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観察禅院蓮の花Ⅱ(wmv) (山口県)2012年07月09日 15時41分07秒

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下関市富任町の蓮田で今年も白やピンクの蓮の花が見頃を迎えています。ときより訪れる人を和ましています。この花も八月半ばまでは観賞できそうです。品種は八種類あるようです。

所在地 : 山口県下関市富任町

名 称 : 臨済宗観察禅院

萩城跡 北の総門(山口県)2012年07月17日 18時19分00秒

(写真をクリックすると大きくなります)===北の総門===

所在地: 山口県萩市堀内

名 称:北の総門 (復元)

構造形式:脇戸付高麗門・切妻造・本瓦葺

規 模:高さ約7m. 柱間約5.9m

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この北の総門は、三の丸(堀内)の入り口である総門の一つです。総門は北、中、平安古の三ヶ所があり、あわせて「大手三つの門」と呼ばれました。昼間は門番が常駐して出入りする者を監視し、夜は門を閉じて鑑札を持った者しか通れませんでした。元文年間(1739年~40年)の絵図によると、北、中の総門の前に、新たに枡形と南北の船着場が描かれています。枡形と土橋には土塀が巡り、船着場に続く箇所は食い違いになっています。この時期に北、中の総門周辺が再整備されたことがうかがえます。

(写真をクリックすると大きくなります)===北の総門===
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脇戸付きの切妻造り本瓦葺き、柱間約5.9m、高さ7mの日本最大級の高麗門です。平成16年11月に、「萩開府400年」を記念して復元されました。本柱や「冠木(かぶき)」と呼ばれる横材などは、欅(けやき)の巨木を使って復元されています。 その後、総門脇の土塁や船着場などが整備され、外堀に架かるものとしては全国唯一となる土塀付き土橋も整備され、土塀には白漆喰(しろしっくい)仕上げが施され、平成23年度に萩城跡外堀保存整備が完了しました。

(写真をクリックすると大きくなります)===南側船着場と外掘土橋上、漆喰土塀===

萩城跡外堀は、城下町と萩城三の丸(堀内)を分ける堀で、堀幅は江戸時代の初めには20間(約40m)でしたが、堀端に町屋が作られて14間(約28m)、8間(約16m)と狭くなりました。また外堀に架かる土橋上の土塀は、白漆喰で綺麗に仕上げられています。

(写真をクリックすると大きくなります)===南側外掘===

栗林公園 (香川県)2012年07月22日 09時32分08秒

(写真をクリックすると大きくなります)===栗林公園入り口===

所在地: 香川県高松市栗林町1丁目20-16

名 称: 栗林公園 (正式名称: 特別名勝 栗林公園)

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栗林公園の起こりは、16世紀後半、元亀天正の頃、当地の豪族佐藤氏によって、西南地区(小普陀付近)に築庭されたのに始まるといわれ、寛永年間(1625年頃)に、当時の讃岐国領主・生駒高俊(たかとし)公によって南湖一帯が造園され、現在の公園の原型が形作られました。

 その後、寛永19年(1642年)生駒氏の転封に伴い入封した初代高松藩主・松平頼重(よりしげ)公(水戸光圀公の兄君)に引き継がれ、さらに100年以上経た延享2年(1745年)、5代頼恭(よりたか)公の時に、園内六十景命名をもって完成しました。以来歴代藩主が修築を重ね、明治維新に至るまでの228年間、松平家11代の下屋敷として使用されました。

 明治4年(1871年)高松藩が廃せられ、新政府の所有となり、明治6年1月公布された「公園に関する太政官布告」に基づいて明治8年(1875年)3月16日に県立公園として一般に公開されるようになり、さらに昭和28年3月には、文化財保護法による「特別名勝」に指定され、今日に至っています。

(写真をクリックすると大きくなります)===栗林公園案内板===
(写真をクリックすると大きくなります)===栗林公園===
(写真をクリックすると大きくなります)===栗林公園芙蓉沼蓮の花===

夏には約1000株ある蓮(はす)の花が湖面を覆います。芙蓉は蓮の花の別名であり、1つの花は4日間の命といわれています。

(写真をクリックすると大きくなります)===栗林公園===
(写真をクリックすると大きくなります)===栗林公園南湖===

池の広さは約7,900㎡あり、この池を中心にまとまりのある景観が造られ、回遊しながら景色の変化を楽しむように造られています。南湖一帯は、園内の池の中でも最も力を注がれたところであり、芸術性の豊かな池です。杜鵑嶼・楓嶼・天女嶋の3島と、岩を組んだ仙磯、偃月橋があります。

(写真をクリックすると大きくなります)===栗林公園掬月亭(きくげつてい)===
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この建物は歴代の藩主が使用した茶室で、江戸時代は「大茶屋」といわれていました。玄関を持たず、どこからでも出入りできるように、いろいろなところに沓脱石(くつぬぎいし)が置かれた、数奇屋づくりの建物です。名前の由来は、唐代の詩の中の「水を掬すれば月手にあり」の一句から取ったものといわれています。園内の中心的な建物で、特に掬月の間から南湖を望む景観は、他に類を見ないすばらしい景観です。

(写真をクリックすると大きくなります)===栗林公園 南湖===

池を中心にまとまりのある景観が造られ、回遊しながら景色の変化を楽しむように造られています。南湖一帯は、園内の池の中でも最も力を注がれたところであり、芸術性の豊かな池です。

(写真をクリックすると大きくなります)===栗林公園 南湖===

高松城跡 (香川県)2012年07月30日 02時27分29秒

(写真をクリックすると大きくなります)===高松城跡表示板===

所在地 : 香川県高松市玉藻町2-1

名  称 : 高松城跡・玉藻公園

(写真をクリックすると大きくなります)===高松城・月見櫓(着見櫓)===
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この高松城は、天正15年(1587年)に讃岐一国を与えられた生駒親正(いこまちかまさ)は,翌天正16年(1588年)から数箇年かけて高松城を築城しました。このとき,「野原」の地名を『高松』と改めました。生駒氏の治世は寛永17年(1640年)の生駒騒動による転封まで4代54年間に及びました。

生駒氏転封後の寛永19年(1642年)には,松平頼重に東讃12万石が与えられました。頼重は城内の改修を行い寛文10年(1670年)には天守の改築を完成させ,翌年から東ノ丸,北ノ丸を新造し,2代藩主頼常は月見櫓や艮櫓などを建て,大手を南側から南東側に移動し,三ノ丸に御殿を建てました。その後,城は大きく改変されることなく,11代にわたって松平氏の居城としてその姿を見せていましたが,慶応4年(1868年),官軍に開城することになりました。

明治期に外堀は埋め立てられ市街化が進み,城郭の北側も埋立てが行われ海城の雰囲気が薄れました。また,中堀より内側は兵部省(のちの陸軍省)の管轄となり,城郭建物の多くは破却され,明治17年(1884年)には老朽化を理由に天守の解体が行われました。明治23年(1890年)に再び松平家に払い下げとなり,天守台に玉藻廟,三ノ丸に現在の披雲閣が建築されました。昭和29年(1954年)に高松市の所有となり,昭和30年(1955年)に国史跡として指定されています。

(写真をクリックすると大きくなります)===高松城・月見櫓(着見櫓)===
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この月見櫓は延宝4年(1676年)に上棟された建物です。3重3階で,南側に続櫓と呼ばれる櫓が付属しています。月見櫓は付属の続櫓とともに昭和22年(1947年)に国宝(現在の重要文化財)の指定を受けました。

昭和8年(1933年)松平家による修理,昭和30年~32年(1955年~1957年)の高松市による修理が行われました。なお,月見櫓は着見(=着くのを見る)から名付けられたと言われています。ここからは,瀬戸内海を一望できることから,海上の監視塔としての役割が考えられます。

(写真をクリックすると大きくなります)===高松城・水手御門===

北ノ丸は埋め立てられて造られた曲輪なので,海に面しています。特に水手御門は海に向かって開く門としては現存する唯一のもので,重要文化財に指定されています。門は薬医門で,海側には階段状の施設が所在したことが発掘調査で判明しており,現在は石段を復元しています。江戸時代には水手御門から小舟で出て,沖に停泊する御座船飛龍丸に乗船し,遊覧を楽しんだり参勤交代に出かけたりしたようです。

(写真をクリックすると大きくなります)===高松城・渡 櫓===

この渡櫓も重要文化財に指定された平櫓です。昭和30年~32年の修理の際には,石垣の継ぎ足し部分で使用木材が異なることも判明しました。なお,継ぎ足し前から存在する石垣上では海手門と呼ばれる門の礎石が検出されています。

(写真をクリックすると大きくなります)===西側の石垣===
二の丸の石垣堀には海水が入るように工夫されていてこの先には、水手御門まで続いています。
(写真をクリックすると大きくなります)===黒鉄櫓跡の石垣===

二の丸東北の隅櫓の一つ、黒鉄櫓跡の石垣。当時、一重の櫓でした。武櫓と同様、大形の石材を使用して、重要な曲輪の防備に配していました。

(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸通路の石垣===
(写真をクリックすると大きくなります)===修復された天守台石垣===

高松城の天守台については、築城から約420年が経過し、石材のズレやヌケの現象が発生し、崩壊のおそれがあったことから、2007年10月から解体修理工事が実施されましたが今年1月に天守台が完成いたしました。石垣高さは約13m

(写真をクリックすると大きくなります)===高松城・水門説明板===
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この高松城は、北は海、三方に濠(堀)をめぐらし海水を引き入れた日本三大水城の一つとして名高く、完全に海水を堀に取り入れた城は、この高松城だけである。築城当時は外堀、中堀、内堀を有し66万平方メートル(約20万坪)という広大な城域を誇り、堀には海水を満々と湛えて美しい姿を水面に映していましたが、明治初期に中堀の一部と外堀は埋められ、広さも9分の1ほどになった。

この堀の海水は、城の北側を通っている国道30号の下をくぐって瀬戸内海とつながっているため、今日でも内堀、中堀の水位は潮の干満によって変わっている。昔は、どのような水位調節をしていたか明らかでありませんが、海から稚魚(タイ・スズキ等)がこの潮に乗って水門の網から城に入り、成長した魚が堀で泳いでいるのが見えます。