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旧下関英国領事館(山口県)2014年07月19日 16時05分45秒


旧下関英国領事館

所在地 ⇒ 山口県下関市唐戸町4番-11号

建築年代 ⇒ 明治39年(1906年)

構造形式 ⇒ 煉瓦造総二階建、屋根寄棟造桟瓦葺(小屋根銅板葺)

名 称 ⇒ 旧下関英国領事館

重要文化財(建造物) ⇒ 平成11年5月13日指定

(写真をクリックすると大きくなります)===正面玄関入口===

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この建物は、明治34年(1901年)に市内赤間町に開設された下関英国領事館は、明治39年に領事館を新たに建設し、現在の場所に移りました。煉瓦造二階建、桟瓦葺の本館およびその北側に建つ煉瓦造平屋建、桟瓦葺の付属屋の建物に、敷地境に沿って煉瓦塀がめぐらされています。これらは、本館西側妻壁の記念銘が記されたブラックや本館棟木に打たれていた附指定の幣串にある「上棟明治参拾九年八月九日」の墨書により、建築年代から明らかです。

また、設計者は英国政府工務局上海事務所建築技師長「ウイリアム・コーワン(William Cowan)」であることが判明しています。本館の外観は、赤煉瓦を基調に開口部廻り等の要所に石材を用いた形で、南側を除く゜三方に煙突を もった階段状の妻壁をつくる点や、南側に連続アーチと列柱をもつベランダを設ける点に特徴があります。また、内部は各執務室や居住空間として使われた部屋にそれぞれ暖炉が設けられ、天井にモールディングや中心飾りがあるなど意匠もよく整っています。

附属屋は、東西に伸びる横長の切妻造建物の南面北端に片流れ屋根の小建物が付いた形で、全体でL字型の平面をしています。外観の意匠は、本館にならいつつそれを簡略化した形をとり、切妻造部分の南側では、腰壁より上部の壁面を木造でつくり軒裏を網代天井とする等、本館とは異なる形にしています。

旧下関英国領事館は領事館として使用することを目的に建設された建物としては、わが国に現存する最も古いもので、歴史的価値が認められています。また、本館と附属屋がそろう建物配置や執務室と住居を分けた本館の平面構成は、領事館という建物の性格をよく示しており、明治期の外交関連施設の一典型を示すものとして重要です。

(写真をクリックすると大きくなります)===イギリスの国章===

領事館玄関入口、上壁面にはイギリスの国章と[BRITISH CONSULATE] の文字が刻み込まれている。

イングランドを象徴するライオンとスコットランドを象徴するユニコーンが盾を支えている。イギリスの古くからの伝説では、ユニコーンはとても危険な獣のため、この国章では鎖でつながれています。

盾の中に2組配された金色のライオン3頭はイングランド王室紋章、金の地に赤いライオンはスコットランドの紋章、竪琴はアイルランドの紋章である。

盾の上には、冠をかぶったライオンがいる。ライオンのかぶっている冠は、イギリスの代表的な冠で、このライオンはイギリスを守っている、という意味がある。

(写真をクリックすると大きくなります)===南側アーチ型ベランダと列柱===

南側を除く三方に煙突をもった階段状の妻壁をつくる点や、南側に連続アーチと列柱をもつベランダを設ける点に特徴があります。

(写真をクリックすると大きくなります)===正面玄関側===

五年七ヶ月間の修復、復元、構造、の補強などの工事が終わり、 リニューアルした旧下関英国領事館の全景です。

一階には、当時領事が使用していたと、伝わる執務机と椅子が置かれています。また、暖炉のマントルピースには、建設当時の英国王エドワード七世のイニシャルが刻まれています。机の側には領事の椅子のレプリカが置かれ、座ることができます。

(写真をクリックすると大きくなります)===東側面===

引接寺 (山口県)2013年03月29日 05時08分56秒

(写真をクリックすると大きくなります。)===引接寺三門(いんじょうじ)===

所在地: 山口県下関市中之町

山 号: 関亀山(かんきざん)

宗 派: 浄土宗

本 尊: 阿弥陀如来

創建年: 1560年(永禄3年)

開 基: 忠誉一徳

文化財: 三門(下関市指定文化財)

(写真をクリックすると大きくなります。)===引接寺三門説明板)===
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引接寺は、浄土宗寺院で当初は豊前国黒田村(福岡県京都郡みやこ町勝山黒田)にあったとつたわるが、詳細は不明です。永禄三年(1560,年)、この地の亀山八幡の麓に建立され、山号を関亀山と号す。

慶長三年(一五九八年)小早川隆景の菩提を弔うため、藤堂佐渡守高虎が現在地に広大な堂字を建立し引接寺を移した。以後、赤間関の有力町人や長府藩の庇護を受けるとともに、萩藩によって朝鮮通信史の客館としても整備されるなど、寺勢は隆盛を極めた。

また、明治二十八年(1895年)春には、日清講和会議のために来日した李鴻章一行の宿舎となり、李鴻章狙撃事件とも相まって、寺名は国際的にも名高い。昭和二十年(1945年)六月二十九日、引接寺の堂字の大半は戦渦により焼失したが、三門はこれを免れ、往時の様子を伝えている。

この三門は、明和六年(1769年)八月に長府藩九代藩主の毛利匡満が再建したものである。また、花崗岩四半敷の基壇は、慶長期の建立時のものと推定されることから、当初の構造形式を踏襲して再建したものと考えられている。三門は屋根を本瓦葺きとし、両側に脇門を設け、柱を総円柱とした四脚門の構えであり、門の内部に二手先の組物を使い、鏡天井に龍を彫り込んだ意匠は希少である。

下関市教育委員会

====現地説明板より===

(写真をクリックすると大きくなります。)===引接寺三門鏡天井の龍の彫刻①===

昭和二十年(1945年)六月二十九日、引接寺の堂字の大半は戦渦により焼失したが、三門はこれを免れ、往時の様子を伝えていjます。

この三門の鏡天井には、左甚五郎の作といわれる見事な龍の彫刻がありますが、これが左甚五郎の作と言うことは定かではありません。

(写真をクリックすると大きくなります。)===引接寺三門鏡天井の龍の彫刻②===

太翔館 (山口県)2012年05月01日 04時55分49秒

(写真をクリックすると大きくなります)===太翔館入り口===

所在地 : 山口県下関市豊北町大字滝部3153-1

名 称 : 下関市立豊北歴史民俗資料館 太翔館(たいしょうかん)

開館時間 : 午前9時~午後5時まで 休館日 : 月曜日 入館料 : 無料

(写真をクリックすると大きくなります)===太翔館正面===旧滝部小学校本館
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この建物は旧滝部小学校の本館で、大正13年(1924年)、滝部村出身の中山太一(元貴族院議員)・豊三・喜助・三兄弟の寄付により完成しました。設計はドイツ人といわれ、宮大工の伝統を持つ阿川村の棟梁、橋本銀之助によって建造されました。ルネッサンス様式の石造建築を木造に取り入れた構造で、大正期の代表的な木造の学校建築として、昭和54年(1979年)に県の有形文化財(建造物)に指定され、平成23年(2011年)には西教室も追加指定されました。1階は豊北の地域案内や建物の由来、旧滝部小学校時代の教室が再現された部屋などがあり、2階は講堂で特別展や企画展が行われます。2階部分全体が講堂となっており、その広さもみものです。

(写真をクリックすると大きくなります)===太翔館右側面===旧滝部小学校本館
(写真をクリックすると大きくなります)===滝部小学校説明板===旧滝部小学校本館

滝部小学校本館はルネッサンス様式を基調にした大正建築で、学校建築としては壮大な構成で卵円窓を配した正面の切妻二階バルコニーの列柱一階入り口のアーチなど洋風石造建築の外観を木造に引き写した意匠に特徴がある。この本館は、地元出身で貴族院議員まで努めた故中山太一兄弟が私財を投じて、大正十三年に建築し当時の滝部村へ寄贈したものでドイツ人技師が設計、宮大工として、名高い阿川地区の大工、橋本銀之助氏が施工した。

(写真をクリックすると大きくなります)==太翔館縁石に施された当時のタイル==
(写真をクリックすると大きくなります)===滝部小学校当時の階段===
(写真をクリックすると大きくなります)===太翔館二階廊下===
(写真をクリックすると大きくなります)===滝部小学校当時の教室の内部===

今回の文化財保存修理工事で復元した教室です。昔の小学校の教科書や学校に関連したものを展示しています。歴史講座などの教室にも利用できます。

(写真をクリックすると大きくなります)===当時使用していたオルガン===

このオルガン本体にYAMAHA ORUGAN HAMAMATUと記されています。たぶん大正時代に浜松で製作したものと思われます。

(写真をクリックすると大きくなります)===滝部小学校当時使用されていた机===
(写真をクリックすると大きくなります)===1階和室===

平成23年4月8日に山口県の有形文化財に追加指定された西側教室です。かっては、女生徒の礼儀作法や裁縫を教える場となっており、女礼室とよばれていました。

(写真をクリックすると大きくなります)===大正当時の滝部小学校全景===

石橋記念公園(鹿児島県)2012年03月13日 16時08分04秒

(写真をクリックすると大きくなります)===西田橋と西田橋御門===

所在地:鹿児島県鹿児島市浜町1-3.

形式:石橋四連アーチ

石工:岩永三五郎

橋長:49.5m:橋幅: 6.2m :完成:1846年(弘化3年)

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この西田橋は九州街道の道筋にあって参勤交代の列が通った西田橋は、城下の玄関口として藩の威光を誇示した橋で、名石工:岩永三五郎の代表作でもあります。石橋への架け替えの際にも、由緒ある橋として木橋時代の青銅製擬宝珠をそのまま使い、丸柱の精巧な高欄とするなど、他の橋に比べて約3倍もの建設費がかかり当時の金額で約7127両余りが、かかったようです。また 橋のたもとには西田橋御門が再現されていますが、この門は西田橋の左岸にあって城下の武士や町人、領内を通行する旅人は御門脇の番所で改めを受けて通行していたようです。

(写真をクリックすると大きくなります)===(岩永三五郎之像)===

◇◇◇岩永三五郎◇◇◇
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岩永三五郎顕彰の由来、肥後の石工 岩永三五郎幸安は、寛政五年(1793年)熊本県八代郡東陽村に生まれ、「性質淡薄寡欲にして、まことに良工なりしは人の能く知る所にして、水利を視、得失を考え、大数を測るに敏なる、はじめて見る地といえども神のごとし」と評され、その人物、土木技術のすぐれたること薩摩に聞こえ、天保十一年(1840年)、時の家老調所広郷に一族共々招かれ、藩内一円の営繕、土木事業の責任者として、その腕をふるった。  すなわち、阿久根の古田修繕、出水、国分、加治木の新田開発、市来の水道、伊集院から出水への道路、山川指宿から鹿児島への道路、鹿児島本港護岸工事(三五郎波止場)、井堰、稲荷川、甲突川の河川改修、西田橋をはじめとするその眼鏡橋の築造は鹿児島、川内、串木野、指宿の各地におよび、三五郎およびその一族にいたっては九州各地に190余りの眼鏡橋を架橋し、なかでも三五郎の甥丈八は、明治政府に招かれ皇居の二重橋等々を架橋した。  薩摩藩在中十年もの間、地元の石工共々その献身的な働きにより幾多の土木事業を成し遂げた。岩永三五郎は、嘉永二年(1849年)薩摩を去り、嘉永四年(1851年)十月五日、八代郡鏡町芝口にて五十九才で没す。  ここに岩永三五郎はじめ、その一族の労苦に思いを馳せ、その偉業を後世に伝えるものである。

現地:岩永三五郎顕彰碑より

(写真をクリックすると大きくなります)===西田橋と西田橋御門===

西田橋御門は、城下の玄関口にあった西田橋の性格を表す重要な施設です。発掘調査で確認された橋との位置関係を保って、残っていた写真や市内の仙巌園の門などから構造仕様を推定して復元的に整備されています。

仙巌園 (磯庭園) (鹿児島県)2012年03月05日 19時33分43秒

(写真をクリックすると大きくなります)===仙巌園正門===

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仙巌園は、江戸時代には歴代当主の別邸として、明治以降は磯島津公爵邸として、使われてきました。万治元年(1658年)、島津光久(19代当主)が、家老鎌田政近の旧宅だった大磯下津浜門屋敷(鹿児島城下北部)を御用地に定め、御仮屋を築いて「仙巌園」と名付けました。寛文12年(1672年)、屋敷の南に一亭を築いて、その翌年正月に同亭内で落成の宴を催したところ、二羽の鶴が庭先に舞い降りたのを嘉瑞として「喜鶴亭」とも呼ばれました。「錫門」や「望嶽楼」もこの時代に建てられたと伝えられています。古文書に「磯御仮屋守」「磯奉行」といった役名が見えることから、築庭当初から仙巌園を管理する役職がおかれていたようです。明治以降廃藩置県が行われると鹿児島城に熊本鎮台の分隊が置かれたため、明治5年(1872年)、島津忠義(29代当主)の妻子は鹿児島城を退去し、仙巌園 磯御茶屋に移り住みます。それ以降、仙巌園は島津本家の生活の場となり、「磯御殿」と呼ばれるようになりました。

明治17年(1884年)に御殿の大規模な改築・修繕を行い、また御庭方小田喜三次に命じて「獅子乗大石灯籠」を造りました。明治20年(1887年)に実父島津久光が没したのを機に、明治21年(1888年)、忠義は鹿児島県貫属(かんぞく/明治期、地方自治体の管轄に属すること。明治17年(1884年)まで、旧藩主は東京在住を命じられていましたが)許可されて鹿児島に移り住んだことから、仙巌園は島津本家の本邸となりました。明治28年(1895年)、大重伊三次に命じて総門を造り、これを「正門」に定めました。忠義が明治30年(1896年)12月に没し、翌明治31年(1897年)4月に、島津忠重(30代当主)が東京に移住したため、磯邸は島津家別邸となりました。終戦後の昭和24年(1949年)には鹿児島市の管理となり、「磯公園」として一般開放されましたが、昭和32年(1957年)に当社に返還され、現在に至っています。

異人館 (旧鹿児島紡績所技師館) (鹿児島県)2012年03月04日 20時26分51秒

(写真をクリックすると大きくなります)==旧鹿児島紡績所技師館==

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この旧鹿児島紡績所技師館、通称・異人館と呼ばれるこの建物は、我が国における初期の西洋建築物として現在は国の重要文化財の指定を受けています。また、平成21年には「九州・山口の近代化産業遺産群の構成資産」の一つとして世界文化遺産暫定リストにも登録されており、幕末維新時の産業発展の象徴ともいえる文化遺産でもあります。蘭癖大名の異名をもつ曽祖父の重豪の影響を受けた斉彬は、海外の文化や情報に精通し、藩主就任後は西欧諸国のように近代化政策を推し進めるべく、ガラス製造や鋳物、造船、紡績、出版など数々の『集成館事業』を展開しました。斉彬の死後は、島津家第29代忠義がその意思を受け継ぎ、就成所と呼ばれる工場群に紡績工場の建設も手がけます。薩摩藩英国留学生であった五代友厚が、留学先のイギリスで紡績機械の買い入れと技師招聘交渉に成功し「ホーム・リンガー商会」の開設者のイー・ホームや工務長のジョン・テットロウなど、鹿児島紡績所の建設と操業のためにイギリスから6名の技師が招かれました。技師らの宿舎として慶応3年(1867年)に建てられたのが、この異人館です。

(写真をクリックすると大きくなります)===尚古集成館===
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仙巌園入り口から尚古集成館・駐車場にかけての一帯は、幕末、薩摩藩主、島津斉彬が築いた工場群「集成館」の跡地で、国の史跡文化財に指定されています。機械工場(現尚古集成館本館・重要文化財)や反射炉跡、工場の動力用水路跡が存在し、さらに地中には多くの遺構・遺物が眠っています。斉彬は、植民地化政策を進める西欧列強のアジア進出に強い危機感を抱いていました。日本が植民地にされないためには、日本を西欧諸国のような強く豊かな国に生まれかわらせなければならないと考え、嘉永四年(1851年)薩摩藩主に就任すると、集成事業という富国強兵・殖産興業政策を推進しました。

集成館はその中核となった工場群の総称で、鉄鉄砲を鋳造する反射炉、反射炉に鉄を供給する溶鉱炉、砲身を穿つ鑽開台、蒸気機関の研究所、ガラス工場などがあり、最盛期には1200名もの人が働いていました。安政五年(1858年)斉彬が急死すると集成館は大幅に縮小され、文久三年(1863年)の薩英戦争でイギリス艦隊の攻撃を受け焼失しました。しかし斉彬の弟久光と、久光の長男で家督を継承した忠義の手で集成館は復興されました。

(写真をクリックすると大きくなります)===尚古集成館===

尚古集成館本館はこの時建てられた機械工場です。集成館事業により、薩摩藩は日本最高水準の技術力・工業力を持つにいたり、明治維新ではその威力が発揮されました。明治四年(1871年)、集成館は官有となりました。明治10年、私学校徒がここを襲撃して西南戦争が勃発、政府軍がすぐに奪還し、再奪還を図る西郷軍と攻防戦を繰り広げたため、多くの工場が焼失し荒廃しました。戦後、民間に払い下げられましたが振るわず、大正四年(1915年)廃止されてしまいました。大正八年、機械工場は改装され、同十二年島津家の歴史資料館「尚古集成館」がオープンしました。

===現地説明板より===

長門一宮住吉神社(山口県)2011年09月23日 09時28分33秒

(写真をクリックすると大きくなります)===一の鳥居===

所在地:山口県下関市一の宮住吉1丁目11-1

主祭神:住吉三神・応神天皇・武内宿彌命・神功皇后・建御名方命

創 建:神功皇后9年(209年)

本殿の様式:九間社流造り

(写真をクリックすると大きくなります)===太鼓橋===
(写真をクリックすると大きくなります)===長門一宮住吉神社楼門===
(写真をクリックすると大きくなります)===隨神像===
楼門袖に置かれた隨神像です。年代は鎌倉時代、作者は不詳

◇随 神◇(ずいじん)は、社殿や神社社地、などを守る神さまをさします。 随神は本来「随身」といわれ、やんごとないおかたを守る近衛兵のことです。 転じて神を従い守るということから随神(ずいじん)といわれるようになったようです。

(写真をクリックすると大きくなります)===隨神像===
(写真をクリックすると大きくなります)===拝 殿===

この住吉神社の建造物は、国宝に指定されている本殿をはじめとして、拝殿、唐門、透塀などすべてが神社建築史上見逃せない貴重なものといわれている。 この拝殿は、本殿の正面中央に接し、これと直角に建てられている。切妻[きりづま]造・破風[はふ]・懸魚[げぎょ](破風の下または左右に下げた飾り)などに特徴があります。  天文8年(1539年)毛利元就が寄進したもので、その後、補修や屋根の葺替え等があったとしても、創建当初の原形や特質はいささかも損なわれていない。  なおこの種の縦長の拝殿は、類例が少なく建築史上意義は大きい。

(写真をクリックすると大きくなります)===大人用御輿(左)と子供用御輿(右)===

毎年9月23日に秋季大祭が斎行されます。 午前10時より五穀豊穣に感謝する本殿祭が行われ、 午前11時に地元の中学生による子供神輿の渡御が行われ、氏子区域をねり歩きます。午後1時30分よりご神幸祭が行われ、子供神輿[みこし]・ 大人神輿[みこし]・子供たちが多くのご神宝を持ち、行列をくみ、御旅所である打下社に向かいます。 御旅所祭終了後、境内にて子供相撲大会が行われ、 子供たちの白熱した組合いが展開されます。 大会終了後、餅まきが催されます。

(写真をクリックすると大きくなります)===本殿右側===
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この住吉神社は下関一宮町に鎮座の桁行22.8m、梁間4.6m、檜皮葺の古社本殿である。今の本殿は1370年(応安3年)に大内弘世が造営したものである。本殿は一間社流造りという形式の五つの社殿と、相の間をもって連結したもので、柱間が九つある九間社流造りという、他に例のない珍しい形式である。五つの社殿の各正面には、千鳥破風という小さい屋根がつけてあって、流造りの特異な形式をつくっている。軒軸廻りの細部に見られる手法は優秀で、向拝正面の束の一種である蛙股(かえるまた)の彫刻はよく時代をあらわしている。また内部の板壁には、彩色された絵が施されていて美しい。各社殿内には玉殿があり、五基とも同一意匠で、本殿の建築と同時代のものとおもわれ貴重である。この本殿は流造り(ながれづくり)の社殿として異例であるばかりでなく、構造意匠のよくまとまったものとして貴重である。なお本社には、江戸時代に上葺などの修理をした際の棟札が四枚存していて、附指定とされています。

(写真をクリックすると大きくなります)===本殿左側===

蓋井島 (山口県下関市)2010年11月07日 11時59分54秒

(写真をクリックすると大きくなります)===蓋井島遠景===

所在地=北緯34度06分00秒 東経130度47分16秒

面  積=2.35Km2 海岸線長=10.4Km 所在海域=日本海(響灘)


(C) Script by ja4chu

写真をクリックすると大きくなります。 ◇◇◇蓋井島(ふたおいじま)は、響灘に浮かぶ島。山口県下関市に属する。面積2.35km2。人口は100人の漁業が中心な小さな集落です。なかでもアワビ・サザエ・ウニや乾燥ひじきなどの特産品があります。また、蓋井島「山ノ神」の森を祀る四つの森(やま)とも呼ぶ)があります。各森には枯れ木や倒木を円錐状に組み合わせた神籬か゜あり、「山ノ神」が鎮まっています。そのため、島民は神の森に立ち入ることも枯れ枝を採ることもせずに、聖域として大切に守り続けてきました。このような古い信仰形態を今日まで具体的な姿で伝える事例は数少なく貴重です。また、辰と戌年に行われる「山ノ神」神事は、山ノ神を各森から当元の家に迎えて行う盛大な祭事で、神事は市指定無形民俗文化財、神事記録は市指定有形民俗文化財となっています。

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蓋井島(ふたおいじま)は、響灘に浮かぶ島。山口県下関市に属する。面積2.35km2。人口は100人の漁業が中心な小さな集落です。なかでもアワビ・サザエ・ウニや乾燥ひじきなどの特産品があります。また、蓋井島「山ノ神」の森を祀る四つの森(やま)とも呼ぶ)があります。各森には枯れ木や倒木を円錐状に組み合わせた神籬か゜あり、「山ノ神」が鎮まっています。そのため、島民は神の森に立ち入ることも枯れ枝を採ることもせずに、聖域として大切に守り続けてきました。このような古い信仰形態を今日まで具体的な姿で伝える事例は数少なく貴重です。また、辰と戌年に行われる「山ノ神」神事は、山ノ神を各森から当元の家に迎えて行う盛大な祭事で、神事は市指定無形民俗文化財、神事記録は市指定有形民俗文化財となっています。


===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)===蓋井丸===
吉見港に係留中の蓋井丸吉見港より蓋井島までの所要時間は約35分位かかります。
(写真をクリックすると大きくなります)===蓋井丸より吉見港方面===

左端の山は鬼が城山・右端は竜王山です。

(写真をクリックすると大きくなります)===蓋井丸より加茂島===
(写真をクリックすると大きくなります)===蓋井島灯台説明板===
(C) Script by ja4chu

写真をクリックすると大きくなります。 ◇◇◇この灯台は、関門海峡と本州北岸及び朝鮮半島とを結ぶ船舶、特に関釜連絡船の強い要望を受けて建設されたもので、明治45年7月15日(1912年)初点灯した。八角形コンクリート造りで、本州最西端に位置する。光源としては、当初石油蒸発白熱灯を使用していたが、昭和26年に灯台としては日本で初めて風力発電装置を開発導入し、自然エネルギー利用の先駆けとなった。灯台はこの装置により、同年6月8日百ボルト七百五十ワットの電球を点灯し、長年の夢、電化に成功した。風車は、三枚翼からなり、直径9メートルで、鉄塔の上部で水平軸の回りに回転する方式であった。昭和42年、商用電力の導入により風力発電は廃止され、現在その基礎の部分が灯台裏の金毘羅山頂に残っている。

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この灯台は、関門海峡と本州北岸及び朝鮮半島とを結ぶ船舶、特に関釜連絡船の強い要望を受けて建設されたもので、明治45年7月15日(1912年)初点灯した。八角形コンクリート造りで、本州最西端に位置する。光源としては、当初石油蒸発白熱灯を使用していたが、昭和26年に灯台としては日本で初めて風力発電装置を開発導入し、自然エネルギー利用の先駆けとなった。灯台はこの装置により、同年6月8日百ボルト七百五十ワットの電球を点灯し、長年の夢、電化に成功した。風車は、三枚翼からなり、直径9メートルで、鉄塔の上部で水平軸の回りに回転する方式であった。昭和42年、商用電力の導入により風力発電は廃止され、現在その基礎の部分が灯台裏の金毘羅山頂に残っている。設 備 の 概 要位置:北緯三十四度〇五分五十五秒東経百三十度四十七分〇〇秒塗色及び構造: 白色 塔形: コンクリート造灯質:四等 群閃白光 二十四秒隔て十六秒間に三閃光光度:二十五万カンデラ光達距離:二十二海里(約四十一キロメートル高さ:地上~頂部:十五メートル水面~灯火:百三メートル管理事務所:第七管区海上保安本部:門司海上保安部電話:093-321-1481

この灯台が、点灯以来数多くの船人の命と貴重な財貨を人知れず救ってきたであろうことを思うとき、これからも夜毎美しい光を沖行く船に投げ掛け続けるよう祈念するものであります。社団法人燈光会。この周知板は、モーターボート競走公益資金による財団法人日本船舶振興会の補助金をうけて設置したものです。


===蓋井島灯台説明版より===
(写真をクリックすると大きくなります)===蓋井島灯台全景===

位 置:北緯 三十四度〇五分五十五秒 東経 百三十度四十七分〇〇秒

塗色及び構造: 白色 塔形: コンクリート造

灯 質:四等 群閃白光 二十四秒隔て十六秒間に三閃光

光 度:二十五万カンデラ

光達距離:二十二海里(約四十一キロメートル)

高 さ:地上~頂部:十五メートル水面~灯火:百三メートル

(写真をクリックすると大きくなります)===蓋井島灯台初点灯表示板===
(写真をクリックすると大きくなります)===蓋井島灯台海側面より===

この灯台が、点灯以来数多くの船人の命と貴重な財貨を人知れず救ってきたであろうことを思うとき、これからも夜毎美しい光を沖行く船に投げ掛け続けるよう祈念するものであります。


(写真をクリックすると大きくなります)===蓋井島灯台点燈部===

海面から燈火部まて゜の高さは百三メートルあり光達距離は約41kmです。

(写真をクリックすると大きくなります)===蓋井島灯台渡船場よりズームで===
(写真をクリックすると大きくなります)===蓋井島灯台渡船場より===
(写真をクリックすると大きくなります)===蓋井島渡船場===

定期船「蓋井丸」 トン数:49トン 航海速力:12.5ノット 旅客定員:80人

(写真をクリックすると大きくなります)===蓋井丸操舵室===
(写真をクリックすると大きくなります)===蓋井丸操舵室内部===
船尾側デッキの小窓から撮影です。

◇旧殿居郵便局舎◇2009年08月06日 14時31分27秒

(写真をクリックすると大きくなります)===旧殿居郵便局舎=== ◇◇◇旧殿居郵便局舎◇◇◇ この旧殿居郵便局舎は、大正十二年(1923年)十月十日に落成したものです。かねてより洋風建築に意のあった二代目局長河田寛氏は、洋風局舎の新築を決意。地元の大工棟染石光孝一氏を東京に同道して見学を行い、帰村後、意匠を決定して同棟染に建築を依頼しました。その結果完成したのがこの旧局舎です。木造平屋建、八角塔屋二階建付きで、外観・構造とも無理なくまとめられ、地方の風土にもマッチした秀作となっています。当時は地方にまで洋風建築が自主的に取り入れられ始めた時代でしたが、この建築はその初期の現存例が極めて少ない貴重なものです。その後、平成三年九月の台風十九号によって倒壊した旧局舎の尖塔部分より棟札が発見されましたので、同棟札が平成五年に山口県有形文化財に追加指定されました。
(写真をクリックすると大きくなります)===旧殿居郵便局舎全景===
(写真をクリックすると大きくなります)===旧殿居郵便局舎右側面より===
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◇◇◇旧殿居郵便局舎◇◇◇
この旧殿居郵便局舎は、大正十二年(1923年)十月十日に落成したものです。かねてより洋風建築に意のあった二代目局長河田寛氏は、洋風局舎の新築を決意。地元の大工棟染石光孝一氏を東京に同道して見学を行い、帰村後、意匠を決定して同棟染に建築を依頼しました。その結果完成したのがこの旧局舎です。木造平屋建、八角塔屋二階建付きで、外観・構造とも無理なくまとめられ、地方の風土にもマッチした秀作となっています。当時は地方にまで洋風建築が自主的に取り入れられ始めた時代でしたが、この建築はその初期の現存例が極めて少ない貴重なものです。その後、平成三年九月の台風十九号によって倒壊した旧局舎の尖塔部分より棟札が発見されましたので、同棟札が平成五年に山口県有形文化財に追加指定されました。
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◇◇◇棟札(むなふだ)◇◇◇
※棟札(むなふだ)とは建築物の創建または修理に際して、その事実を木札などに記して棟や梁(はり)に打ち付けた記録である。その多くは建造の年月日、建築主、工匠の名前などを記す。家の守護神の名を記したり、呪文(じゅもん)を記したものもある。一般に薄く細長い板で、頭部は多く山形をなし、呪物などとともに箱に入れる場合もある。同じような記録は棟や梁などに直接記される棟木銘にもみられ、これが棟札の起源であるといわれています。
===現地説明板より===

豊浦山 神上寺 ⑩2009年08月01日 14時53分11秒

(写真をクリックすると大きくなります)==近松門左衛門誕生之地石碑== 江戸時代の初め、身重になった女中が世に憚って出産したいと、神上寺に救いを求めてきた。然し、神上寺は女人禁制で囲うこともできず、山門前の寺侍木川家に総てを頼んだ。木川家では家の前の川沿いの地に小屋掛けして住まわせ、月満ちて男子が誕生した。その後、時を経て、西市などで浄瑠璃芝居があると、その作者は近松門左衛門で、神上寺山門前で生まれた男の子その人であもということで、この地を近松屋敷と言うようになった。以上が、神上寺前一帯から、豊田郷に広く伝わる伝説である。 (参考)下関の郷土史家 吉村藤舟の説長府藩家老 椙杜元周の子息、広品(ひろがず)(13才)と、その子守役の奥女中との間に生まれたのが、即ち、この小屋で生まれた男子である。この子を平馬と名付け、神上寺で養われていたが、母と別れて、赤間関 永福寺から、唐津の近松寺で僧侶となり祖門と称じて上洛した。京都では還俗して越前藩の杉森家に寄宿して、椙杜信盛と称したのが、後の近松門左衛門であるという。
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◇◇近松門左衛門出生伝説地◇◇
江戸時代の初め、身重になった女中が世に憚って出産したいと、神上寺に救いを求めてきた。然し、神上寺は女人禁制で囲うこともできず、山門前の寺侍木川家に総てを頼んだ。木川家では家の前の川沿いの地に小屋掛けして住まわせ、月満ちて男子が誕生した。その後、時を経て、西市などで浄瑠璃芝居があると、その作者は近松門左衛門で、神上寺山門前で生まれた男の子その人であもということで、この地を近松屋敷と言うようになった。以上が、神上寺前一帯から、豊田郷に広く伝わる伝説である。
(参考)下関の郷土史家 吉村藤舟の説長府藩家老 椙杜元周の子息、広品(ひろがず)(13才)と、その子守役の奥女中との間に生まれたのが、即ち、この小屋で生まれた男子である。この子を平馬と名付け、神上寺で養われていたが、母と別れて、赤間関 永福寺から、唐津の近松寺で僧侶となり祖門と称じて上洛した。京都では還俗して越前藩の杉森家に寄宿して、椙杜信盛と称したのが、後の近松門左衛門であるという。
===現地説明板より===