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川之江城 (愛媛県)2012年08月03日 04時29分33秒

<(写真をクリックすると大きくなります)===川之江城・模擬天守===

名  称: 川之江城 (かわのえじょう) 別名: 仏殿 城

築城年間: 延元3年(1337年)~

築城者: 土肥義昌

城 主: 土肥氏、妻鳥(めとり)氏、河上氏

形 式: 山 城

所在地: 愛媛県四国中央市川之江町

<(写真をクリックすると大きくなります)===川之江城・模擬天守===

望楼部は基本的に、下層部の梁の上に載る形で築かれています。 この川之江城も望楼型の天守で、望楼部は物見櫓としての役割から回り縁を持っています。また接合部分は千鳥破風・唐破風を築き、防御性/装飾性を高めています。

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南北朝動乱の頃、南朝方河野氏の砦として、土肥義昌が延元3年(1337年)鷲尾山(城山)に川之江城を築いた。 興国3年(1342年)北朝方細川頼春が讃岐より7千の兵を率いて攻めてきた。義昌は出城の畠山城主由良吉里と共に防戦したが破れ、城を落ち延びて各地を転戦した末、武蔵国矢口の渡で戦死している。 細川氏の領有後、河野氏に返され、城主は妻鳥友春になった。元亀3年(1572年)阿波の三好長治が攻め入ったが撃退している。

土佐の長宗我部氏の四国平定の力に抗しきれなかった妻鳥友春は、河野氏に背いて長宗我部氏に通じた。怒った河野氏は河上但馬守安勝に命じて、城を攻め取らせた。天正7年(1579年)前後のことと思われる。 河上但馬守は、轟城の大西備中守と戦い、討たれたという話も残っているが、天正10年(1582年)長曽我部氏の再度の攻撃に破れ、戦死落城している。その時、姫ヶ嶽より年姫が飛び込んで自殺したという秘話伝説も残っている。

天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国平定に敗れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替わり、加藤嘉明の時、最終的に廃城となった。数々の攻防は、川之江が地理的に重要な位置にあった為の悲劇といえる。 戦国の世も終わった寛永13年(1636年)一柳直家が川之江藩2万8600石の領主になり、城山に城を築こうとしたが、寛永19年(1642年)病没し、領地は没収されて幕領となり、明治に至ったため、わずか6年の「うたかたの川之江藩」で終わった。

===現地説明板より===

(写真をクリックすると大きくなります)===川之江城・模擬天守涼櫓側から===
(写真をクリックすると大きくなります)===川之江城・櫓 門===

この川之江城跡は本丸付近の石垣に僅かに名残りを留めるに過ぎませんでしたが、川之江市制施行30周年記念事業として城の再建がなされました。この櫓門は昭和61年に天守閣、涼櫓、櫓門、空塀などが復元されました。

丸亀城 (香川県)2012年08月04日 16時40分20秒

(写真をクリックすると大きくなります)===丸亀城・天守閣===

名  称: 丸 亀 城 (まるがめじょう) 別名: 亀 山 城 ・蓬 莱(ほうらい)

築城年間: 応仁年間1467年~

築城者: 奈良元安 ・主な改修者: 生駒親正・山崎家治

城 主: 生駒親正・山崎家治 ・京極高和

形 式: 平 山 城

所在地: 香川県丸亀市1番丁

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この丸亀城は、1597年(慶長2)年、高松に入った豊臣秀吉配下の生駒親正が隠居のために築城を開始したのが始まり。それ以前に室町時代に管領・細川頼之重臣の奈良元安がこの場所に築城したとも言われているが、定かではありません。

生駒氏は親正、一正親子が関が原の戦いでそれぞれ西軍・東軍に分かれたため、西軍方として敗れた親正は高野山へ蟄居。生駒一正が単独で讃岐17万石を領有することになり、1602年(慶長7)年に丸亀城は完成するが、1615年(元和元)年の一国一城令に伴い廃城となってしまった。

その後、生駒氏は1640年(寛永17年)に家臣団が二派に分かれて抗争したため、出羽矢島1万石へ飛ばされる。そのため翌年、丸亀には新たに山崎家治が5万3000石で入城し、これに伴って丸亀城の再建がはじまりました。

そして山崎氏は三代続くが、世継ぎ無く改易されたため、1658年(万治)元年に京極高和が6万6000石で入城し、このときに現在も残る天守閣や石垣などが完成し、京極氏が明治維新まで丸亀城主を務めましたが残念ながら多くの建物が明治期に取り壊されたため、現在は重要文化財の天守と大手門、県指定文化財の藩主玄関先御門が残っています。

(写真をクリックすると大きくなります)===丸亀城・大手二の門===

丸亀城は生駒氏が慶長年間築城したが、一時廃城となり、山崎氏が寛永末年復興、万治元年京極氏が代り六万石の居城となった。大手一の門及び二の門は寛大十年の再建になり、一の門は櫓門、二の門は髙麗門で これに両脇塀が附属している。 これら遺構は手法にも特徴があり。且つ大手口の堂々たる偉容を示し、枡形の保存上からも大事な建物である。

(写真をクリックすると大きくなります)===丸亀城・大手一の門===
(写真をクリックすると大きくなります)===丸亀城・大手一の門枡形===

丸亀城大手枡形もと南方にあった大手枡形を、京極氏が入場直後の寛文十年(1670年)に北方の此の地へ移築したもので、大手一の門と二の門、狭間塀とよく調和された築造で、巨岩を多く用いた堅固な枡形で、甲州流軍学の標準とする五間に八間の「五八の枡形」を凌ぐ、十間(18メートル)に11間(19.8メートル)の巨大なものである。

(現地説明板より)
(写真をクリックすると大きくなります)===丸亀城・玄関先御門===

この玄関先御門は京極氏の屋敷の表門にあたり、門の形式は薬医門です。この門に接して番所・御駕籠部屋・長屋があります。

(写真をクリックすると大きくなります)===丸亀城・天守閣===
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この天守は亀山(標高66メートル)を利用し、縄張りはほぼ四角形で亀山の廻りを堀(内堀)で囲む、輪郭式の平山城です。石垣は、緩やかであるが荒々しい野面積みと端整な算木積みの土台から、頂は垂直になるよう独特の反りを持たせる「扇の勾配」となっています。山麓から山頂まで4重に重ねられ、総高60メートルの石垣は日本一高く、三の丸石垣だけでも一番高い部分は22メートルもあります。頂部の本丸には江戸時代に建てられた御三階櫓が現存しています。この建物は唐破風や千鳥破風を施して漆喰が塗られ高さは15メートルあり、現存する三重天守の中で最も小規模なものである。

(写真をクリックすると大きくなります)===丸亀城・天守閣側面===
(写真をクリックすると大きくなります)===丸亀城・天守閣よりの眺望===

この天守よりの眺望です、眼下には京極氏の屋敷表門・長屋・内堀石垣・などが綺麗に見ることができます。

(写真をクリックすると大きくなります)===丸亀城・月見櫓跡よりの眺望===

この月見櫓跡からは、飯野山(円錐状孤峰)をした讃岐富士とも呼ばれる美しい山です。標高422m、片道1時間位で登ることができます。

(写真をクリックすると大きくなります)===丸亀城・三の丸北側石垣===

この三の丸北側の石垣は、丸亀城の石垣のなかで最も高く一番高い所でも22mもあります。ここから、20m以上の城壁が続きます。隅角部の石垣は算木積みされた美しい曲線美で、「扇の勾配」と呼ばれています。

宇和島城(愛媛県)2012年08月09日 10時31分09秒

(写真をクリックすると大きくなります)===宇和島城・天守閣===

名  称 : 宇和島城 (うわじまじょう) 別 名 : 鶴島城 ・板島城 ・丸串城

築城年間 : 天慶4年941年

築城者 :橘 遠保   主な改修者 : 藤堂高虎 ・ 伊達宗利

城 主 : 藤堂氏 ・伊達氏

形 式 : 梯郭式 平 山 城

所在地 : 愛媛県宇和島市丸之内1丁目

(写真をクリックすると大きくなります)===宇和島城・天守閣===
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戦国時代、高串道免、城主の家藤監物が、天文15年(1546年)板島丸串城に入ったというのが、板島丸串城の記録に現れた始めである。 その後、天正3年(1575年)、西園寺宣久の居城となったが、同13年(1585年)には伊予の国が小早川隆景の所領となり持田右京が城代となった。

その後、同15年(1587年)宇和郡は戸田勝隆の所領となり戸田与左衛門が城代となった。文禄4年(1595年)藤堂高虎が宇和郡7万石に封ぜられ、その本城として慶長元年(1596年)築城工事を起こし、城堀を掘り、石垣を築いて、天守閣以下大小数十の矢倉を構え、同6年(1601年)ごろまでかかって厳然たる城郭を築きあげた。

慶長13年(1608年)高虎が今治に転封となり富田信高が入城したが、同18年(1613年)に改易となったので、約1年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり、藤堂良勝を城代とした。 慶長19年(1614年)12月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石に封ぜられ、翌元和元年(1615年)3月に入城の後宇和島城と改めた。

それ以後、代々伊達氏の居城となり、2代宗利のとき寛文4年(1664年)天守閣以下城郭全部の大修理を行い、同11年(1671年)に至り完成した。 天守閣は国の重要文化財に、また城跡は史跡に指定されている。 別称鶴島城ともいう。

===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)===宇和島城・天守閣の破風===

宇和島伊達家2代宗利が寛文6年(1666年)頃に再建、3重3階総塗籠式(そうぬりごめしき)、層塔型(そうとうがた)の天守です。各階の装飾性の高い破風(はふ)や懸魚(げぎょ)などから太平の世を象徴するものとして評されるとともに、小さいながらも御殿建築の意匠が随所に見られ、非常に格式を重んじた造りとなっています。万延元年(1860年)、昭和35年(1960年)に大修理を受けていますが、昔の姿を今もなお伝えています。

(写真をクリックすると大きくなります)===宇和島城・天守閣側面の破風===
(写真をクリックすると大きくなります)===本丸から宇和島湾を望む===
(写真をクリックすると大きくなります)===宇和島城・天守閣と本丸石垣===
(写真をクリックすると大きくなります)===宇和島城・本丸虎口石垣===
(写真をクリックすると大きくなります)===宇和島城・藤兵衛丸の石垣===

この石垣は13メートルを少し切る位の高さで、藤堂高虎時代に築かれた古いものと考えられています。 こうした直線的に高く積む石垣は、築城の名手藤堂高虎が得意としたところで、高虎が築いた他の城にも見出せます。藤兵衛丸では、現在城山郷土館となっている里倉庫は、弘化2(1845年)に三の丸に建てられた武器庫です。

(写真をクリックすると大きくなります)===宇和島城・西角櫓石垣===
(写真をクリックすると大きくなります)===藩老桑折(こうり)氏・武家長屋門 ===
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この門は、現在の中央町一丁目(現桑折医院)にあった宇和島藩の家老桑折氏の長屋門を、昭和二十七年にここに移したものである。その際向かって左方の長屋の大部分を切り取ったので、現在ではかなりその原形を失っているが、なお往時の壮大な規模と構造の特徴を知ることができる。門に向かって右の部分はもとの厩で、左の長屋には、門番と家付きの使用人をはじめ中間、小者が居住していたものである。建築年代は確かなことはわからないが、江戸中期と推定される。

===現地説明板より===

大洲城 (愛媛県)2012年08月14日 17時18分56秒

(写真をクリックすると大きくなります)===石垣に映える大洲城===

名  称 : 大洲城 (おおずじょう) 別 名 : 比志城 ・地蔵ヶ嶽城 ・大津城

築城年間 : 元徳3年(1331年)

築城者 :宇都宮豊房   主な改修者 : 藤堂高虎 ・ 脇坂安治 ・ 加藤貞泰

城 主 : 宇都宮氏 ・ 藤堂氏 ・ 脇坂氏 ・ 加藤氏

形 式 : 梯郭式 平 山 城

所在地 : 愛媛県大洲市大洲903番地

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この大洲城は、鎌倉時代末期、伊予国の守護、宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城が始まりといわれています。 激動の戦国時代を経て、小早川隆景が伊予を平定した後、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治が相次いで城主となりますが、このころ4層4階の天守を中心とした本格的な近世城郭に整備されたのではないかと考えられています。

元和3年(1617年)米子から加藤貞泰が入城しました。 以後、明治維新を迎えるまで加藤氏が6万石の城主としてこの地を治めました。 明治維新後、幕藩体制が崩壊し、明治21年(1888年)には天守も取り壊されました。 しかし、4棟の櫓は解体をまぬがれ、いずれも国の重要文化財に指定されています。 城跡も県史跡に指定され今日も大切に保存されています。

===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸跡からの天守閣===
(写真をクリックすると大きくなります)===天守閣と高欄櫓===

高欄櫓は江戸時代末期、万延年(1860年)に再建されたもので、二重二階櫓、本瓦葺である。天守の南側に位置し、天守とは多門櫓で結ばれています。上層の屋根には軒唐破風がつけられ、擬宝珠のついた高欄が縁をめぐらしている。また西南隅に袴腰形石落しを付け、この建物に威容を添えています。

(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸からの高欄櫓と天守閣===
(写真をクリックすると大きくなります)===左から多門櫓・天守閣・台所櫓===

台所櫓は、安政6年(1859年)に再建されたもので、二重二階櫓、本瓦葺です。天守の東側に位置し、天守とは多聞櫓で結ばれています。  内部は、1階が土間と板張り2室、2階が1室となっています。規模は高欄櫓よりやや大きく、入母屋造で、北側中央には花頭窓が設けられているのが特徴です。

(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸からの天守閣、多聞櫓、高欄櫓===
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この大洲城は明治維新後は、城内のほとんどの建築物が破却されたものの、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓は一部保存されましたが、明治21年(1888年)老朽化により、惜しくも天守は解体されました。その後、大洲城を愛する地元住民の城郭への保護活動と、市民による寄付等によって平成16年(2004年)に復元されました。

四層四階の複連結式天守の復元にあたっては、明治時代の古写真や「天守雛形」と呼ばれる江戸期の木組み模型など豊富な資料を基に当時の姿を正確に復元されました。このように復元に必要な多くの資料が残っていることは大変稀なことで、大洲城の天守の復元は、まさに地元住民の想いと、史料研究の集大成と言えます。現在、江戸時代から残る台所櫓・南隅櫓など4棟の櫓は国の重要文化財、城跡一帯が県指定史跡に指定されています。

高知城 (高知県)2012年08月19日 03時48分22秒

(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・天守閣===

名  称 : 高知城 (こうちじょう) 別 名 : 鷹 城 ・ 大高坂城

築城年間 :  慶長3年(1603年)

築城者 : 山内一豊   主な改修者 :  山内豊敷

城 主 :  山 内 氏

形 式 :  梯郭式 平 山 城

所在地 :  高知県高知市丸ノ内1丁目2-1

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高知城は、もと大高坂城といい、南北朝時代に大高坂松王丸が南朝に応じ、これに拠って北朝方と戦ったと伝えられる。戦国時代、長宗部元親は土佐一国を平定、さらに兵を進めて四国を併呑し、天正16年(1588年)ここに築城した。

しかし城下に水難が多いため、数年を経ず浦戸に移った。山内一豊は、関ヶ原の戦功により、遠州掛川(6万石)から土佐(24万石)に封ぜられ、慶長6年(1601年)9月百々越前守を築城奉行に任じて工を起し、2年後、本丸を完成した。享保12年(1727年)越前町より出火し、全域大半類焼。同14年再建に着手。慶長創建の姿にならって施工し、24年を経て宝暦3年(1753年)11月竣工して現在に至っている。

明治維新後、二の丸、三の丸の建造物を破壊し、本丸と追手門のみを残して、城域を整理し、花木を植え、公園とした。昭和9年1月、天守閣及び追手門の建物が国宝(現在の重要文化財)に、昭和34年に城域一帯が史跡に指定された。また明治6年、県立都市公園となった。戦後は各建造物の修理に着手。追手門は昭和26年に、天守閣は同30年に、その他の諸建造物は34年3月に、それぞれ改修竣工した。

===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・追手門 ===

この高知城の追手門は慶長年間の創設で、寛文4年(1664年)に再建されたもので、当城では珍しく大きな石を積んだ石垣で枡形を構成し、内部から見通せないように右側に建てられた城の正門である。重層で入母屋造り、その木割りは太く堂々とし、ケヤキを用いた主柱や扉、冠木などには要所に銅製の飾り金具を取り付けている。その規模が大きく、城門として豪壮優美な趣を備えています。

(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・追手門東北矢狭間塀 ===

この追手門東北矢狭間塀は、江戸中期(1747年~1749年)に創建され、延長27.6m、銃眼五箇所、本瓦葺で重要文化財に指定されています。

(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・山内一豊公之像 ===

土佐藩の初代藩主、山内一豊公の銅像は、平成8年(1996年)9月20日、一豊の祥月命日を卜して再建除幕されたものです。本体はブロンズ鍛造青銅色仕上げ、高さ4.32メートル、重さ3.6トン、台座5.08メートル、総高9.4メートルで、騎馬像としては、皇居前の楠木正成公の像を上回る、国内最大クラスであるといわれております。

(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・三の丸石垣===
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三の丸は、慶長6年(1601年)の築城開始から10年を要して最後に完成した。面積は4.641㎡、出隅部分の石垣の高さは約13m、石垣に使用されている石材は主にチャート(堆積岩)であるが、砂岩、石灰岩も一部使用されており、穴太衆(あのうしゅう)が安土城の石垣で始めたとされる自然石むの形を活かした野面積(のずらずみ)で多くの面が構築されている。

また、三の丸には、1.815㎡の壮大な御殿が建築されていた。三の丸の入り口にあたる鉄門付近の石垣は、鉄門の改築に伴い積み直されたものと見られ、砂岩で構成された打ち込みハギで築かれている。今回の解体修理に伴う発掘調査でチャートの根石(基礎石)が確認され、改めてその事実が確認された。

三の丸の石垣は、慶長3年(1650年)、宝永4年(1707年)に地震や豪雨により、崩壊し、修理した記録が見られる。今回の修理は、平成11年に実施した調査により、割れたり、孕んだ石が多く、崩落の危険性が確認されたことから、平成12年度から事前の発掘調査や測量などを実施した後、鉄門付近から東面の花壇前まで実施した。

工事は、改修前の石垣の状態を把握した後、割れた石以外は元の石を使用し、元の場所に戻すことなど現状復旧を基本として実施した。改修工事は、穴太衆の野面積みの技法を現代に伝える石工が携わって平成16年度から平成21度にかけて実施、総工費約4億円を要した。

===現地説明板より=== 
(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・鉄門跡石垣 ===

この場所には左右の高い石垣をまたいで入母屋造り二階建ての門が設けられていた。鉄門の扉には鉄板が打ち付けられていたので鉄門と称された。小さな枡形を形作っている門の内側には番所があった。右と正面の石垣上(三の丸)には矢狭間塀がめぐらされていた。

(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・詰 門===

本丸と二ノ丸をつなぐ役目を果たす櫓門で、藩政時代には「橋廊下」と呼ばれた。門内に侵入した敵が容易に通り抜けられないよう、入口と出口の扉の位置が「筋違い」に設置されている。一階は籠城用の塩を貯蔵する塩蔵になっており、二階は家老・中老などの詰所として用いられた。現在の呼称はここからきているものである。

(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・天守石垣と矢狭間塀 ===

矢狭間塀は、丸、三角、長方形といろいろ形があります。丸や三角が鉄砲、長方形が矢で攻撃する構造になっています。

(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・天守西北矢狭間塀 ===

この天守西北矢狭間塀は、延長5.8m、で、おもに矢で攻撃する構造になっています。

(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・天守閣石垣===
(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・天守閣全景 ===
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高知城の天守は望楼型天守の典型である。外観は4重、内部は3層6階建ての建物で、2重の入母屋造りの屋根の上に2重櫓の望楼を載せている。天守最上階には、初代藩主一豊が、先の居城である遠州掛川城を模して造ったといわれる廻縁高欄が付けられているが、この形式は、当時の四国では高知城のみに見られる極めて珍しいものであった。構成上から見ると、高知城天守は小天守や付櫓を伴わず単独で建つ独立式天守と呼ばれるものである。

「御城築記」によると、高知城天守は慶長8年(1603年)に完成したと思われる。享保12年(1727年)の大火によって焼失し、現存天守は寛延2年(1749年)に再建されたものである。昭和の解体修理工事の際の調査から、創建当時の姿がそのまま踏襲されていることが明らかとなった。現在、古天守を持つ城は、全国にわずか12城しか残っていない。高知城天守はその中の一つとして初期の古い様式を今に伝えており、現在国の重要文化財に指定されている。

桂浜公園 (高知県)2012年08月23日 04時10分00秒

(写真をクリックすると大きくなります)===桂浜公園===
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この桂浜(かつらはま)は、高知県高知市浦戸に位置し太平洋に臨む海岸です。土佐民謡「よさこい節」にも詠われ、そして太平洋を望んで立つ坂本龍馬の銅像がある浜辺は、高知を代表する名所の一つとして知られています。

上竜頭岬が北東端に、下竜頭岬が南西端にあり、その間に挟まれて弓形に砂浜が延びています。下竜頭岬には竜王宮があり鳥居が立っている。桂浜の近くには、1591年(天正19年)、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が北側の丘陵部に浦戸城を築き、一時この地が岡豊城(おこうじょう)に代わって土佐の中心地になった時期もあった。

しかし、初代土佐藩主として土佐入りした。山内一豊(やまのうちかずとよ)がこの地では手狭であると感じ、1603年(慶長8年)高知城を築いて移ったため浦戸城は廃城となった。現在は、坂本龍馬記念館・桂浜水族館・大町桂月記念碑などの文学碑等があります。

(写真をクリックすると大きくなります)===桂浜公園===

下竜頭岬側より上竜頭岬側の砂浜を望む

(写真をクリックすると大きくなります)===桂浜公園 ・坂本龍馬像 ===
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坂本龍馬は高知の城下町に住む郷士の次男として生まれ(1835年)、青年時代江戸に出、千葉道場で北辰一刀流を学び剣士として知られているが、文久元年(1861年)、いちはやく武市半平太(瑞山)の土佐勤王党に参加した。

 後、脱藩して勝海舟に師事して海軍建設を計画し、叉、長州(山口県)の桂小五郎(水戸孝允)、薩摩(鹿児島)の西郷隆盛を説いて慶応2年(1866年)薩長両薄の同盟協約を成功させ長州に押し寄せた幕府軍(徳川方)を撃破した。これを機会に討幕運動が高まったが、龍馬はこの薩長同盟の勢力に土佐藩を加え、これを背景とする王政復古を考え、土佐藩の参政後藤象二郎を説き、立憲的な議会制度を基とする新政府の出現を期した。

山内容堂(15代藩士)は後藤の提案を受け入れ慶応3年(1867年)10月3日将軍慶喜に大政奉還を建白した。 将軍も時勢を察し、10月14日に政権返上を朝廷に上秦した。龍馬はこれを喜び新政府創立に奔走したが、11月15日京都河原町近江屋で幕府方の刺客に襲われ、同志中岡慎太郎とともに凶刃に倒れた。 龍馬は海援隊長。慎太郎は陸援隊長として土佐藩の遊軍をつくり、その活躍が期待されたが、幕末の新旧勢力対立の犠牲となった。時に龍馬は33歳、慎太郎は30歳であった。

===説明板から===
(写真をクリックすると大きくなります)===桂浜公園 ・坂本龍馬像

坂本龍馬像の高さは5.3m,台座を含めると13.5mで,和服姿に懐手,ブーツ姿の龍馬は,桂浜の小高い丘の上からはるか太平洋の彼方を見つめています。

(写真をクリックすると大きくなります)===桂浜公園===

坂本龍馬像付近から太平洋を望む。

今治城 (愛媛県)2012年08月30日 04時33分45秒

(写真をクリックすると大きくなります)===今治城・天守閣===

名  称 : 今治城 (いまばりじょう) 別 名 : 吹上城 ・ 吹揚城

築城年間 : 慶長7年(1602年)

築城者  :藤堂高虎 (とうどうたかとら)   

城 主 :  藤堂氏 ・ 松平(久松)氏

形 式 :  輪郭式平城(海城)

所在地 : 愛媛県今治市通町3-1-3

(写真をクリックすると大きくなります)===今治城天守閣と多聞櫓===
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今治城は、築城の名手、藤堂高虎により慶長7年(1602年)に着工し同9年(1604年)に完成しました。堀に海水を引き入れる日本三大海城の一つで大規模な近世の平城でもあります。また日本で初めて層塔式天守が造られるなど、織豊期の城郭とは異なる革新的なものが認められます。

藤堂高虎は同時期に徳川家康の天下普請に乞われ、各地の築城の縄張りに関与していることから、今治城は徳川系(関ヶ原合戦以降)城郭の雛形と言われています。 築城当時は三重の堀があり、いわゆる総構えの城でありました。城の規模は現在の10倍以上であったと言われています。現存するのは本丸と二の丸、三の丸の城塁と幅約50mの内堀のみで昭和28年に愛媛県指定史跡「今治城跡」に指定されています。

現在の天守は、昭和55年に市制60周年を記念して再建されました。5層6階の天守には、武具・甲冑・刀剣など今治藩ゆかりの品が展示されています。御金櫓は昭和60年に、山里櫓は平成2年に市制70周年記念事業により再建されました。

さらに、平成16年から19年にかけて、今治城築城・開町400年祭の記念事業として、総鉄板張りの鉄御門及び武具櫓、東多聞櫓、西多聞櫓、東西控塀の一連の建造物並びに明治期に取り壊された桝形石垣が市民の寄付により再建されました。 これにより、築城当時の今治城の勇姿が400年ぶりに再現されました。

===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)===今治城===
(写真をクリックすると大きくなります)===今治城・山里櫓と山里門===

平成2年の市政70周年記念事業に復元された山里櫓と山里門(二の丸裏門)です。

(写真をクリックすると大きくなります)===今治城・藤堂高虎公像===

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藤堂高虎公は、弘治2年(1556年)近江の国に生まれた。 羽柴秀長、豊臣秀吉などに仕えて宇和島・大洲8万石の大名となり、慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦功によって、徳川家康から今治12万石を加増され、伊予半国20万3千石の領主となった。 今治城は、高虎公により慶長9年(1604年)に竣工を見た。三重の堀に海水を引き入れ、舟入りを持つ日本有数の海城である。五層の天守は層塔式で白漆喰が映え、近世城郭のモデルとされた。 築城に合わせて城下に町割りを行い、地名を今張から今治に改め、現代の今治市の原型がつくられた。 築城の名人と称された高虎公は、多くの天下普請の城を築き、慶長13年(1608年)伊勢・伊賀に転封された。 そして大坂の陣のあと、朝廷と幕府間の斡旋役を務めるなど徳川幕藩体制の基礎固めに大きく貢献し、寛永7年(1630年)75年の波乱の生涯を閉じた。

===現地碑文より===
(写真をクリックすると大きくなります)===今治城===

左側から山里櫓、山里門、は二の丸の裏門です。そして天守閣です。

(写真をクリックすると大きくなります)===今治城・南側石垣と内堀===

中央の石垣は南隅櫓跡の石垣です。内堀石垣周囲には犬走りがあります。これは藤堂高虎築城の特徴です。地盤が脆弱な場所に築城する際に、圧力を分散させる為に造られたそうです。水面に浮かんでいるようにみえます。

(写真をクリックすると大きくなります)===今治城・御金櫓と内堀===

東からみた今治城、中央は御金櫓、その後方に模擬天守。広大な内堀です。

(写真をクリックすると大きくなります)===今治城・二の丸多聞櫓===

二の丸御殿跡から鉄御門多聞をみます。往時はこの多聞櫓と二の丸御殿の間に仕切り塀があり二の丸が東西に分かれていました。

(写真をクリックすると大きくなります)===今治城・二の丸多聞櫓枡形===
(写真をクリックすると大きくなります)===今治城・鉄御門と内堀===

左から多聞櫓、中央鉄御門、右隅武具櫓、内堀は幅30間(約60m)もあり二の丸に渡る土橋も長大です。

(写真をクリックすると大きくなります)===今治城・土橋と鉄御門===

この土橋を真っ直ぐに行くと、平成16年から19年にかけて復元された鉄門と枡形多聞櫓です。往時はここに一の門として高麗門がありました。明治期に取り壊された枡形石垣も同時に復元されています。