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日向月山日和城 (宮崎県)2010年09月08日 11時20分05秒

(写真をクリックすると大きくなります)===月山日和城===

所在地: 宮崎県都城市高城町大井手字横馬場

遺  構 :模擬天守閣、曲輪、土塁、空堀

形  式 :山城    築城者:肝属兼重     築城年式:元弘年間

(C) Script by ja4chu

◇日和城(ひわじょう)は、今から650余年前、肝付兼重(きもつきかねしげ)が築いたもので、当時は兼重本城といわれました。兼重は、この城に、南朝方から受けた錦の御旗をひるがえし、北朝方の畠山軍と戦い、孤軍奮闘しましたが、延元4年(1339年)8月、力尽きて落城、兼重は高山へ退きました。 その後は、日向守護職の畠山直顕(はたけやまただあき)のものとなり、「高城」と呼ばれ、「月山日和城」ともいわれました。畠山氏のあと和田氏の居城となり、さらに島津氏の領となったが、明応4年(1495年)伊東氏との飫肥・三俣の交換によって、伊東氏のものとなりました。都城の北郷忠相(ほんごうただすけ)は、47年の長い間かかって、やっと伊東氏を追い払って、ここを居城としました。戦国期の終わりには伊集院の領有となり、 庄内の乱では、この城下で激戦が繰り返されました。乱後、また北郷氏のものとなりましたが、元和元年(1615年)一国一城の令によって、戦火を重ねたこの城も廃城となりました。南北朝の争乱から、戦国時代を経て、庄内の乱まで約260年間、三俣千町といわれた美田の要地として戦火に包まれた歴史をもつ、全国にも例の少ない山城です。 城の構えは、後方の台地から突出した要害の地に、空堀に仕切られた八城郭からなり、約4ヘクタールの広さです。 伊東八外城時代にはここを中心本城として、山之口城、松尾城、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城として、扇形の雄大な構えでした。昭和十年の陸軍特別大演習には、野外総監部となり、昭和天皇がここにお立ちになり、演習をごらんになりました。

(写真をクリックすると大きくなります)===月山日和城===後方側面より
(写真をクリックすると大きくなります)===月山日和城説明板===
(C) Script by ja4chu

◇日和城(ひわじょう)は、今から650余年前、肝付兼重(きもつきかねしげ)が築いたもので、当時は兼重本城といわれました。兼重は、この城に、南朝方から受けた錦の御旗をひるがえし、北朝方の畠山軍と戦い、孤軍奮闘しましたが、延元4年(1339年)8月、力尽きて落城、兼重は高山へ退きました。 その後は、日向守護職の畠山直顕(はたけやまただあき)のものとなり、「高城」と呼ばれ、「月山日和城」ともいわれました。畠山氏のあと和田氏の居城となり、さらに島津氏の領となったが、明応4年(1495年)伊東氏との飫肥・三俣の交換によって、伊東氏のものとなりました。都城の北郷忠相(ほんごうただすけ)は、47年の長い間かかって、やっと伊東氏を追い払って、ここを居城としました。戦国期の終わりには伊集院の領有となり、 庄内の乱では、この城下で激戦が繰り返されました。乱後、また北郷氏のものとなりましたが、元和元年(1615年)一国一城の令によって、戦火を重ねたこの城も廃城となりました。南北朝の争乱から、戦国時代を経て、庄内の乱まで約260年間、三俣千町といわれた美田の要地として戦火に包まれた歴史をもつ、全国にも例の少ない山城です。 城の構えは、後方の台地から突出した要害の地に、空堀に仕切られた八城郭からなり、約4ヘクタールの広さです。 伊東八外城時代にはここを中心本城として、山之口城、松尾城、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城として、扇形の雄大な構えでした。昭和十年の陸軍特別大演習には、野外総監部となり、昭和天皇がここにお立ちになり、演習をごらんになりました。

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日和城(ひわじょう)は、今から650余年前、肝付兼重(きもつきかねしげ)が築いたもので、当時は兼重本城といわれました。兼重は、この城に、南朝方から受けた錦の御旗をひるがえし、北朝方の畠山軍と戦い、孤軍奮闘しましたが、延元4年(1339年)8月、力尽きて落城、兼重は高山へ退きました。 その後は、日向守護職の畠山直顕(はたけやまただあき)のものとなり、「高城」と呼ばれ、「月山日和城」ともいわれました。畠山氏のあと和田氏の居城となり、さらに島津氏の領となったが、明応4年(1495年)伊東氏との飫肥・三俣の交換によって、伊東氏のものとなりました。都城の北郷忠相(ほんごうただすけ)は、47年の長い間かかって、やっと伊東氏を追い払って、ここを居城としました。戦国期の終わりには伊集院の領有となり、 庄内の乱では、この城下で激戦が繰り返されました。乱後、また北郷氏のものとなりましたが、元和元年(1615年)一国一城の令によって、戦火を重ねたこの城も廃城となりました。南北朝の争乱から、戦国時代を経て、庄内の乱まで約260年間、三俣千町といわれた美田の要地として戦火に包まれた歴史をもつ、全国にも例の少ない山城です。 城の構えは、後方の台地から突出した要害の地に、空堀に仕切られた八城郭からなり、約4ヘクタールの広さです。 伊東八外城時代にはここを中心本城として、山之口城、松尾城、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城として、扇形の雄大な構えでした。昭和十年の陸軍特別大演習には、野外総監部となり、昭和天皇がここにお立ちになり、演習をごらんになりました。


===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)===月山日和城略図===

◇庄内の乱は関ヶ原の合戦の前年の慶長四年1599年3月9日、朝鮮出兵から帰国したばかりの島津忠恒が、石田三成と結び庄内を領としていた老中伊集院幸侃(いじゅういんこうかん)を、伏見の屋敷で誅したことに端発する。 伊集院幸侃の子忠真は、その報に接するや、庄内12城を固め、都城に籠城し激しく抗した。しかし翌年、徳川家康の調停により平定され、1600年3月15日、島津忠恒とその叔父で第17代薩摩藩主島津義久は都城に入城しました。そして庄内は、元来ここを本領としていた北郷(ほんごう)家に安堵され、伊集院忠真は鹿児島の開聞岳の麓、頴娃に移されました。


日向小川城(宮崎県)2010年09月12日 03時50分04秒

(写真をクリックすると大きくなります)===日向小川城===
(C) Script by ja4chu

◇小川城は、承応年間に米良則重によって築かれました。 米良氏は、南北朝時代に九州の南朝方の旗頭であった菊池氏の一族で、菊池重次が米良氏を称し、米良一帯を領した。 慶長5五年、関ヶ原では東軍に与した米良重隆は、家康より米良家が菊池氏の直系たることを認められ本領安堵された。 米良氏は、肥後人吉、相良家に附属され、無高であったが交代寄合の一家となりました。 江戸時代初期には村所や銀鏡に居所を構えていたが、則重の代に小川へ居所を移し、以後幕末の則忠まで約200年間8代続いて居城しました。 現在では、小川城址公園として整備され歴史民俗資料館や西米良民話館、民話の宿なども完備されています。

所在地:宮崎県児湯郡西米良村小川字囲833

遺  構:曲輪、石垣

形  式:居館    築城者:米良則重    築城年代:承応年間

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小川城は、承応年間に米良則重によって築かれました。 米良氏は、南北朝時代に九州の南朝方の旗頭であった菊池氏の一族で、菊池重次が米良氏を称し、米良一帯を領した。 慶長5五年、関ヶ原では東軍に与した米良重隆は、家康より米良家が菊池氏の直系たることを認められ本領安堵された。 米良氏は、肥後人吉、相良家に附属され、無高であったが交代寄合の一家となりました。 江戸時代初期には村所や銀鏡に居所を構えていたが、則重の代に小川へ居所を移し、以後幕末の則忠まで約200年間8代続いて居城しました。 現在では、小川城址公園として整備され歴史民俗資料館や西米良民話館、民話の宿なども完備されています。

(写真をクリックすると大きくなります)===天神橋と小川城===
(写真をクリックすると大きくなります)===小川城表門===
(写真をクリックすると大きくなります)===菊池則忠公銅像===

菊池則忠公は、第十七代米良城主で、明治二年版籍奉還にあたっては、領地をすべて領民に分け与え生活を助けると共に、教育に意を注ぎ、弘文館(後の米良小学校)の開設に尽力しました。銅像は公の遺徳を顕彰するため、村政施工100周年記念事業として、村内外から寄せられた浄財を資金として建設されました。高さ1.5m(ブロンズ製)台座1.2m(黒みかげ貼り石仕上げ)製作 綾在住、彫刻家坂元典生氏

(写真をクリックすると大きくなります)===小川城石垣=== 屋敷の石垣は当時、米良山の石工が集まって築いたという石垣です。
(写真をクリックすると大きくなります)===小川川清流===
(写真をクリックすると大きくなります)===わらぶきの休憩所===

日向高城(宮崎県)2010年09月13日 16時34分58秒

(写真をクリックすると大きくなります)===日向高城===
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◇高城城跡は、小丸川とその支流である切原川に挟まれ、標高60mを数えます。地形は、舌状に細長く伸び台地であり、見晴らしには大変優れた所に営まれた山城であります。この城では、天正六年(1578年)、天正十五年(1587年)の二度に渡り、大合戦がありました。その当時、日向で勢力を誇っていた伊東氏が島津氏に負けて大分に逃げ、親類の大友氏を頼ります。大友氏はこの際、新興勢力の島津氏をつぶそうと、約五万の大軍でこの城を攻撃しました。しかし高城城主山田新介有信(やまだしんすけありのぶ)はわずかな兵力でよく防ぎ、とうとう大友軍は大敗しました。これを高城川合戦とよんでいます。この合戦が原因で、今度は豊臣秀吉の弟、秀長卒いる十五万の大軍と合戦することになりますが、この時も新介はよく防ぎ、この城は落城しませんでした。これからの戦いは、戦国時代の九州において最大規模の合戦であります。またこの高城は、その二度の戦いとも落城しなかった難攻不落の名城として、名将、山田新介有信の名と共に語り継がれています。城としての特徴は、現在城山公園として利用されている箇所が、東側の主郭と考えられる曲輪と考えられています。ここでは島津氏の家臣であった城主山田新介有信らが、戦いに備えるための本部として利用していたと考えられます。またこの城に敵が侵入するのを防ぐために、七箇所の竪堀がみられるのが特徴です。当時の山城にはこういった自然地形を利用して、幾多の戦いを繰り広げております。平成四年度には、木城町の城山公園整備事業によるメロディー時計台建設に伴い発掘調査が実施されました。その結果、竪穴状遺構、柱穴、石列、などの遺構、土師器と言われる杯、皿、小皿、青磁器、白磁器、陶器、などの遺物が確認されました。これらの遺物の時期は、戦いが繰り広げられた時期に該当し、当時の戦いの状況がより理解することができます。

所在地: 宮崎県児湯郡木城町高城字城山

遺 構 : 曲輪、堀切、土塁、模擬櫓

形 式 : 山城  築城者: 新納時久  築城年式 : 建武二年

高城城跡は、小丸川とその支流である切原川に挟まれ、標高60mを数えます。地形は、舌状に細長く伸び台地であり、見晴らしには大変優れた所に営まれた山城であります。この城では、天正六年(1578年)、天正十五年(1587年)の二度に渡り、大合戦がありました。その当時、日向で勢力を誇っていた伊東氏が島津氏に負けて大分に逃げ、親類の大友氏を頼ります。大友氏はこの際、新興勢力の島津氏をつぶそうと、約五万の大軍でこの城を攻撃しました。しかし高城城主山田新介有信(やまだしんすけありのぶ)はわずかな兵力でよく防ぎ、とうとう大友軍は大敗しました。これを高城川合戦とよんでいます。この合戦が原因で、今度は豊臣秀吉の弟、秀長卒いる十五万の大軍と合戦することになりますが、この時も新介はよく防ぎ、この城は落城しませんでした。これからの戦いは、戦国時代の九州において最大規模の合戦であります。またこの高城は、その二度の戦いとも落城しなかった難攻不落の名城として、名将、山田新介有信の名と共に語り継がれています。城としての特徴は、現在城山公園として利用されている箇所が、東側の主郭と考えられる曲輪と考えられています。ここでは島津氏の家臣であった城主山田新介有信らが、戦いに備えるための本部として利用していたと考えられます。またこの城に敵が侵入するのを防ぐために、七箇所の竪堀がみられるのが特徴です。当時の山城にはこういった自然地形を利用して、幾多の戦いを繰り広げております。平成四年度には、木城町の城山公園整備事業によるメロディー時計台建設に伴い発掘調査が実施されました。その結果、竪穴状遺構、柱穴、石列、などの遺構、土師器と言われる杯、皿、小皿、青磁器、白磁器、陶器、などの遺物が確認されました。これらの遺物の時期は、戦いが繰り広げられた時期に該当し、当時の戦いの状況がより理解することができます。


===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)===日向高城===

この高城城跡は標高60mを数えます。地形は、舌状に細長く伸び台地であり、見晴らしには大変優れた所に営まれた山城です。この城では、天正六年(1578年)、天正十五年(1587年)の二度に渡り、大合戦がありました。現在では城山公園として整備され春には桜が咲き桜の名所として有名な場所です。

(写真をクリックすると大きくなります)===日向高城説明板===

◇高城城跡は、小丸川とその支流である切原川に挟まれ、標高60mを数えます。地形は、舌状に細長く伸び台地であり、見晴らしには大変優れた所に営まれた山城であります。この城では、天正六年(1578年)、天正十五年(1587年)の二度に渡り、大合戦がありました。その当時、日向で勢力を誇っていた伊東氏が島津氏に負けて大分に逃げ、親類の大友氏を頼ります。大友氏はこの際、新興勢力の島津氏をつぶそうと、約五万の大軍でこの城を攻撃しました。しかし高城城主山田新介有信(やまだしんすけありのぶ)はわずかな兵力でよく防ぎ、とうとう大友軍は大敗しました。これを高城川合戦とよんでいます。この合戦が原因で、今度は豊臣秀吉の弟、秀長卒いる十五万の大軍と合戦することになりますが、この時も新介はよく防ぎ、この城は落城しませんでした。これからの戦いは、戦国時代の九州において最大規模の合戦であります。またこの高城は、その二度の戦いとも落城しなかった難攻不落の名城として、名将、山田新介有信の名と共に語り継がれています。城としての特徴は、現在城山公園として利用されている箇所が、東側の主郭と考えられる曲輪と考えられています。ここでは島津氏の家臣であった城主山田新介有信らが、戦いに備えるための本部として利用していたと考えられます。またこの城に敵が侵入するのを防ぐために、七箇所の竪堀がみられるのが特徴です。当時の山城にはこういった自然地形を利用して、幾多の戦いを繰り広げております。平成四年度には、木城町の城山公園整備事業によるメロディー時計台建設に伴い発掘調査が実施されました。その結果、竪穴状遺構、柱穴、石列、などの遺構、土師器と言われる杯、皿、小皿、青磁器、白磁器、陶器、などの遺物が確認されました。これらの遺物の時期は、戦いが繰り広げられた時期に該当し、当時の戦いの状況がより理解することができます。

(写真をクリックすると大きくなります)===日向高城縄張り図===

高城は、日向三高城(高城、高岡城、月山日和城)の一つで、伊東氏48城でもありました。高城は、三方が急な崖となっている丘陵に築かれていて、唯一西方面が丘陵と地続きとなっているため、7条の空堀が掘られて防備されていました。豊臣秀長や大友宗麟による大軍でも落とすことの出来なかった高城だが、現在は城山公園となっていて、本の丸を中心に腰曲輪がよく整備されて残っています。

 
(写真をクリックすると大きくなります)===時計台よりの眺望===

この模擬櫓(時計台)からは木城町の町並みが一望できます。茶色の建物が木城町役場でその前には小丸川が流れています。中央にみえる道路は県道木城西都線です。左は川南方面右は高鍋方面後ろの稜線は西都の山々です。

(写真をクリックすると大きくなります)===時計台よりの眺望===
(写真をクリックすると大きくなります)===新納観音像===

木城町一帯は天正六年(1578年)415年前、高城合戦(耳川合戦)で大友宗麟と島津義久の激戦地の跡地であります。この戦いで約四千人とも七千人とも言われる方々が亡くなられたとのこと。今でも田んぼや畑の中、山の中、いたるところに供養されていない戦没者の無縁墓がそのまま放置されているのを、木城町、川南町、高鍋町、西都市でみかけられます。その供養されていない戦没者の霊の成仏とその魂を鎮めるために供養塔を建立しました。


:===現地供養塔石碑説明文より===

日向都城城(宮崎県)2010年09月16日 06時30分53秒

☆☆☆☆☆  ひゅうが みやこのじょう じょう ☆☆☆☆☆
(写真をクリックすると大きくなります)===日向都城 城山大手門===

◇都城は、永和元年(1375年)、北郷讃岐守義久によって築城されました。北郷氏は島津宗家4代・忠宗の六男資忠が北郷姓を称し、義久が2代目となりました。文禄4年(1595年)、北郷氏は薩摩祁答院3万7千石に移封となり、伊集院忠棟が豊臣秀吉の命で大隅鹿屋から移され都城城主となった。慶長4年(1599年)、島津宗家の継承問題から、伊集院忠棟は当主島津忠恒(後に家久)に討たれた。そのため、忠棟の子・忠真は庄内の乱を起こしたが、忠真は殺され、北郷忠能が4万千3百石を領して都城城主となった。元和元年(1615年)、一国一城令により都城は廃城となり、北郷氏は領主館を築いて都城を領し、明治を迎えました。

 

所在地 :宮崎県都城市都島町字本城

遺  構 :曲輪、模擬櫓門、城壁、空堀

形  式 :山城    築城者:北郷義久    築城年式: 永和元年

都城は、永和元年(1375年)、北郷讃岐守義久によって築城されました。北郷氏は島津宗家4代・忠宗の六男資忠が北郷姓を称し、義久が2代目となりました。文禄4年(1595年)、北郷氏は薩摩祁答院3万7千石に移封となり、伊集院忠棟が豊臣秀吉の命で大隅鹿屋から移され都城城主となった。慶長4年(1599年)、島津宗家の継承問題から、伊集院忠棟は当主島津忠恒(後に家久)に討たれた。そのため、忠棟の子・忠真は庄内の乱を起こしたが、忠真は殺され、北郷忠能が4万千3百石を領して都城城主となった。元和元年(1615年)、一国一城令により都城は廃城となり、北郷氏は領主館を築いて都城を領し、明治を迎えました。

 
(写真をクリックすると大きくなります)===日向都城歴史資料館===

北郷氏(都城島津氏)の居城であった都之城址本丸跡に、林野庁のモデル木造施設建設事業として建設された城郭風建築物であり、1989年(平成元年)10月20日に開館しました。北郷氏に伝わる古文書や美術工芸品、遺跡出土品などを展示し、都城の歴史や文化を紹介しています。

(写真をクリックすると大きくなります)===日向都城歴史資料館===

北郷氏(ほんごうし)は薩摩国の大名、島津氏の有力分家。南北朝時代の島津宗家4代当主島津忠宗の子、資忠よりはじまる。資忠は北朝方として功があり、足利氏より薩摩迫一帯(現宮崎県都城市山田町)の地を与えられ、郷名を取って北郷氏を称した。その直系は室町時代から幕末にかけ日向国都城一帯を治めたが、江戸時代に島津姓に復したため都城島津氏ともいう。

(写真をクリックすると大きくなります)===日向都城本丸虎口跡===

◇この虎口は都城古絵図(都城島津家所蔵)に描かれた本丸西側にある二つの虎口(a ・ b)のうちの一つ( a )である。(現在、歴史資料館正面入り口の階段付近)。虎口とは、城郭の出入り口を虎の口に例えたもので、敵兵の攻撃に対する防御や城兵の突撃に際し工夫を凝らして構築されている。発掘調査で発見された本丸東側の虎口がL字やT字路を呈することによって場内を直接見通せないような仕組みになっていたのに対し、この虎口は直線的な長いアプローチで場内に入るのが特徴である。本丸の重要な出入り口であると考えられる。

 
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この虎口は都城古絵図(都城島津家所蔵)に描かれた本丸西側にある二つの虎口(a ・ b)のうちの一つ( a )である。(現在、歴史資料館正面入り口の階段付近)。虎口とは、城郭の出入り口を虎の口に例えたもので、敵兵の攻撃に対する防御や城兵の突撃に際し工夫を凝らして構築されている。発掘調査で発見された本丸東側の虎口がL字やT字路を呈することによって場内を直接見通せないような仕組みになっていたのに対し、この虎口は直線的な長いアプローチで場内に入るのが特徴である。本丸の重要な出入り口であると考えられる。


===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)===日向都城茶室静山亭===

薩摩 鹿児島城(鹿児島県)2010年09月17日 16時16分19秒

(写真をクリックすると大きくなります)===薩摩鹿児島城(鶴丸城)===
(C) Script by ja4chu

◇この鹿児島城は江戸時代の1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城されました。前年の関ヶ原の戦いで薩摩国の島津氏は石田三成ら西軍側に属して敗北し、責を負って引退した実父の島津義弘に代わり、義弘の実子で義弘の兄の島津義久の婿養子となっていた忠恒(家久)が新当主となっており、東軍として勝利した徳川家康の脅威に対抗する手段として、当時の内城に代わる城として鶴丸城の構築を開始し、1604年(慶長9年)に完成しました。忠恒(家久)の実父の義弘は海岸に近いこの地は防御に問題があり城を築くのに適さないとし、最後まで築城に反対していました。家康の薩摩征伐は実施されることなく、薩摩藩は外様大名として存続を許されることとなり、忠恒の代に鶴丸城が実戦で用いられることはありませんでした。しかし、数百年後、幕末の薩英戦争の時に義弘の懸念は現実のものとなり、イギリス軍艦から奥御殿に砲弾を何発か打ち込まれるなど脅威にさらされることになりました。しかし、簡素な造りだったためにイギリス軍艦は寺を天守と間違えて砲撃しています。鹿児島は災害の多い地域でもあり、また南国でもあったためシロアリ被害が多く、また幾度も焼失・倒壊し、そのたびに建て替えが行われた。1874年(明治7年)に焼失したのちは再建されることはありませんでした。1901年以降、城址は第七高等学校造士館の校地として使用され、戦後、鹿児島県立大学医学部、国立鹿児島大学医学部基礎教室、現在は本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っています。

所在地 : 鹿児島県鹿児島市城山町

遺  構 : 石垣、堀

形  式 : 平山城    築城者: 島津家久  築城年式: 慶長七年


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この鹿児島城は江戸時代の1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城されました。前年の関ヶ原の戦いで薩摩国の島津氏は石田三成ら西軍側に属して敗北し、責を負って引退した実父の島津義弘に代わり、義弘の実子で義弘の兄の島津義久の婿養子となっていた忠恒(家久)が新当主となっており、東軍として勝利した徳川家康の脅威に対抗する手段として、当時の内城に代わる城として鶴丸城の構築を開始し、1604年(慶長9年)に完成しました。忠恒(家久)の実父の義弘は海岸に近いこの地は防御に問題があり城を築くのに適さないとし、最後まで築城に反対していました。家康の薩摩征伐は実施されることなく、薩摩藩は外様大名として存続を許されることとなり、忠恒の代に鶴丸城が実戦で用いられることはありませんでした。しかし、数百年後、幕末の薩英戦争の時に義弘の懸念は現実のものとなり、イギリス軍艦から奥御殿に砲弾を何発か打ち込まれるなど脅威にさらされることになりました。しかし、簡素な造りだったためにイギリス軍艦は寺を天守と間違えて砲撃しています。鹿児島は災害の多い地域でもあり、また南国でもあったためシロアリ被害が多く、また幾度も焼失・倒壊し、そのたびに建て替えが行われた。1874年(明治7年)に焼失したのちは再建されることはありませんでした。1901年以降、城址は第七高等学校造士館の校地として使用され、戦後、鹿児島県立大学医学部、国立鹿児島大学医学部基礎教室、現在は本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っています。

(写真をクリックすると大きくなります)===薩摩鹿児島城===
本丸石垣との間に石橋が架かっている所に御桜門がありましたが1874年明治7年に焼失しその後再建されませんでした。
(写真をクリックすると大きくなります)===鹿児島城大手門跡===
(写真をクリックすると大きくなります)===鹿児島城大手門跡石垣===
(写真をクリックすると大きくなります)===鹿児島城大手門跡===

本丸入り口付近には石垣と枡形がそのままの状態で保存されています。

(写真をクリックすると大きくなります)===黎明館門===
(写真をクリックすると大きくなります)===鹿児島県歴史資料センター黎明館===

この鹿児島県歴史資料センター黎明館は,明治百年(昭和43年)を記念して,昭和58(1983)年に開館した人文系の総合博物館で,鹿児島の歴史,考古,民俗,美術・工芸を紹介しています。  黎明館の敷地は,江戸時代の鹿児島(鶴丸)城本丸跡で,現在でも濠,石垣,石橋など由緒あるものが残っており,これらは鹿児島県指定史跡になっています。

(写真をクリックすると大きくなります)===鹿児島城外堀===
堀にはこの時期になると水蓮の花が咲き乱れ観光客を楽しみさせています。
(写真をクリックすると大きくなります)===鹿児島城外堀水蓮の花===
(写真をクリックすると大きくなります)===鹿児島城本丸石垣と堀===

肥後 佐敷城跡(熊本県)2010年09月23日 18時46分09秒

(写真をクリックすると大きくなります)===佐敷城跡入り口===
(C) Script by ja4chu

◇佐敷城は、16世紀後半に肥後の国(現在の熊本県)を治めた加藤清正が薩摩の国(現在の鹿児島県)や球磨、天草地方へつながる交通の要であった佐敷に築かれた近世城郭で、城山(87.3m)と呼ばれる丘陵一帯を城域とし、山上からは不知火海や天草諸島、城下町、薩摩街道の難所である佐敷太郎峠を一望できます。肥後国境を守る「境目の城」であり、島津軍とは二度、直接戦火を交え、これらの戦いにまつわる言い伝えは葦北郡一帯に残っています。大阪夏の陣で豊臣家が滅んだ元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となり壊されますが、寛永十五年(1638年)、天草、島原の乱終結直後にも江戸幕府から「壊し方が不十分」と指摘され再度壊されたことが、古文書や発掘調査等により確認されました。城は、山上にある本丸、二の丸、三の丸が総石垣造りで構成され、石垣は石材や積み方の違いなどから三時期に分けられ、築造技術の進歩を一体的に確認することができます。また、石垣隅角部や石段を念入りに壊すなど、「城の壊し方」の痕跡が確認されています。発掘調査では、戦乱の無い時代の到来を願った天下泰平国土安穏銘鬼瓦や豊臣政権との深い関係を示す桐紋入鬼瓦、文禄、慶長の役に際し朝鮮半島から連れてきた職人が作ったと考えられる瓦等、当時の社会情勢を示す遺物が出土しました。また、本丸周辺からは、お酒を飲む杯(かわらけ)とともに魚の骨や貝殻が出土し、宴会を楽しむ人たちの姿を想像することができます。このように佐敷城跡は、石垣築造技術の進歩や一国一城令による破壊の実態等、近世初頭頃の政治、軍事を知るうえで重要な遺跡であるとして、国史跡に指定されました。

所在地: 熊本県葦北郡芦北町佐敷

遺  構: 曲輪、石垣、堀切

形 式 : 山城    築城者: 佐敷氏   築城年式: 南北朝時代


(写真をクリックすると大きくなります)===佐敷城跡全景絵図===
(写真をクリックすると大きくなります)===佐敷城跡縄張り図===
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佐敷城は、16世紀後半に肥後の国(現在の熊本県)を治めた加藤清正が薩摩の国(現在の鹿児島県)や球磨、天草地方へつながる交通の要であった佐敷に築かれた近世城郭で、城山(87.3m)と呼ばれる丘陵一帯を城域とし、山上からは不知火海や天草諸島、城下町、薩摩街道の難所である佐敷太郎峠を一望できます。肥後国境を守る「境目の城」であり、島津軍とは二度、直接戦火を交え、これらの戦いにまつわる言い伝えは葦北郡一帯に残っています。大阪夏の陣で豊臣家が滅んだ元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となり壊されますが、寛永十五年(1638年)、天草、島原の乱終結直後にも江戸幕府から「壊し方が不十分」と指摘され再度壊されたことが、古文書や発掘調査等により確認されました。城は、山上にある本丸、二の丸、三の丸が総石垣造りで構成され、石垣は石材や積み方の違いなどから三時期に分けられ、築造技術の進歩を一体的に確認することができます。また、石垣隅角部や石段を念入りに壊すなど、「城の壊し方」の痕跡が確認されています。発掘調査では、戦乱の無い時代の到来を願った天下泰平国土安穏銘鬼瓦や豊臣政権との深い関係を示す桐紋入鬼瓦、文禄、慶長の役に際し朝鮮半島から連れてきた職人が作ったと考えられる瓦等、当時の社会情勢を示す遺物が出土しました。また、本丸周辺からは、お酒を飲む杯(かわらけ)とともに魚の骨や貝殻が出土し、宴会を楽しむ人たちの姿を想像することができます。このように佐敷城跡は、石垣築造技術の進歩や一国一城令による破壊の実態等、近世初頭頃の政治、軍事を知るうえで重要な遺跡であるとして、国史跡に指定されました。


===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸東門石垣===
(写真をクリックすると大きくなります)===本丸東門跡石垣===
(写真をクリックすると大きくなります)===追手門跡石垣===
(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸跡から本丸跡石垣===
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◇「見張り番」の城だったことからも分かるように、佐敷港や人吉方面に続く山々をここから見渡すことができます。またこの佐敷城発掘の際には、東側追手門跡から「天下泰平国土安穏」の銘のある鬼瓦が完全な形で発見され、西側から出土した桐紋鬼瓦からは佐敷城が豊臣秀吉の重要な要塞の一つであったことがうかがえます。これら発掘品は平成10年3月に県重要文化財に指定されています。 

「見張り番」の城だったことからも分かるように、佐敷港や人吉方面に続く山々をここから見渡すことができます。またこの佐敷城発掘の際には、東側追手門跡から「天下泰平国土安穏」の銘のある鬼瓦が完全な形で発見され、西側から出土した桐紋鬼瓦からは佐敷城が豊臣秀吉の重要な要塞の一つであったことがうかがえます。これら発掘品は平成10年3月に県重要文化財に指定されています。

(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸東門枡形虎口跡石垣===

虎口は城郭、あるいは曲輪の正面開口に当たり、城内の軍勢にとっての出入口であると同時に、城攻めの際には寄せ手が肉薄する攻防の要所となるため厳重に防御される。古くは開口に木戸等の門を設け、両脇に櫓を建てて攻め手に備えるなど簡易なものであったが、戦国期に著しい発展を遂げ、城の縄張の重要要素となっていった。

(写真をクリックすると大きくなります)===三の丸跡から二の丸跡石垣===
(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸から見る三の丸跡===
(写真をクリックすると大きくなります)===本丸跡にある堀切===

この堀切は東側と西側に延び大手門口(城の表門)と搦め手門口(城の裏門)につながっています。

(写真をクリックすると大きくなります)===大手口跡と枡形虎口===

枡形虎口とは、二つの城門にはさまれた所が、方形の空間になっており、最初の門と次の門に至る間に左または右に直角に折れて城内に入るものである。.

(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸搦め手門跡石垣===
(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸から本丸への虎口===
(写真をクリックすると大きくなります)===本丸跡から二の丸枡形虎口跡石垣===

この本丸跡からの眺望は最高です。佐敷川に挟まれて、漆喰塗篭の土蔵造の民家、町家群、寺院などで構成された伝統的たたずまいを持つ町並みがある。旧薩摩往還沿いの新町、上町、本町には、土蔵造を混じえた町家が軒を接して建ち並び、のこぎり家並みや短冊形地割が見られます。

(写真をクリックすると大きくなります)===本丸跡から佐敷の町並み===

佐敷港や人吉方面に続く山々をここから見渡すことができます。真下は佐敷川河口付近の町並み。

(写真をクリックすると大きくなります)===天下泰平 銘の鬼瓦===
(C) Script by ja4chu

◇加藤清正の重臣・加藤与左衛門重次がここの城代を務めた。築城は天正17年(1588年)ごろであろう。文禄元年(1592年)豊臣秀吉の命令で朝鮮半島に出陣(文禄の役)したすきをつかれ、薩摩の梅北国兼に一時乗っ取られる事件(梅北の乱)が起こった。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いに関連して、島津軍に包囲される事件が起こった。この後大改築が行なわれ、本格的な近世城の姿になった。城の破壊は、元和元年(1615年)、幕府の一国一城令によるが、寛永14年(1637年)に起こった天草・島原の乱の後にも石垣が壊された。発掘調査で石垣の下部が確認され、桐紋の鬼瓦や「天下泰平」銘の鬼瓦など貴重な遺物が出土している。出土された「天下泰平国土安隠」の銘のある鬼瓦は、築城の際、戦乱が治まるようにという願いを込めたとものといわれています。===現地説明板より===

加藤清正の重臣・加藤与左衛門重次がここの城代を務めた。築城は天正17年(1588年)ごろであろう。文禄元年(1592年)豊臣秀吉の命令で朝鮮半島に出陣(文禄の役)したすきをつかれ、薩摩の梅北国兼に一時乗っ取られる事件(梅北の乱)が起こった。

慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いに関連して、島津軍に包囲される事件が起こった。この後大改築が行なわれ、本格的な近世城の姿になった。

城の破壊は、元和元年(1615年)、幕府の一国一城令によるが、寛永14年(1637年)に起こった天草・島原の乱の後にも石垣が壊された。

発掘調査で石垣の下部が確認され、桐紋の鬼瓦や「天下泰平」銘の鬼瓦など貴重な遺物が出土している。

出土された「天下泰平国土安隠」の銘のある鬼瓦は、築城の際、戦乱が治まるようにという願いを込めたとものといわれています。

===現地説明板より===

(写真をクリックすると大きくなります)===桐紋の鬼瓦===

この佐敷城発掘の際には、東側追手門跡から「天下泰平国土安穏」の銘のある鬼瓦が完全な形で発見され、西側から出土した桐紋鬼瓦からは佐敷城が豊臣秀吉の重要な要塞の一つであったことがうかがえます。( 七七桐紋入り鬼瓦(豊臣家の紋)

(写真をクリックすると大きくなります)===鯱(しゃち) 瓦=== この鯱瓦は佐敷城発掘の際に出土した瓦です。非常にユーモラスな形をした鯱瓦で、歴史的価値の高いものです。