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新緑の豊前国分寺 (福岡県)2017年06月05日 10時06分46秒

名 称 ・豊前国分寺三重塔

所在地 ・福岡県京都郡みやこ町国分279番地 1

駐車場 ・有り(無料)

(写真をクリックすると大きくなります)====豊前国分寺山門====
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天平勝宝8年(756年)、筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向等26国の国分寺に「仏事荘厳具の下賜」がされ、このころまでに豊前国分寺では主要な建物が完成したと考えられています。その後、平安時代にかけて盛んに活動を続けていた諸国の国分寺も、鎌倉時代以降多くが衰退していきました。しかし、豊前国分寺は平安時代に天台宗の勢力下に入り、鎌倉・室町時代にもかわらず法灯をともし続けていました。そして、天正年間(1573年~1592年)初期に戦国大名大友氏の戦火にあい、主要建物は全て焼失したと伝えられています。

(写真をクリックすると大きくなります)====豊前国分寺三重塔====

 その後、天正年間中にはいち早く同地に草庵が建てられ、本尊薬師如来が造仏安置されました。本格的な再建は、江戸時代以降小笠原藩の援助を受けて当時の歴代住職の努力によって進みました。  現在敷地に残る建物のうち本堂は寛文6年(1666年)、鐘楼門は貞享元年(1684年)に建立されたものです。なお、国分僧寺の敷地は昭和51年(1976年)に国の史跡に指定されています。

(写真をクリックすると大きくなります)====豊前国分寺鐘楼門====

現在敷地に残る建物のうち本堂は寛文6年(1666年)、鐘楼門は貞享元年(1684年)に建立されたものです。 なお、国分僧寺の敷地は昭和51年(1976年)に国の史跡に指定されています。

(写真をクリックすると大きくなります)====豊前国分寺三重塔====
(写真をクリックすると大きくなります)====豊前国分寺三重塔====

国分僧寺の塔は本来七重塔で、当初鐘楼門をはさんで三重塔とは反対の東側にあったと推定されています。焼失後、塔が再建さたのは明治になってからです。住職宮本孝梁師の発願により、明治21年(1888年)に着工し、28年完成、29年1月に落慶法要が行われました。 三重塔は昭和32年に福岡県の有形文化財に指定されています。建物の高さは約23.3m、約初層の大きさは一辺が約7.5mです。建築様式は層塔と多宝塔の折衷様式で、心柱は全長23m・根元60cm角の杉材の一本物です。

屋根の瓦は発掘調査で出土した大宰府系を復元しています。内部には大日如来を安置しています。二層目の上部の外壁面には、明治の文名開化の香りを漂わせる十二星座の彫刻が見られます。 その後100年経過して傷みが激しかったため、昭和60年から62年に全面的な解体修理が実施されました。 建築様式は層塔と多宝塔の折衷様式で、心柱は全長23m・根元60cm角の杉材の一本物です。屋根の瓦は発掘調査で出土した大宰府系を復元しています。内部には大日如来を安置しています。二層目の上部の外壁面には、明治の文名開化の香りを漂わせる十二星座の彫刻が見られます。

(写真をクリックすると大きくなります)====豊前国分寺三重塔====
(写真をクリックすると大きくなります)====豊前国分寺三重塔相輪====

相輪は通常七つの部分から成っています。上から宝珠(お釈迦様の遺骨を納めるところ。)竜車(高貴な人をのせる乗り物を表す。)水煙(火炎の透かし彫りですが火をきらうことから水煙と呼ばれています。)宝輪(九つの五大如来と四大菩薩を表します。)請花(全部を受ける飾り台。)伏鉢(土饅頭の部分)露盤(伏鉢の土台)