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豊前松山城跡 (福岡県)2010年07月20日 11時56分11秒

(写真をクリックすると大きくなります)1024x585===松山城跡説明板===
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写真をクリックすると大きくなります。◇松山城は、かって豊前国第一級の要害の山城と言われ、古記によれば、740年(天平12年)に藤原広嗣によって築城されたと言われ、その後数回の戦乱にみまわれ、何度も城主が変わり、1606年(慶長11年)に廃城になったと伝えられている。山頂には主郭が、主郭の北側には石垣と石段に続く腰曲輪、2の郭との間には石段と石垣が、南には虎口と推測される門の跡がある。3の郭からさらに東側には、かって小城と呼ばれた遺跡があったが、今は土取りのために消滅した。主郭には発掘調査の結果、基壇と礎石をそなえた建物が屋根瓦を葺いて建っていたと推測される。山頂の側面には横堀や竪堀が複雑に確認でき、山頂の遺構から続く土塁が広範囲に広がっている。松山城跡の全体の構図は主に山頂部の屋根瓦を持つ各郭と門を石段・石垣・横堀が複雑に取り込んで、松山の半島全体を難攻不落の要塞として造り上げた様子がうかがえる貴重な山城である。

(写真をクリックすると大きくなります)1028x767===松山城跡説明板===
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松山城は、かって豊前国第一級の要害の山城と言われ、古記によれば、740年(天平12年)に藤原広嗣によって築城されたと言われ、その後数回の戦乱にみまわれ、何度も城主が変わり、1606年(慶長11年)に廃城になったと伝えられている。山頂には主郭が、主郭の北側には石垣と石段に続く腰曲輪、2の郭との間には石段と石垣が、南には虎口と推測される門の跡がある。3の郭からさらに東側には、かって小城と呼ばれた遺跡があったが、今は土取りのために消滅した。主郭には発掘調査の結果、基壇と礎石をそなえた建物が屋根瓦を葺いて建っていたと推測される。山頂の側面には横堀や竪堀が複雑に確認でき、山頂の遺構から続く土塁が広範囲に広がっている。松山城跡の全体の構図は主に山頂部の屋根瓦を持つ各郭と門を石段・石垣・横堀が複雑に取り込んで、松山の半島全体を難攻不落の要塞として造り上げた様子がうかがえる貴重な山城である。


===現地松山城跡説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===松山城跡石段===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===松山城跡石段===
(C) Script by ja4chu

写真をクリックすると大きくなります。◇松山城跡は標高128メートルの山城です。登山口の案内板には山頂まで550メートル、30分と書かれています。案内板より少し登山道を歩くとそばにつえが5~6本ほど置かれています。登山道には階段状に丸太が敷かれており、歩きやすく整備されています。途中、何カ所も「山頂まで〇○メートル、○分」という道標とベンチがあり、頂上に近づくと、山城の名残りをとどめる石垣や石段、土塁、竪堀などの遺構が広がっています。20年前、苅田町教育委員会が発掘調査をし、本丸や大手門のほかに三つの郭があったことが確認されています。山頂は本丸跡で公園になっています。◎主な城主 ◇藤原氏・神田氏・平氏・城井氏・大内氏・大友氏・毛利氏・黒田氏◇その後1606年(慶長11年)に廃城になったと伝えられている。

松山城跡は標高128メートルの山城です。登山口の案内板には山頂まで550メートル、30分と書かれています。案内板より少し登山道を歩くとそばにつえが5~6本ほど置かれています。登山道には階段状に丸太が敷かれており、歩きやすく整備されています。途中、何カ所も「山頂まで〇○メートル、○分」という道標とベンチがあり、頂上に近づくと、山城の名残りをとどめる石垣や石段、土塁、竪堀などの遺構が広がっています。20年前、苅田町教育委員会が発掘調査をし、本丸や大手門のほかに三つの郭があったことが確認されています。山頂は本丸跡で公園になっています。

◎主な城主 ◇藤原氏・神田氏・平氏・城井氏・大内氏・大友氏・毛利氏・黒田氏◇その後1606年(慶長11年)に廃城になったと伝えられている。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===松山城跡石垣===

現在は雑草で覆われているが本丸跡の石垣が確認できる。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===松山城跡===
(C) Script by ja4chu

写真をクリックすると大きくなります。◇山頂は本丸跡で公園になっていますこの場所からは眼下には360度の大パノラマが広がる。東に周防灘、新北九州空港や神ノ島、山口県の宇部市なども見渡せる。北に目を向けると、門司・小倉の街並みと足立山。西側には高城山、貫山から皿倉山が望める。南には日産自動車九州工場などの工業地帯と、苅田の町並みが広がり、遠く英彦山も一望できる城跡です。

山頂は本丸跡で公園になっていますこの場所からは眼下には360度の大パノラマが広がる。東に周防灘、新北九州空港や神ノ島、山口県の宇部市なども見渡せる。北に目を向けると、門司・小倉の街並みと足立山。西側には高城山、貫山から皿倉山が望める。南には日産自動車九州工場などの工業地帯と、苅田の町並みが広がり、遠く英彦山も一望できる城跡です。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===松山城跡===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===松山城跡よりの眺望===

写真は本丸跡より三菱マテリアル九州工場その後方の煙突が九州電力苅田火力発電所です。右端は日産自動車九州工場、手前の港は苅田港です。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===松山城跡よりの眺望===

写真は本丸跡より手前は苅田鉄工団地後方新北九州空港道路と空港大橋新北九州空港への連絡橋は全長2100m あります。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===松山城跡よりの眺望===

写真は本丸跡より周防灘苅田港入り口眼下神ノ島後方右端は国東半島を撮ったものです。