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関埼灯台 (大分県)2013年03月09日 09時55分10秒

(写真をクリックすると大きくなります)===関埼灯台遠望===

施設の概要: 名称: 関埼灯台(せきさ゛きとうだい)

位置: 北緯: 33度16分00秒 東経: 131度54分08秒

塗色及び構造: 白色 塔形: 鉄造り

等級及び灯質: 明暗白光 毎・明4秒・暗4秒

光 度: 閃光 5600カンデラ

光達距離: 閃光: 12.5海里(約23km)

高 さ: 地上~頂部: 10.9メートル 平均水面~灯火69.5メートル

管理事務所: 第七管区海上保安部・大分海上保安本部

電 話:097-523-2197

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関埼灯台は、四国の佐田岬灯台と向かい合う形で、瀬戸内海と外洋を結ぶ速吸瀬戸を狭み、この狭水道を航行する船舶の目標として、重要な役割を果たしている。明治34年7月20日に完成、点灯した。白色、円形、鉄造の灯台で、レンズはイギリス製の第三等大型フレネルレンズを用い、毎夜二万三千燭光の連閃光を放ってきた。関埼灯台の点灯に遅れること十七年、大正七年四月に佐田岬灯台が対岸に設置されて、本灯台のレンズはそっくり佐田岬灯台に移設されることになったので、大正七年一月第四等不動白光、二千燭光に変更された。大正十五年に電化され、昭和四十五年明暗白光となり現在にいたっている。この灯台が、点灯以来数多くの船人の命と貴重な財貨を人知れず救ってきたであろうことを想うとき、これからも夜毎美しい光を沖行く船に投げ掛け続けるよう祈念するものであります。

社団法人 燈光会

===現地説明板より===

(写真をクリックすると大きくなります)===関埼灯台入口①===

この関埼灯台は明治34年7月20日に完成、初点灯、昭和28年8月関埼航路標識事務所が設置・管理、昭和45年4月 佐賀関航路標識事務所開設により関埼灯台は無人灯台となり関埼航路標識事務所は廃止となりました。平成5年4月 大分航路標識事務所が管理、平成16年4月から 大分海上保安部が管理 しています。

(写真をクリックすると大きくなります)===関埼灯台入口②===

旧官舎跡には沢山の桜の樹木があり、さくらの花が咲く頃も近いように思います。もう一度訪問したいものです。

(写真をクリックすると大きくなります)===関埼灯台燈光部===

関埼灯台の初点灯時の第3等フレネル式レンズは1918年(大正15年)に佐田岬灯台に移設され、その後、関埼灯台では約百年間にわたり、灯台完成前の1870年(明治2年)にイギリスで製造された第4等フレネル式レンズが用いられてきました。しかし、2009年(平成21年)2月13日に高光度LED灯器に交換され、フレネル式レンズは灯台上の関崎海星館で展示されています。

(写真をクリックすると大きくなります)===関埼灯台燈部正面全景===

この関埼灯台は明治34年7月20日に当時としては珍しい鉄造りの灯台として建造され、時代の流れに伴い内部の機器は最新のものに変更されましたが、外観は当時のまま使用されています。

(写真をクリックすると大きくなります)===関埼灯台と高島===

左下に見えるのが関埼灯台です。現在は関崎海星館の展望室からの撮影で、この場所に行く所要時間は6~7分で灯台まで行くことができます。この灯台の旧官舎跡には、桜の木が植えられていて、もうすぐ桜が咲く頃です。また、右前方の大きな島は高島といい、ウミネコの営巣地の南限でアコー樹、ハマユウの北限で有名です。また、この早吸の瀬戸で取れる関サバ、関アジの一本釣りで有名な所です。天気の良い日は愛媛県の佐田岬半島と広島や山口県の山々が見ることができます。

引接寺 (山口県)2013年03月29日 05時08分56秒

(写真をクリックすると大きくなります。)===引接寺三門(いんじょうじ)===

所在地: 山口県下関市中之町

山 号: 関亀山(かんきざん)

宗 派: 浄土宗

本 尊: 阿弥陀如来

創建年: 1560年(永禄3年)

開 基: 忠誉一徳

文化財: 三門(下関市指定文化財)

(写真をクリックすると大きくなります。)===引接寺三門説明板)===
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引接寺は、浄土宗寺院で当初は豊前国黒田村(福岡県京都郡みやこ町勝山黒田)にあったとつたわるが、詳細は不明です。永禄三年(1560,年)、この地の亀山八幡の麓に建立され、山号を関亀山と号す。

慶長三年(一五九八年)小早川隆景の菩提を弔うため、藤堂佐渡守高虎が現在地に広大な堂字を建立し引接寺を移した。以後、赤間関の有力町人や長府藩の庇護を受けるとともに、萩藩によって朝鮮通信史の客館としても整備されるなど、寺勢は隆盛を極めた。

また、明治二十八年(1895年)春には、日清講和会議のために来日した李鴻章一行の宿舎となり、李鴻章狙撃事件とも相まって、寺名は国際的にも名高い。昭和二十年(1945年)六月二十九日、引接寺の堂字の大半は戦渦により焼失したが、三門はこれを免れ、往時の様子を伝えている。

この三門は、明和六年(1769年)八月に長府藩九代藩主の毛利匡満が再建したものである。また、花崗岩四半敷の基壇は、慶長期の建立時のものと推定されることから、当初の構造形式を踏襲して再建したものと考えられている。三門は屋根を本瓦葺きとし、両側に脇門を設け、柱を総円柱とした四脚門の構えであり、門の内部に二手先の組物を使い、鏡天井に龍を彫り込んだ意匠は希少である。

下関市教育委員会

====現地説明板より===

(写真をクリックすると大きくなります。)===引接寺三門鏡天井の龍の彫刻①===

昭和二十年(1945年)六月二十九日、引接寺の堂字の大半は戦渦により焼失したが、三門はこれを免れ、往時の様子を伝えていjます。

この三門の鏡天井には、左甚五郎の作といわれる見事な龍の彫刻がありますが、これが左甚五郎の作と言うことは定かではありません。

(写真をクリックすると大きくなります。)===引接寺三門鏡天井の龍の彫刻②===