ようこそ! あなたは アクセスカウンター 番目のお客様です
今日はです

新年のご挨拶。2011年01月01日 00時00分00秒

(写真をクリックすると大きくなります)===大天守閣(左)と小天守閣(右)
(写真をクリックすると大きくなります)===熊本城大天守閣(左)と小天守閣(右) === (click..play)

喜びも悲しみも幾歳月2011年01月07日 21時27分59秒

(click..play) (画像をダブルクリックすると大きく見られます。)
(C) Script by ja4chu

喜びも悲しみも幾歳月は、海の安全を守るため、日本各地の辺地に点在する灯台を転々としながら厳しい駐在生活を送る燈台守夫婦の、戦前から戦後に至る25年間を描いた長編ドラマです。 1956年に雑誌掲載された福島県塩屋埼灯台長(当時)田中績の妻・きよの手記から題材を得て、木下監督自身が脚本を執筆しました。全編に渡りカラー映像で撮影され、単なるホームドラマの枠を超えて日本各地の美しく厳しい風景を活写した大作で、公開当時大ヒット作となり、同年の芸術祭賞を受賞しました。若山彰の歌唱による同名主題歌の『喜びも悲しみも幾歳月』も大ヒットし、後世でも過去の著名なヒット曲としてしばしば紹介されています。

(click..play)

写真のなかの灯台は島根県出雲日御碕灯台、大分県香々地灯台、山口県彦島台場灯台、山口県蓋井島灯台、山口県角島灯台、山口県川尻岬灯台、山口県俵島灯台です。なかでも出雲日御碕灯台は、 明治36年(1903)に設置され、高さは43.65m、海面から灯塔の頭上までは63.30mと日本一の高さを誇ります。光度は46万カンデラで夜間約39km沖合まで達し、107歳の今なお現役で海の安全を守っています。 外壁は松江市美保関町から硬質の石材を切り出して使用した美しい石造りです。内壁はレンガ造りで施され、外壁と空間をあけた特殊な二重構造となっています。 その歴史や文化的な価値の高さから、平成10年に「世界の歴史的灯台百選」の一つに選ばれました。

小国両神社(熊本県小国)2011年01月24日 12時08分57秒

(写真をクリックすると大きくなります)===小国両神社桜門===

所在地= 熊本県阿蘇郡小国町大字宮原一六七〇番地

(写真をクリックすると大きくなります)===小国両神社境内由緒掲示板===
◇◇◇小国両神社御由緒略記◇◇◇
熊本県阿蘇郡小国町大字宮原一六七〇番地
御祭神
高橋大神(たかはしおおかみ) 火宮大神(ひのみやおおかみ) 雨宮媛命(あまみやひめのみこと) 御妃神二座・御親族の神十六座奉祀
神系図
神武天皇ー神八耳命ー健磐龍命(阿蘇大明神)ー 阿蘇国造大神 速瓶玉命ー  ー彦御子神(阿蘇大宮司家祖神)ー高橋神 (両神社主祭神) 雨宮媛命ー ー火宮神 (両神社主祭神)
御神徳

生活守護 農林諸業繁栄・祈雨祈晴・火防・縁結び武徳必勝・開運厄除 元寇の役で軍将北条公戦勝の祈願や、北里氏祖の綿貫石開運勝利の故事による。

御由緒

杜記によれば、太古の昔、高橋神・火宮神のご兄弟は、父祖阿蘇大神より小国郷開拓の命を受け農耕を起こし、衆庶に衣食住や殖産興業等の生活根源を教え、郷土開発先駆の多大な功績を残された。このご聖徳と、ご功業を敬仰し、第十六代仁徳天皇の御代に高橋大神を祀り、第十八代反 正天皇の御代に火宮大神を祀り、これより両神社(りょうじんじゃ)の御社名が始まったと伝わる古社である。

特殊神事
  一、御衣更神事 一、古伝の神饌 一、すがもり神事
社殿建物

社司年代記に、平安朝の天暦元年や鎌倉時代の弘安四年造営、応仁・文明の後、兵乱相続き社殿 廃毀焼亡とあり、古文書も焼失のため詳細は不明なり。本殿は元禄二年(西暦一六八九年)再建す。大正二年改築のため宮山を切り開き本殿を解体移築し、拝殿、楼門を新築す。平成三年十九合台風のため倒伏の杉大木により、楼門倒壊、本殿屋根、社務所大破するも平成九年十月再建竣功す。

◇◇◇祭 典◇◇◇
  十月十四日 御本祭高橋大神祭および献幣式  十月十五日 御本祭火宮大神祭 十月十六日~十八日 御神幸祭 十月十九日 御遷座祭 平成九年十一月吉辰 小国両神社 

(境内由緒掲示板より)
(写真をクリックすると大きくなります)===両神社西側の鳥居====
(写真をクリックすると大きくなります)===中央の鳥居と桜門====
(写真をクリックすると大きくなります)====小国両神社桜門===
(C) Script by ja4chu

社司年代記に、平安朝の天暦元年や鎌倉時代の弘安四年造営、応仁・文明の後、兵乱相続き社殿 廃毀焼亡とあり、古文書も焼失のため詳細は不明なり。本殿は元禄二年(西暦一六八九年)再建す。大正二年改築のため宮山を切り開き本殿を解体移築し、拝殿、楼門を新築す。平成三年十九合台風のため倒伏の杉大木により、楼門倒壊、本殿屋根、社務所大破するも平成九年十月再建竣功す。と記されています。

(click..play)

社司年代記に、平安朝の天暦元年や鎌倉時代の弘安四年造営、応仁・文明の後、兵乱相続き社殿 廃毀焼亡とあり、古文書も焼失のため詳細は不明なり。本殿は元禄二年(西暦一六八九年)再建す。大正二年改築のため宮山を切り開き本殿を解体移築し、拝殿、楼門を新築す。平成三年十九合台風のため倒伏の杉大木により、楼門倒壊、本殿屋根、社務所大破するも平成九年十月再建竣功す。と記されています。

(写真をクリックすると大きくなります)====小国両神社拝殿===
(写真をクリックすると大きくなります)====両神社と富くじ説明版===
(C) Script by ja4chu

両神社と富くじ 江戸時代の文政元年(西暦1818年)より両神社で「富くじ」を行うことが許された。この頃、宮原上町(現在の一番街)で造り酒屋を営む湊屋橋本順左衛門は、毎朝早起きして井川(現在のけやき水源)で手を洗い身を清め太古から湧き出る水を祀る水神様に自然の恵みを感謝した。そして小国郷の氏神である両神社へ参拝し、天下の太平と商売繁盛を祈ることを日々の勤めとしていた。 ある日の朝方、湊屋順左衛門は、けやき水源に小さな舟が流に逆らい入る夢を見た。湊に舟が入ることを吉兆と感じた、順左衛門は「富くじ」を買い、見事に大乙〔一番くじ〕を当てた。湊屋順左衛門の正夢の話を聞いた郷内城尾村市郎右衛門は、毎朝、一里の道をけやき水源に通い水神様と両神社に「一番くじ」を願って祈り続け心願成就し、両神社富くじと久住宮富くじに四回大乙〔一番くじ〕を当てたのである。 このことから、両神社の高橋宮・火宮の二祭神は「千両・万両の神様」と呼ばれるようになった。その後富くじは年毎に盛んになり、嘉永より安政年間までの十年間に七十六回も行われたと古文書に記載されている。 明治維新となり、両神社の富くじは無くなったが、今も祈願者に開運招福を授けて下さるのである。   平成十五年十二月 小国町商工会

(click..play)
◇◇◇両神社と富くじ◇◇◇

両神社と富くじ 江戸時代の文政元年(西暦1818年)より両神社で「富くじ」を行うことが許された。この頃、宮原上町(現在の一番街)で造り酒屋を営む湊屋橋本順左衛門は、毎朝早起きして井川(現在のけやき水源)で手を洗い身を清め太古から湧き出る水を祀る水神様に自然の恵みを感謝した。そして小国郷の氏神である両神社へ参拝し、天下の太平と商売繁盛を祈ることを日々の勤めとしていた。 ある日の朝方、湊屋順左衛門は、けやき水源に小さな舟が流に逆らい入る夢を見た。湊に舟が入ることを吉兆と感じた、順左衛門は「富くじ」を買い、見事に大乙〔一番くじ〕を当てた。湊屋順左衛門の正夢の話を聞いた郷内城尾村市郎右衛門は、毎朝、一里の道をけやき水源に通い水神様と両神社に「一番くじ」を願って祈り続け心願成就し、両神社富くじと久住宮富くじに四回大乙〔一番くじ〕を当てたのである。 このことから、両神社の高橋宮・火宮の二祭神は「千両・万両の神様」と呼ばれるようになった。その後富くじは年毎に盛んになり、嘉永より安政年間までの十年間に七十六回も行われたと古文書に記載されている。 明治維新となり、両神社の富くじは無くなったが、今も祈願者に開運招福を授けて下さるのである。

  平成十五年十二月 小国町商工会
===境内説明板より===