西郷隆盛宿陣跡 (宮崎県) ― 2014年08月27日 11時20分59秒
西郷隆盛宿陣跡
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所在地 ⇒ 宮崎県延岡市北川町長井6727
名 称 ⇒ 西郷隆盛宿陣跡資料館(南洲翁寓居跡)
県指定 (史跡)⇒ 昭和8年12月5日南洲翁寓居跡指定
南洲翁寓居跡(旧児玉熊四郎宅)は西南の役最後となる延岡、和田越の決戦に敗れた西郷隆盛が明治10年8月15日から17日の夜の可愛嶽突破まで宿陣したところである。ここで解散布告を出し、最後の軍議を重ねており重要書類や当時日本で唯一一つしかなかった陸軍大将の軍服も焼いたとされている。 昭和8年12月5日には史跡として県指定を受けている。資料館には当時西郷隆盛が愛用した硯・船型枕などの遺品の他、種々の戦争資料が展示されています。延岡市北川町内にはこの他、陸地(かちじ)、矢ヶ内、宗太郎峠など数多くの激戦地跡や宿陣跡(吉祥寺・旧小野彦治宅)野戦病院跡(成就寺)、中津大四郎(滝口隊長)、小倉処平(飫肥隊)の自刃の地など多くの史跡が点在しています。 |
⇔ (click..play)可愛嶽突破・音声説明
1877年(明治10年)8月15日「和田越の戦」に敗れた西郷軍は、北川町俵野の児玉熊四郎宅に窮した。同16日には党薩諸隊に対し、解散令を出した。同17日の軍議は降伏か、決戦か、突破かの選択がせまられた。午後4時、西郷隆盛は「全軍まず進んで三田井に出、然る後その方向を決するも遅からず」との決意を表明した。
午後10時、可愛嶽突囲戦
18日午前4時半、英式ラッパの一声で総攻撃が開始された。ふいをつかれた官軍は総くずれとなり、第一旅団、野津少将は日の谷へ、第二旅団、三好少将は屋敷野の前衛隊へ逃れた。可愛嶽突破に成功した西郷軍は、西に進み、和久塚地蔵谷で一夜を明かし、上祝子でさらに一夜を明かし、20日に鹿川を越え、鹿児島への敗走の途についた。
===現地説明版より===明治10年8月15日の和田越え決戦に敗れた薩軍幹部は15日~17日と西郷隆盛の宿である。ここ児玉熊四郎宅に集まり、最後の軍議を開きました。周囲を完全に官軍に囲まれた状況下で、この地で決戦か降伏か、また、どの方向に向かう突囲かで激論となりましたが、西郷が「まず可愛嶽を突囲し、三田井に出る。それからのことはまた考えれば良い」と決断をくだしました。この場面は、その時の様子を再現したものです。
⇔ (click..play)最後の軍議の様子音声説明
(写真をクリックすると大きくなります)===最後の軍議の様子の再現===薩軍の最期が近づいたことを悟ったのか、西郷はここで当時日本に一つしかなかった陸軍大将の軍服や重要書類を焼いたとされている。
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