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仙巌園 (磯庭園) (鹿児島県)2012年03月05日 19時33分43秒

(写真をクリックすると大きくなります)===仙巌園正門===

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仙巌園は、江戸時代には歴代当主の別邸として、明治以降は磯島津公爵邸として、使われてきました。万治元年(1658年)、島津光久(19代当主)が、家老鎌田政近の旧宅だった大磯下津浜門屋敷(鹿児島城下北部)を御用地に定め、御仮屋を築いて「仙巌園」と名付けました。寛文12年(1672年)、屋敷の南に一亭を築いて、その翌年正月に同亭内で落成の宴を催したところ、二羽の鶴が庭先に舞い降りたのを嘉瑞として「喜鶴亭」とも呼ばれました。「錫門」や「望嶽楼」もこの時代に建てられたと伝えられています。古文書に「磯御仮屋守」「磯奉行」といった役名が見えることから、築庭当初から仙巌園を管理する役職がおかれていたようです。明治以降廃藩置県が行われると鹿児島城に熊本鎮台の分隊が置かれたため、明治5年(1872年)、島津忠義(29代当主)の妻子は鹿児島城を退去し、仙巌園 磯御茶屋に移り住みます。それ以降、仙巌園は島津本家の生活の場となり、「磯御殿」と呼ばれるようになりました。

明治17年(1884年)に御殿の大規模な改築・修繕を行い、また御庭方小田喜三次に命じて「獅子乗大石灯籠」を造りました。明治20年(1887年)に実父島津久光が没したのを機に、明治21年(1888年)、忠義は鹿児島県貫属(かんぞく/明治期、地方自治体の管轄に属すること。明治17年(1884年)まで、旧藩主は東京在住を命じられていましたが)許可されて鹿児島に移り住んだことから、仙巌園は島津本家の本邸となりました。明治28年(1895年)、大重伊三次に命じて総門を造り、これを「正門」に定めました。忠義が明治30年(1896年)12月に没し、翌明治31年(1897年)4月に、島津忠重(30代当主)が東京に移住したため、磯邸は島津家別邸となりました。終戦後の昭和24年(1949年)には鹿児島市の管理となり、「磯公園」として一般開放されましたが、昭和32年(1957年)に当社に返還され、現在に至っています。

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