引接寺 (山口県) ― 2013年03月29日 05時08分56秒
所在地: 山口県下関市中之町
山 号: 関亀山(かんきざん)
宗 派: 浄土宗
本 尊: 阿弥陀如来
創建年: 1560年(永禄3年)
開 基: 忠誉一徳
文化財: 三門(下関市指定文化財)
引接寺は、浄土宗寺院で当初は豊前国黒田村(福岡県京都郡みやこ町勝山黒田)にあったとつたわるが、詳細は不明です。永禄三年(1560,年)、この地の亀山八幡の麓に建立され、山号を関亀山と号す。
慶長三年(一五九八年)小早川隆景の菩提を弔うため、藤堂佐渡守高虎が現在地に広大な堂字を建立し引接寺を移した。以後、赤間関の有力町人や長府藩の庇護を受けるとともに、萩藩によって朝鮮通信史の客館としても整備されるなど、寺勢は隆盛を極めた。
また、明治二十八年(1895年)春には、日清講和会議のために来日した李鴻章一行の宿舎となり、李鴻章狙撃事件とも相まって、寺名は国際的にも名高い。昭和二十年(1945年)六月二十九日、引接寺の堂字の大半は戦渦により焼失したが、三門はこれを免れ、往時の様子を伝えている。
この三門は、明和六年(1769年)八月に長府藩九代藩主の毛利匡満が再建したものである。また、花崗岩四半敷の基壇は、慶長期の建立時のものと推定されることから、当初の構造形式を踏襲して再建したものと考えられている。三門は屋根を本瓦葺きとし、両側に脇門を設け、柱を総円柱とした四脚門の構えであり、門の内部に二手先の組物を使い、鏡天井に龍を彫り込んだ意匠は希少である。
下関市教育委員会====現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります。)===引接寺三門鏡天井の龍の彫刻①===昭和二十年(1945年)六月二十九日、引接寺の堂字の大半は戦渦により焼失したが、三門はこれを免れ、往時の様子を伝えていjます。
この三門の鏡天井には、左甚五郎の作といわれる見事な龍の彫刻がありますが、これが左甚五郎の作と言うことは定かではありません。
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