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朝倉三連水車 (福岡県)2011年11月08日 06時34分09秒

(写真をクリックすると大きくなります)===朝倉菱野三連水車===

所在地:福岡県朝倉郡朝倉町菱野

◇◇◇歴史・由来◇◇◇
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当時、絶え間なく押し寄せる筑後川の洪水や、かんばつ、ききん等天災異変の中に幾多の犠牲と死闘を繰り返しつづけてきた祖先が新田開発のため、寛文3年(1663年)筑後川から水を取り入れることにより堀川を造った。 更に60年後の享保7年(1722年)岩盤を切り貫き現在の取入口を新設した。 しかし、山側の土地は位置が高いため、堀川の恩恵を受けることができなかった。そのためにこの土地では自動回転式の水車が設置されたのである。 三連水車は寛政元年(1789年)に設置されており、三島、九重(ひさしげ)の二連水車も同じく宝暦のころに設置されたものと思われる。 毎年6月中旬から10月中旬まで作動し、かんがい面積は、3基で35ヘクタールにもおよぶ。

(写真をクリックすると大きくなります)===堀川用水路===

寛政2年(1790年)当時の庄屋古賀百江を中心にして、堀川の水量を増加させかんがい面積を増やすために筑後川(堀川取水口上部)に山田堰を造った。 表面積25.370㎡で、今日もなお昔の面影をとどめ堀川への導水を容易にし、670ヘクタールの美田をうるおしている。

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享保7年(1722年)安定した水量を確保するために旧取水口を現在の位置に移した。内部は巨大な岩をノミでくり貫いたトンネルになっている。 当時、長さ11間(約20m)内法5尺(約1.5m)四方で新設され、その後数回の改修が行われ内法10尺(約3.0m)四方に拡げられ、現在に至っている。

寛政元年(1789年)もともと二連式だったものに一挺加えることで現在の形態になった。 車の直径は上部4.76m、中部4.30m、下部3.98mで、この大きさは、水車の回転数、水田の高さ、揚水の量と密接な関りをもち、一日当り7.892tを揚水し13.5ヘクタールの水田をかんがいしている。

三連水車の里あさくら(水車の駅)
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鋼製三連水車朝倉を代表する文化的遺産として人々の生活を潤している三連水車は、寛政元年(1789年)に設置されました。その当時、洪水、干ばつ、そして飢饉といった天災異変のなか、新田開発のために堀川用水路を造った祭、その恩恵をうけることができるようにと自動回転式の水車が設置されたのです。現在では、本公園より約450m下流に菱野の三連水車、それより約130m下流に三島の二連水車の水車群が、毎年灌漑期の6月中旬から10月中旬まで稼動しています。この鋼製の三連水車は、水車群を代表する菱野の三連水車と同規模のステンレス製であり、モーター駆動方式の水車です。堀川用水路から導水管により本公園内の水路を経由してまた堀川用水路に流出させています。

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西椎屋のマチュピチュ(大分県)2011年11月23日 13時42分46秒

所在地: 大分県宇佐市西椎屋

(写真をクリックすると大きくなります)===西椎屋のマチュピチュ===

◇◇◇西椎屋のマチュピチュ◇◇◇
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ここから望むと、西椎屋集落の人が秋葉様(火伏せの神)と呼ぶ円錐形の山や棚田の石垣家屋の眺めが、南米ペルーの世界遺産に登録され空中都市と称される「マチュピチュ」ににていませんか?特に、マチュピチュの山ワイナピチュや石造の城壁にそっくりである。 また、峡谷を挟んだ一帯の眺めは、国の名勝「耶馬溪」の中の「椎屋耶馬」とも呼ばれ紅葉のシーズンだけでなく四季折々の景観が楽しめます。西椎屋集落には、西椎屋の滝本堂「大龍寺の梵鐘」があり、戦時中に供出されていたが、福岡県芦屋市で偶然発見され、地区民の願いによりふるさとに帰郷した逸話がある。 また、椎屋神社の境内には、樹高30m、胸高幹囲10.5m、根回りが13mもある「大銀杏」がそびえ樹齢約1300年とも言われている。 幹には乳房様の木根が下がっており、表皮を削り取って煎じて飲むと乳が出るようになると信じられており現在でもお参りする人もいるという。供に、宇佐市有形文化財となっている。

(写真をクリックすると大きくなります)===西椎屋のマチュピチュ説明板===
(写真をクリックすると大きくなります)===西椎屋耶馬の紅葉===
(写真をクリックすると大きくなります)===西椎屋耶馬の紅葉===

沈堕の滝 (大分県)2011年11月27日 06時05分06秒

(写真をクリックすると大きくなります)===沈堕の滝===

名  称:沈堕(ちんだ)の滝

所在地:大分県豊後大野市(旧大野町)清川町臼尾

(写真をクリックすると大きくなります)===沈堕の滝説明板===

(写真をクリックすると大きくなります)===鎮田瀑図===

これが雪舟が訪れ描いた鎮田瀑図である。雪舟が明国で会得した山水画の真髄を結集した作品といわれています。

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大分県の母なる川「大野川」は、源を遠く宮崎県五ヶ所(高千穂町)に発し、熊本県阿蘇郡から大分県直入郡をへて、この大野の地に至っている。名瀑「沈堕の滝」は、大野川本流にかかる幅百余メートル、高さ二十メートルの懸崖を落下する雄滝と、支流平井川かかる幅四メートル、高さ十八メートルの雌滝の二瀑からなり、その壮大な景観は「豊後のナイアガラ」とも呼ばれている。昔は遠く関東まで知られ多くの人々に絶賛され、なかでも室町時代のかの有名な「画聖」雪舟が訪れ描いたのが「鎮田瀑図」である。雪舟が明国で会得した山水画の真髄を結集した作品といわれている。当時の画家は寺院や邸宅の部屋に居座しながら描いたものであるが、雪舟は自然のありのままを描いており、数々の名作もこの作品を起点にされたという。この名瀑布の莫大なエネルギーは、明治時代末期に沈堕発電所の建設により電力に変えられた。この電力は、別府大分間の電車を走らせ、家庭用電力はもとより大分県の産業開発の原動力となり、文明開化の糸口となったのである。雄滝と雌滝の間にある西洋技術を取り入れた石造建築物がその発電所跡である。また、この沈堕の滝には古くから歴史的史実や竜神にまつわる伝説、言伝えも数多く残っている。

(写真をクリックすると大きくなります)===沈堕の滝===
(写真をクリックすると大きくなります)===沈堕の滝(雌滝)===
平井川の支流幅四メートル、高さ十八メートルから大野川に注ぎこまれています。
(写真をクリックすると大きくなります)===沈堕の滝(雌滝)===
(写真をクリックすると大きくなります)===沈堕の滝(雌滝)===
(写真をクリックすると大きくなります)===大野川に架かる大野橋===
(写真をクリックすると大きくなります)===旧沈堕発電所入り口石段===
(写真をクリックすると大きくなります)===旧沈堕発電所入り口跡===
(写真をクリックすると大きくなります)===旧沈堕発電所跡===

1909年(明治42年)に豊後電気鉄道株式会社によって別府<-->大分間の電車を運行するために沈堕発電所が建設されました。雄滝のすぐ上流に取水用の堰が設けられ、1923年(大正12年)には堰がかさ上げされたため水量が減少して往時の景観が損なわれました。しかし、1996年(平成8年)からの堰堤強化工事に伴い、常に一定量の放流が行われるようになり、かつての壮大な景観を取り戻しました。西洋技術を取り入れた石造建築物の沈堕発電所跡地です。