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壇ノ浦古戦場址(山口県下関)2010年06月09日 23時07分02秒

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===壇ノ浦古戦場址===
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写真をクリックすると大きくなります。◇日本史の節目を刻む関門海峡◇  西へ東へと1日に4回、その流れの向きをかえる関門海峡。せまい所では、両岸の幅は700mあまりで、潮流の速度は、最高で約10ノット(時速18km)にもなります。また、瀬戸内海の入口に位置する地理的条件から、昔も今も交通の要衝で、日本の歴史の節目を刻む舞台となっています。 寿永4年(1185年)3月24日、平知盛を大将にした平家と、源義経が率いる源氏が、この壇ノ浦を舞台に合戦をした。当初は、平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると、源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められた。最期を覚悟した知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え8歳の安徳天皇を抱いて入水。知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していった。なお、この戦いにおいて義経は、平教経(のりつね)の攻撃を、船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を見せたといわれている。 ===現地石碑説明板より===

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◇日本史の節目を刻む関門海峡◇  西へ東へと1日に4回、その流れの向きをかえる関門海峡。せまい所では、両岸の幅は700mあまりで、潮流の速度は、最高で約10ノット(時速18km)にもなります。また、瀬戸内海の入口に位置する地理的条件から、昔も今も交通の要衝で、日本の歴史の節目を刻む舞台となっています。 寿永4年(1185年)3月24日、平知盛を大将にした平家と、源義経が率いる源氏が、この壇ノ浦を舞台に合戦をした。当初は、平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると、源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められた。最期を覚悟した知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え8歳の安徳天皇を抱いて入水。知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していった。なお、この戦いにおいて義経は、平教経(のりつね)の攻撃を、船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を見せたといわれている。


===現地石碑説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===源義経 彫刻像===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===平知盛 彫刻像===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===二位尼辞世===
写真左横にある石碑は安徳天皇御入水之処が記されています。
今ぞ知る みもすそ川の 御なかれ 波の下にも みやこありとは
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===天保長州砲===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===天保製長州砲===
(C) Script by ja4chu

写真をクリックすると大きくなります。 幕末、関門海峡での6次にわたる攘夷戦は、元治元年(1864年)8月、 長州藩兵と英・仏・蘭・米4カ国連合艦隊との交戦をもって終結したが、 同時にこれは明治維新の具体的始動につながった。この歴史的事件 で下関海岸砲台に装備された長州藩の青銅砲は、すべて戦利品とし て外国に運び去られ国内から姿をけしていた。 1966年春、東欧中の作家古川薫氏がパリ・アンヴァリット軍事博物館 に保管されている攘夷戦長州砲を発見、以来返還運動が進められた が実現困難のところ、郷土出身の外務大臣安倍晋太郎氏の努力と フランス政府の好意によって1984年6月、貸与の形式で里帰りを見る に至った。この機会に下関東ロータリークラブでは、フランス政府の了 解を得、創立20周年記念行事として、これを原寸大かつ精密に模造し 下関市に寄贈した。 同長州砲は天保15年(1844年)萩藩の鋳砲家郡司喜平治信安の手に なるもので、幕末日本人の対外危機感を象徴する歴史的逸品である。 鎖国に眠っていた日本史がようやく世界史に組み入れられる瞬間を 目撃したこの物言わぬ証人を、海峡のほとりへ永久に安置しようとする のは、歴史に富むこの地の発展と世界平和を祈念する趣旨にほかなら ない。

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幕末、関門海峡での6次にわたる攘夷戦は、元治元年(1864年)8月、長州藩兵と英・仏・蘭・米4カ国連合艦隊との交戦をもって終結したが、同時にこれは明治維新の具体的始動につながった。この歴史的事件で下関海岸砲台に装備された長州藩の青銅砲は、すべて戦利品とし て外国に運び去られ国内から姿をけしていた。1966年春、東欧中の作家古川薫氏がパリ・アンヴァリット軍事博物館に保管されている攘夷戦長州砲を発見、以来返還運動が進められたが実現困難のところ、郷土出身の外務大臣安倍晋太郎氏の努力とフランス政府の好意によって1984年6月、貸与の形式で里帰りを見るに至った。この機会に下関東ロータリークラブでは、フランス政府の了解を得、創立20周年記念行事として、これを原寸大かつ精密に模造し下関市に寄贈した。同長州砲は天保15年(1844年)萩藩の鋳砲家郡司喜平治信安の手になるもので、幕末日本人の対外危機感を象徴する歴史的逸品である。 鎖国に眠っていた日本史がようやく世界史に組み入れられる瞬間を 目撃したこの物言わぬ証人を、海峡のほとりへ永久に安置しようとする のは、歴史に富むこの地の発展と世界平和を祈念する趣旨にほかなら ない。


===現地天保製長州砲説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===長州砲(八十斤加農砲)===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===長州砲(八十斤加農砲)===
(C) Script by ja4chu

写真をクリックすると大きくなります。文久3年(1863年)5月から6月にかけて、長州藩は関門海峡を通る外国船を5回にわたって砲撃しました(攘夷戦)翌年8月、アメリカ・ イギリス・フランス・オランダの四国連合艦隊17隻が報復のため下関にやってきました。海峡の最もせまい所に築かれたこの壇之浦砲台は、前田砲台と共に重要な役割を果たしましたが、連合艦隊に大敗し、すべての砲台が占領・破壊されました。外国の進んだ軍備にめざめた長州藩は、開国・倒幕へと転換し、明治維新を実現する言動力となりました。

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文久3年(1863年)5月から6月にかけて、長州藩は関門海峡を通る 外国船を5回にわたって砲撃しました(攘夷戦)翌年8月、アメリカ・ イギリス・フランス・オランダの四国連合艦隊17隻が報復のため下関にやってきました。海峡の最もせまい所に築かれたこの壇之浦砲台は、前田砲台と共に重要な役割を果たしましたが、連合艦隊に大敗し、すべての砲台が占領・破壊されました。外国の進んだ軍備にめざめた長州藩は、開国・倒幕へと転換し、明治維新を実現する言動力となりました。

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