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熊本城Ⅱ(熊本県)2011年04月16日 15時05分24秒

(写真をクリックすると大きくなります)左から宇土櫓・小天守閣・大天守閣

所在地: 熊本県熊本市本丸町

遺 構: 復興天守、櫓、門、塀、石垣、堀

形 式: 平山城 築城者: 加藤清正 築城年代: 慶長6年

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日本三名城のひとつ熊本城は、名将加藤清正(かとうきよまさ)が幾多の実戦の経験を生かし、慶長6年(1601年)から7年の歳月と、心血を注いで築城したものです。 大小天守閣をはじめ、櫓(やぐら)49、櫓門18、城門29を数え、城郭の広さは約98ha(東京ドーム21個分)、周囲約5.3kmにも及ぶ豪壮雄大な構えで、清正流石垣と呼ばれる優美な石垣と、自然の地形を巧みに利用した高度な築城技術で知られています。 加藤家2代、細川家11代の居城として続いた後、明治になり廃城となりました。 西南戦争では薩摩の大軍を迎えて、50余日の籠城に耐え、不落の名城として真価を発揮しましたが、総攻撃の3日前、原因不明の火事により天守閣や本丸御殿(ほんまるごてん)など主要な建物を焼失してしまいました。 焼失を免れた宇土櫓(うとやぐら)など13棟の建造物が国の重要文化財に指定されています。

(写真をクリックすると大きくなります)熊本城・宇土櫓・石垣
(写真をクリックすると大きくなります)熊本城・宇土櫓側面
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本丸の西北隅、20mの高石垣の上に建つ3層5階地下1階、地上約19mの櫓で、天守並みの構造と大きさを誇ります。熊本城には天守とは別に、この規模の五階櫓(ごかいやぐら)が明治初年まで5棟(築城当時は6棟)存在しました。 宇土櫓の名前の由来は宇土(うと)の小西行長(こにしゆきなが)が関ヶ原で滅んだ後、小西の家臣の一部を清正が召し抱えて宇土小路(うとこうじ)として現在に名前を残します京町(きょうまち)に住まわせ、櫓をこの一団に管理させたことから、こう呼ばれたのではないかと言われています。 かつては宇土城天守閣を移築したとの説がありましたが、平成元年の解体修理の際にその痕跡が見つからなかったので、現在は否定されています。 宇土櫓の屋根には鯱が乗り、大小天守閣と並んで三の天守と呼ばれることもありますが、この鯱(しゃち)は旧来からあったものではなく、昭和2年(1927年)に陸軍が解体修理した際に城内に保管してあった鯱を取り付けたものです。この鯱は青銅製で高96cm、重さ約60kgあります。ちなみに、鯱(しゃち)は阿(あ)と吽(うん)の2体で1対です。(阿(あ)は雄のこと、吽(うん)は雌のこと。)国指定の重要文化財ですが、現在は内部を一般公開しています。

(写真をクリックすると大きくなります)宇土櫓・石垣
(写真をクリックすると大きくなります)熊本城・天守閣
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茶臼山の最高所、標高50mの天守台に築かれ、大小2つの天守からなります。 大天守は外観3層内部6階地下1階で、石垣の上に大根太を張り出して建物がその上に乗り、どっしりした印象を与えます。四面に優雅に反った千鳥破風(ちどりはふ)を配し、最上階の南北には唐破風(からはふ)を据えています。内部は戦闘に備えた部屋割りとなっており、明治初年に天守に登ったジェーンズは「巨大な中世の武器庫である」と書き残しています。 小天守は大天守成立後に増築されたもので、景観を考慮し西にずらして建てられています。外観2層内部4階地下1階で、内部は居住を意識した造りになっており、地下には井戸も掘られ最悪の場合天守のみでの籠城(ろうじょう)も可能な構造になっています。 大小天守とも最上階の望楼は建物の中に設けられており、これは慶長時代の特色であると言われています。 現在の天守閣は昭和35年(1960年)に、総工費1億8,000万円をかけて、鉄筋コンクリートで外観復元されたものです。復元にあたっては多くの市民が協力し、中でも松崎吉次郎(まつざききちじろう)翁からは5,000万円という巨額の寄付がなされました。 天守閣内部は熊本博物館分館となっており、1階は加藤家時代、2階は細川家時代、3階は西南戦争関連の資料を展示しています。 また最上階は展望所となっており、熊本市内はもとより遠く阿蘇(あそ)の山並みを見ることもできます。

(写真をクリックすると大きくなります)熊本城・未申櫓

未申櫓(ひつじさるやぐら)木造二重三階の隅櫓で、建築面積:約119平方メートル。建築費:約3億円で平成15年8月に復元。西出丸の未申(南西)の方向に位置する。

(写真をクリックすると大きくなります)熊本城・戌亥櫓

戌亥櫓(いぬいやぐら)木造二重三階の隅櫓(すみやぐら)で、建築面積:約113平方メートル。建築費:約4億6千万円で平成15年8月に復元。西出丸の戌亥(北西)の方向に位置する。

(写真をクリックすると大きくなります)熊本城・長塀・戌亥櫓
(写真をクリックすると大きくなります)熊本城・飯田丸五階櫓
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熊本城の本丸は「天守台」「平左衛門丸(へいざえもんまる)」「数寄屋丸(すきやまる)」「飯田丸(いいだまる)」「東竹の丸(ひがしたけのまる)」「竹の丸(たけのまる)」「西出丸(にしでまる)」に分けることができます。 飯田丸の南西隅に建つ五階建ての櫓が「飯田丸五階櫓」です。飯田丸の名称は加藤清正(かとうきよまさ)の重臣、飯田覚兵衛(いいだかくべえ)が管理していたことから、こう呼ばれるようになりました。熊本城南面防衛の要であり、櫓と塀で囲い込まれ、内部には井戸や台所、鉄砲蔵までも設けられています。西面には西櫓門を備え、出撃することも可能です。つまり飯田丸だけでも小さな城の機能を持っているのです。その小さなお城の天守閣の役目を果たすのが飯田丸五階櫓だったのです。 明治になり熊本城に鎮台が置かれると、「不要建物」として取り壊されてしまいましたが、その優美な姿は古写真に残され、多くの市民が復元を望み、平成17年に復元が完成しました。

(写真をクリックすると大きくなります)熊本城・東十八間櫓
(写真をクリックすると大きくなります)熊本城・北十八間櫓
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熊本城本丸内東竹の丸には、高石垣の上に西南戦争の火災にも焼け残った櫓が建ち並び、国指定の重要文化財に指定されています。 南から田子櫓(たごやぐら)、七間櫓(しちけんやぐら)、十四間櫓(じゅうよんけんやぐら)、四間櫓(よんけんやぐら)、源乃進櫓(げんのしんやぐら)、少し間を置いて東十八間櫓(ひがしじゅうはちけんやぐら)、北十八間櫓(きたじゅうはちけんやぐら)、五間櫓(ごけんやぐら)、不開門(あかずのもん)、平櫓(ひらやぐら)と続きます。 櫓は古くは「矢倉(やのくら)」と書き、武器庫から発展したものです。ここの櫓も普段は倉庫として使われていたと思われますが、外側には「石落し」や「狭間」があり、いざというときには戦える構造となっています。 また、熊本城の櫓の名称は単に大きさによって「七間櫓」や「十四間櫓」と呼ばれるものや、管理していた人の名前に由来する「源乃進櫓」「宇土櫓(うとやぐら)」など、また建っている方角により「戌亥櫓(いぬいやぐら)」「未申櫓(ひつじさるやぐら)」と呼ばれるものなどがあります。中には「田子櫓(たごやぐら)」のように収納していた木製の容器の名前がついた櫓もあります。 ちなみに熊本城では長さを現す単位「一間」は6尺5寸=約197cmです。 なお、熊本城ではこの東竹の丸の櫓群以外にも「宇土櫓」「長塀(ながべい)」「監物櫓(けんもつやぐら)」が国の重要文化財に指定されています。

(写真をクリックすると大きくなります)熊本城・平御櫓
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東の平御櫓(ひらおんやぐら)から西の馬具櫓(ばぐやぐら)まで約242mの塀が続いています。現存する城郭の塀の中では最長を誇ります。白漆喰(しろしっくい)に黒の下見板を張り、桟瓦(さんがわら)が乗っています。内側には凝灰岩(ぎょうかいがん)の控え柱が立ち貫(ぬき)で固定してあります。 過去に何度も修理が行われていますが、いつの時代かの修理の際に、石落としや狭間(さま)が失われてしまいました。平成3年の台風19号により約140mに渡り倒壊し、その後の修理でも石落としや狭間の詳細な位置や数が不明なため、旧状に復することなく現在に至っています。 春には、塀の内側から桜の花が川面に映り、また、秋のお城まつりでは長塀前河川敷で、県指定重要無形文化財に指定されている武田流騎射流鏑馬(たけだりゅうきしゃやぶさめ)の披露が行なわれます。

(写真をクリックすると大きくなります)熊本城・加藤清正公銅像

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加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。肥後国熊本藩初代藩主。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、「賤ヶ岳の七本槍」の一人である。その後も各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国を与えられた。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後国一国を与えられ、熊本藩主となった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。