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旧伊藤伝右衛門邸 (福岡県)2014年05月22日 05時17分32秒


旧伊藤伝右衛門邸

所在地 : 福岡県飯塚市幸袋300番地

名 称  : 旧伊藤伝右衛門邸

敷地面積:約7.500㎡(約2300坪)

建物延床面積約1000㎡(約300坪)

庭園 国指定名勝平成23年9月21日指定

(写真をクリックすると大きくなります)旧伊藤伝右衛門邸全景
(写真をクリックすると大きくなります)===現地説明版===
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この建物は、筑豊の著名な炭鉱経営者であった伊藤伝右衛門の本邸として明治三十年代後半に建造。大正初期、昭和初期に数度の増改築が行われました。

高い塀は、旧長崎街道に面しており、福岡市天神町にあった別邸(通称銅御殿)から昭和初期に移築された長屋門や、伊藤商店の事務所が目を引きます。

邸宅は南棟(正面)、北棟(庭側)、両者を結ぶ繋棟、西棟の家屋四棟と土蔵三棟からなり、池を配した広大な回遊式庭園を持つ近代的和風住宅です。建物の見どころは和洋折衷の調和のとれた美しさ。当時先進的だった建築技術や、繊細で優美な装飾を随所に見ることができます。

また、柳原燁子(白蓮)が伝右衛門の妻として約十年間を過ごしたゆかりの地であり、伝右衛門や白蓮に思いをはせる場でもあります。筑豊における石炭産業の歴史と、これに関わった伝右衛門たちの人生を物語る貴重な遺産をごゆっくりご覧ください。

===現地説明版より===

(写真をクリックすると大きくなります)===白蓮の居室二階角===

白蓮が輿入れをした明治44年伊藤邸は三回目の増改築が行われ、それまでは総平屋建てであった建物の東端に二階部分が作られて白蓮の居室となりました。白蓮の居室には、竹の節だけを残した欄間(らんま)や銀箔を張った襖など驚くような技法を使い、白蓮好みに仕上げられています。

また、天井に結界を設け、平民はこれを境に立ち入り禁止にするなど、伝右衛門は白蓮に精一杯気を遣っていました。十畳の部屋に六畳の控えの間がついた普通の和室です。

ここから見下ろす庭園の景はまさに絶景です。作歌や読書に疲れた白蓮は庭を見下ろして心の安らぎを得たことでしょう。

伊藤伝右衛門 と 歌人、柳原白蓮 (燁子)(あきこ)

伝右衛門は明治44年(1911年)に、後に白蓮の名の下に歌人として知られるようになった柳原燁子と再婚し、本邸の建築と庭園を完成させました。 そのうち、特に主庭は、流れ及び2つの池泉の背後に緩やかに盛り上がる築山などから成り、主屋からの展望を意図した庭園であるとともに、様々な景を楽しむことのできる回遊式庭園です。

また、池泉に架かる石造の太鼓橋、2基の石造噴水、敷地の西北隅・東北隅に立つ石塔、随所に据えられた様々な形式の石燈篭、築山の頂部に建つ茅葺き八角形屋根の四阿など、近代の回遊式庭園として十分な質と量を誇る庭園景物が見られます。

(写真をクリックすると大きくなります)===太鼓橋===

白蓮の居室二階からの太鼓橋の眺望です。

(写真をクリックすると大きくなります)===白蓮の居室と太鼓橋===
(写真をクリックすると大きくなります)===四阿(あずまや)横庭園===
居間からの庭園の眺望です。
(写真をクリックすると大きくなります)===食堂より庭園を望む===
(写真をクリックすると大きくなります)===本座敷からの庭園の眺め===
(写真をクリックすると大きくなります)===東座敷より太鼓橋庭園を望む===
(写真をクリックすると大きくなります)===隠元禅師の掛け軸===

大広間の間(本座敷)には隠元禅師の掛け軸が二つあります。

一つは、「祝年莫如惜時」(年を祝うは時を惜しむにしくはなし) 「愛身莫務学」(身を愛するものは学を侮ることなかれ)

もう一つは、「忠孝吾家之宝」(忠者はわが家の宝)「経史吾家の田」(経史=経書と歴史書はわが家の田)と読みます。

(写真をクリックすると大きくなります)===玄関横の応接間===

旧伊藤邸は全体が数寄屋造りの和風建築ですが、

応接間の一間だけが洋風となっており、これは明治後期の和風豪邸の特色です。

玄関を入って左の応接間は本格的な洋風でマントルピース(暖炉)英国製が目に入ります。