在する観音寺の奥の院であります。奈良時代に僧法蓮の開基と伝えられ、宇佐弥勤寺未寺でありました。多くの長い柱で舞台を造り、その上に堂舎を乗せた懸造り(かけづくり)とよばれる県内でも数少ない建築様式でできています。御堂は幾度か建て替えられたと考えられますが、現存するものは内陣の柱、板壁などに見られる「文化文政」期の墨書、あるいは建物の作風から江戸時代後期の建築と考えられています。毎年一月四日夜には無病息災と五穀豊穣を祈願する鬼会行事が行なわれます。また、一月十日には一度お参りすれば千日分の御利益があるといわれる千日参りが終日行なわれます。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===鷹栖観音堂===
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>◇◇◇鷹栖観音の歴史◇◇◇観音寺と観音堂、院内町の小坂不動などは法蓮和尚が建立し、和尚山で修行したと伝えられています。また、平安時代の終わり頃、宇佐宮大宮司の公通(きんみち)が平田井堰建設の際、観音堂に祈願したという伝承もあります。続日本記には、僧法蓮が医術によって民を救った功績などを記しています。山本地区の虚空蔵寺跡の発掘調査等によって、1300年前頃に七堂伽蓋が建立されたことが明らかとなり、法蓮との密接な関係が考えられるようになりました。

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◇◇◇鷹栖観音の歴史◇◇◇

観音寺と観音堂、院内町の小坂不動などは法蓮和尚が建立し、和尚山で修行したと伝えられています。また、平安時代の終わり頃、宇佐宮大宮司の公通(きんみち)が平田井堰建設の際、観音堂に祈願したという伝承もあります。続日本記には、僧法蓮が医術によって民を救った功績などを記しています。山本地区の虚空蔵寺跡の発掘調査等によって、1300年前頃に七堂伽蓋が建立されたことが明らかとなり、法蓮との密接な関係が考えられるようになりました。


(写真をクリックすると大きくなります)800x600===鷹栖観音堂===
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◇◇◇現在、鷹栖観音堂は、駅館川(やっかんがわ)の対岸に建立された観音寺の奥の院となっており、鷹巣山上拝田の百間岩(ひゃっけんいわ)と呼ばれる岩山の中腹にあります。現在の堂は絵馬などから江戸中期に建立されたといわれています。何本もの長い柱で舞台をつくり、その上に堂舎を乗せた懸造り(かけづくり)と呼ばれる建築様式で造られています。

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現在、鷹栖観音堂は、駅館川(やっかんがわ)の対岸に建立された観音寺の奥の院となっており、鷹巣山上拝田の百間岩(ひゃっけんいわ)と呼ばれる岩山の中腹にあります。現在の堂は絵馬などから江戸中期に建立されたといわれています。何本もの長い柱で舞台をつくり、その上に堂舎を乗せた懸造り(かけづくり)と呼ばれる建築様式で造られています。


(写真をクリックすると大きくなります)800x600===鷹栖慈眼堂===
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◇◇◇現在の御堂は江戸時代に再建されたものですが、安置される三体の木彫仏は平安時代のものです。 文化財保護の為、御堂の下に慈眼堂が建立されました。 毎年一月四日夜には無病息災と五穀豊穣を祈願する鬼会行事が行なわれます。また、一月十日には一度お参りすれば千日分の御利益があるといわれる千日参りが終日行なわれます。◇鬼会行事◇1,200年余りの歴史がある鷹栖観音鬼会[たかすかんのんおにえ]は毎年1月4日午後8時頃から鷹栖観音堂一帯で行われます。 市無形民俗文化財に指定されています。

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現在の御堂は江戸時代に再建されたものですが、安置される三体の木彫仏は平安時代のものです。 文化財保護の為、御堂の下に慈眼堂が建立されました。 毎年一月四日夜には無病息災と五穀豊穣を祈願する鬼会行事が行なわれます。また、一月十日には一度お参りすれば千日分の御利益があるといわれる千日参りが終日行なわれます。 ◇鬼会行事◇1,200年余りの歴史がある鷹栖観音鬼会[たかすかんのんおにえ]は毎年1月4日午後8時頃から鷹栖観音堂一帯で行われます。 市無形民俗文化財に指定されています。


清水瀑園(大分県玖珠)2010年02月19日 11時22分43秒

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===現地説明板===
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◇◇◇清水瀑園は、森林の中から自然に湧き出す清水がいくつも滝や渓流となって流れ、四季折々の自然の美を見せてくれます。 昔は、玖珠地方の「雨乞いの地」として知られ、竜神に地酒を捧げる行事が明治時代まで続いたといわれています。 その豊富な湧水は、地元の生活用水や農地を潤す農業用水にも利用されており、昭和六十三年に「豊の国名水」にも選定されいます。 ===所在地===大分県玖珠郡玖珠町大字森

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◇◇◇清水瀑園(しみずばくえん)◇◇◇

清水瀑園は、森林の中から自然に湧き出す清水がいくつも滝や渓流となって流れ、四季折々の自然の美を見せてくれます。 昔は、玖珠地方の「雨乞いの地」として知られ、竜神に地酒を捧げる行事が明治時代まで続いたといわれています。 その豊富な湧水は、地元の生活用水や農地を潤す農業用水にも利用されており、昭和六十三年に「豊の国名水」にも選定されいます。


===現地説明板より===
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清水瀑園の入り口より約100m位行くとこの様な綺麗な渓流が迎えてくれます。
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清水瀑園の渓流その水温は摂氏12度、滋味にも満ちて昭和63年(1988年)、「豊の国名水」に選定されました。
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◇◇◇ここ清水瀑園は、別名を内帆足(うつばし)の滝とも呼ばれています。 大正7年(1918年)から約4年間、地元有志・深草藤太翁が開発、いらい整備を重ねてきました。 とくに平成3年(1991年)の台風で大きな被害を受けましたが、大分県および玖珠町のご助成で復旧できました。長い歳月が培った大自然の恵みで、湧き水は1日に数10万トン、その水温は摂氏12度、滋味にも満ちて昭和63年(1988年)、「豊の国名水」に選定されました。滝あり、渓流ありの景観は周辺の森林空間と共に、「天然クーラーつき楽園の地」として親しまれています。 かつては、玖珠地方の「雨乞いの地」として知られ、竜神に地酒を捧げる行事が明治時代まで伝承されてきました。 最近は園の湧き水が玖珠町内の生活用水、農業用水にも使われ、広く「福の恵み水」として喜ばれています。 清水瀑園の不動明王は昭和8年(1933年)、玖珠町森鉄砲町の念仏者・園田利彰氏が建立しました。 お不動さんは、大日如来の使者とされた明王部でのナンバーワン的な存在。「災いと怠け心を斬る」のが目的ですが、当園のお不動さんは、健康を守る明王と伝えられています。 健康を守るお不動さん 平成3年の台風災害で倒れ、1部が破損しましたが、このほど地元有志の手で修復できました。 お不動産は、来園者の願いを必ず聞き入れてくれました。 ===所在地===大分県玖珠郡玖珠町大字森

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ここ清水瀑園は、別名を内帆足(うつばし)の滝とも呼ばれています。 大正7年(1918年)から約4年間、地元有志・深草藤太翁が開発、いらい整備を重ねてきました。 とくに平成3年(1991年)の台風で大きな被害を受けましたが、大分県および玖珠町のご助成で復旧できました。 長い歳月が培った大自然の恵みで、湧き水は1日に数10万トン、その水温は摂氏12度、滋味にも満ちて昭和63年(1988年)、「豊の国名水」に選定されました。滝あり、渓流ありの景観は周辺の森林空間と共に、「天然クーラーつき楽園の地」として親しまれています。 かつては、玖珠地方の「雨乞いの地」として知られ、竜神に地酒を捧げる行事が明治時代まで伝承されてきました。 最近は園の湧き水が玖珠町内の生活用水、農業用水にも使われ、広く「福の恵み水」として喜ばれています。 清水瀑園の不動明王は昭和8年(1933年)、玖珠町森鉄砲町の念仏者・園田利彰氏が建立しました。 お不動さんは、大日如来の使者とされた明王部でのナンバーワン的な存在。「災いと怠け心を斬る」のが目的ですが、当園のお不動さんは、健康を守る明王と伝えられています。 健康を守るお不動さん 平成3年の台風災害で倒れ、1部が破損しましたが、このほど地元有志の手で修復できました。 お不動産は、来園者の願いを必ず聞き入れてくれました。


===現地清水瀑園保存会説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===無数の小瀑===

斜面から流れでるいくつもの滝、高さは2~5m位です。近くまで行けず残念です。苔(コケ)が沢山生え登山靴を履いて行く必要があります。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===不動明王像===

清水瀑園の入り口より遊歩道を渓流沿いに約300m位歩くとこの場所に着きます。この場所からの眺望は神秘的です、無数の小さな滝が点在しています。また清水瀑園の不動明王は昭和八年(1933年)、玖珠町森鉄砲町の念仏者、園田利彰氏が建立したものです。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===小瀑===

この岩の上に上がればよいが遊歩道はこのあたりで行き止まりでした。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600
斜面の岩盤のいたるところから自然に湧き出しこれが渓流となる。
===所在地===大分県玖珠郡玖珠町大字森

角牟礼城(大分県玖珠)2010年02月21日 11時04分13秒

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===現地案内説明板===
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◇◇◇角牟礼城跡は標高577mで、古くから石垣のある山城として知られている。 天然の要害と呼ぶにふさわしく三方を切り立った険しい岩壁で囲まれている。 角牟礼城跡の名が史料に初めて登場するのは、文明7年(1475年)の志賀親家文書である。 その後、天文2年(1532年)や翌3年には「角牟礼新掘之事」や「角牟礼勤番在城」と出てくるように、角牟礼城跡は古くから、豊前側からの侵入を防ぐ豊後の境目の城として、玖珠郡衆により守られていた城である。 天正14年、15年(1585年・1586年)の島津氏と大友氏の豊薩戦では、唯一落城しなかった要害堅固の城として有名でもある。 文禄2年(1593年)には、豊臣秀吉が、文禄の役で失態をおかした大友義統を除国し、翌年に日田郡に宮木長次、玖珠郡に毛利高政を入部させた。 慶長元年(1596年)からは毛利高政が日田・玖珠郡2万石を支配したことが、秀吉の「朱印状」や「黒田家譜」からも知られる。 今回発掘調査で発見された門跡や現存する石垣は、この時期に築かれたものと考えられている。 従って、この城跡は文禄3年頃、豊後の要の城から、領国支配のための近世城郭へと生まれ変わる時期のものだとみられる。 そして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、毛利高政は佐伯城主に転封され、一時黒田孝高の預かり地となるが、代わって伊予より来島康親が入部する。 しかし、来島は1万4000石の小大名であり、城を持つことは許されず、現在の三島公園に陣屋を築き、山城は「正保の絵図」(1644年)に古城と書かれているように、そのまま放置され、長い歴史の幕を閉じることになる。 平成5年から町教委により発掘調査が行われ、本丸に階段状の虎口(出入口)、大手門と搦手門に同じ規模の門跡、また二の丸には礎石建物が発見されている。 2つの門には瓦が葺かれていたと考えられている。 ===所在地===大分県玖珠郡玖珠町森

(写真をクリックすると大きくなります)336x367===縄張り図説明板より拡大===
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◇角牟礼城跡は標高577mで、古くから石垣のある山城として知られている。天然の要害と呼ぶにふさわしく三方を切り立った険しい岩壁で囲まれている。角牟礼城跡の名が史料に初めて登場するのは、文明7年(1475年)の志賀親家文書である。その後、天文2年(1532年)や翌3年には「角牟礼新掘之事」や「角牟礼勤番在城」と出てくるように、角牟礼城跡は古くから、豊前側からの侵入を防ぐ豊後の境目の城として、玖珠郡衆により守られていた城である。天正14年、15年(1585年・1586年)の島津氏と大友氏の豊薩戦では、唯一落城しなかった要害堅固の城として有名でもある。文禄2年(1593年)には、豊臣秀吉が、文禄の役で失態をおかした大友義統を除国し、翌年に日田郡に宮木長次、玖珠郡に毛利高政を入部させた。慶長元年(1596年)からは毛利高政が日田・玖珠郡2万石を支配したことが、秀吉の「朱印状」や「黒田家譜」からも知られる。今回発掘調査で発見された門跡や現存する石垣は、この時期に築かれたものと考えられている。従って、この城跡は文禄3年頃、豊後の要の城から、領国支配のための近世城郭へと生まれ変わる時期のものだとみられる。 そして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、毛利高政は佐伯城主に転封され、一時黒田孝高の預かり地となるが、代わって伊予より来島康親が入部する。しかし、来島は1万4000石の小大名であり、城を持つことは許されず、現在の三島公園に陣屋を築き、山城は「正保の絵図」(1644年)に古城と書かれているように、そのまま放置され、長い歴史の幕を閉じることになる。平成5年から町教委により発掘調査が行われ、本丸に階段状の虎口(出入口)、大手門と搦手門に同じ規模の門跡、また二の丸には礎石建物が発見されている。2つの門には瓦が葺かれていたと考えられている。


===現地説明案内板より===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===搦手門石垣===
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◇◇◇この石垣は搦手門といわれているが、角牟礼城跡で一番立派な石垣であり、「穴太積み」(あのうずみ)の特徴をよく残す石垣である。高さ7.5m。長さ約100mの石垣は自然石を無造作に積み上げているが、そこには計算されたバランスがあり堅固な石垣となっている。

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◇◇◇搦手門石垣◇◇◇

この石垣は搦手門(からめてもん)といわれているが、角牟礼城跡で一番立派な石垣であり、「穴太積み」(あのうずみ)の特徴をよく残す石垣である。高さ7.5m。長さ約100mの石垣は自然石を無造作に積み上げているが、そこには計算されたバランスがあり堅固な石垣となっている。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===搦手門跡石垣===
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◇◇◇この角牟礼城跡では、南側にある城門で井戸曲輪に入る虎口(出入口)でもある。 東側の通路を上り詰めると右手に、礎石建物跡が検出されてる。 礎石は大手門の櫓門と同規模で瓦や陶磁器から大手門櫓と同じか近接した年代が考えられる。

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角牟礼城跡では、南側にある城門で井戸曲輪に入る虎口(出入口)でもある。 東側の通路を上り詰めると右手に、礎石建物跡が検出されてる。 礎石は大手門の櫓門と同規模で瓦や陶磁器から大手門櫓と同じか近接した年代が考えられる。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===井戸曲輪跡===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===三の丸跡===
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◇◇◇この三の丸跡は城としての歴史は古く、中世の山城跡と、近世の城跡の両方を残し、城の変遷を知るうえで貴重な史跡とされています。文禄3年(1594年)から慶長5年(1600年)にかけて、秀吉の家臣で日田日隈城主の毛利高政が玖珠の拠点として整備しました。穴太積みの石垣はこのとき構築されたと言われています。

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◇◇◇三の丸跡◇◇◇

この三の丸跡は城としての歴史は古く、中世の山城跡と、近世の城跡の両方を残し、城の変遷を知るうえで貴重な史跡とされています。文禄3年(1594年)から慶長5年(1600年)にかけて、秀吉の家臣で日田日隈城主の毛利高政が玖珠の拠点として整備しました。穴太積みの石垣はこのとき構築されたと言われています。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===二の丸跡===
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◇◇◇この二の丸跡は、石垣に囲まれた南北に長い曲輪で、標高544mに位置する。 曲輪奥の南側からは東西約10m、南北約7mの礎石建物跡が検出されている。 瓦の出土がないから板葺きか茅葺きと考えられる。

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◇◇◇二の丸跡◇◇◇

この二の丸跡は、石垣に囲まれた南北に長い曲輪で、標高544mに位置する。 曲輪奥の南側からは東西約10m、南北約7mの礎石建物跡が検出されている。 瓦の出土がないから板葺きか茅葺きと考えられる。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===礎石建物跡===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===伝大手門跡===
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◇◇◇この伝大手門は西側にある城門。角牟礼城を代表する外桝形虎口で、二の門と考えられる位置から礎石建物が検出されている。 織豊時代の攻撃的な構えであるが、城全体の縄張りから大手門とするには疑問があると思われる。

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◇◇◇伝大手門◇◇◇

この伝大手門は西側にある城門。角牟礼城を代表する外桝形虎口で、二の門と考えられる位置から礎石建物が検出されている。 織豊時代の攻撃的な構えであるが、城全体の縄張りから大手門とするには疑問があると思われる。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===伝大手門跡石垣===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===本丸跡===

角埋山頂上部に位置し、標高は577mで周囲には土塁を巡らせてる。 北側には石垣が築かれ、石垣上面の東隅に櫓建物が検出されている。 南側からは階段状の虎口が検出されている。


(写真をクリックすると大きくなります)800x600===本丸跡全景===

本丸跡の周囲は照葉樹の原生林に覆われ、鳥獣保護区に指定され、動・植物の宝庫である。 平成17年角牟礼城跡は、国指定史跡となりました。


(写真をクリックすると大きくなります)800x600===隅櫓跡===
本丸隅櫓跡。本丸の北側には石垣が築かれ、石垣上面の東隅に約6m×4mの櫓建物が検出された。
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===本丸よりの眺望===
本丸跡の周囲は照葉樹の原生林に覆われ、鳥獣保護区に指定され、動・植物の宝庫である。 平成17年角牟礼城跡は、国指定史跡となりました。◇所在地===大分県玖珠郡玖珠町森(角埋山)===