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新緑の豊前国分寺 (福岡県)2017年06月05日 10時06分46秒

名 称 ・豊前国分寺三重塔

所在地 ・福岡県京都郡みやこ町国分279番地 1

駐車場 ・有り(無料)

(写真をクリックすると大きくなります)====豊前国分寺山門====
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天平勝宝8年(756年)、筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向等26国の国分寺に「仏事荘厳具の下賜」がされ、このころまでに豊前国分寺では主要な建物が完成したと考えられています。その後、平安時代にかけて盛んに活動を続けていた諸国の国分寺も、鎌倉時代以降多くが衰退していきました。しかし、豊前国分寺は平安時代に天台宗の勢力下に入り、鎌倉・室町時代にもかわらず法灯をともし続けていました。そして、天正年間(1573年~1592年)初期に戦国大名大友氏の戦火にあい、主要建物は全て焼失したと伝えられています。

(写真をクリックすると大きくなります)====豊前国分寺三重塔====

 その後、天正年間中にはいち早く同地に草庵が建てられ、本尊薬師如来が造仏安置されました。本格的な再建は、江戸時代以降小笠原藩の援助を受けて当時の歴代住職の努力によって進みました。  現在敷地に残る建物のうち本堂は寛文6年(1666年)、鐘楼門は貞享元年(1684年)に建立されたものです。なお、国分僧寺の敷地は昭和51年(1976年)に国の史跡に指定されています。

(写真をクリックすると大きくなります)====豊前国分寺鐘楼門====

現在敷地に残る建物のうち本堂は寛文6年(1666年)、鐘楼門は貞享元年(1684年)に建立されたものです。 なお、国分僧寺の敷地は昭和51年(1976年)に国の史跡に指定されています。

(写真をクリックすると大きくなります)====豊前国分寺三重塔====
(写真をクリックすると大きくなります)====豊前国分寺三重塔====

国分僧寺の塔は本来七重塔で、当初鐘楼門をはさんで三重塔とは反対の東側にあったと推定されています。焼失後、塔が再建さたのは明治になってからです。住職宮本孝梁師の発願により、明治21年(1888年)に着工し、28年完成、29年1月に落慶法要が行われました。 三重塔は昭和32年に福岡県の有形文化財に指定されています。建物の高さは約23.3m、約初層の大きさは一辺が約7.5mです。建築様式は層塔と多宝塔の折衷様式で、心柱は全長23m・根元60cm角の杉材の一本物です。

屋根の瓦は発掘調査で出土した大宰府系を復元しています。内部には大日如来を安置しています。二層目の上部の外壁面には、明治の文名開化の香りを漂わせる十二星座の彫刻が見られます。 その後100年経過して傷みが激しかったため、昭和60年から62年に全面的な解体修理が実施されました。 建築様式は層塔と多宝塔の折衷様式で、心柱は全長23m・根元60cm角の杉材の一本物です。屋根の瓦は発掘調査で出土した大宰府系を復元しています。内部には大日如来を安置しています。二層目の上部の外壁面には、明治の文名開化の香りを漂わせる十二星座の彫刻が見られます。

(写真をクリックすると大きくなります)====豊前国分寺三重塔====
(写真をクリックすると大きくなります)====豊前国分寺三重塔相輪====

相輪は通常七つの部分から成っています。上から宝珠(お釈迦様の遺骨を納めるところ。)竜車(高貴な人をのせる乗り物を表す。)水煙(火炎の透かし彫りですが火をきらうことから水煙と呼ばれています。)宝輪(九つの五大如来と四大菩薩を表します。)請花(全部を受ける飾り台。)伏鉢(土饅頭の部分)露盤(伏鉢の土台)

清水寺 ・ 三重塔 (福岡県)2016年02月15日 15時03分21秒


本吉山清水寺三重塔(福岡県)

宗 派  : 天台宗

名  称 : 本吉山清水寺

所在地 : 福岡県みやま市瀬高町本吉1117-4

(写真をクリックすると大きくなります)===清水寺三重塔===

清水三重塔は本来寺院のシンボルで釈迦佛の遺骨を納めて礼拝する信仰の対象物であります。この塔は「文政五年(1822年)柳川十代藩主立花鑑賢公」領内住民近国の信者の寄進により柳川大工宗吉平衛が大阪四天王寺の五重塔を手本に二千両をかけ14年の歳月をついやして天保七年(1836年)完成したものであると伝えられます。塔の高さは初層まで5.5メートル二層、三層はそれぞれ4.5メートル屋根に立つ相輪まで27メートルであります。天台宗密教の建築様式により設計されており創建以来百数十年の風雪に堪えてきましたが近年に至り白蟻の被害の為倒壊寸前にあった所、この間町をあげて復元奉賛会を組織し県内はもとより遠く東京、名古屋、関西方面の有志の寄進により欅、楠等四百石(110立方米)の木材が使用され芯柱、四天柱、側柱、床板等は古材を用いて原形をそのまま生かし補修のあとが目立たない様に工夫され昭和41年11月に完成しました。

===現地説明版より===

(写真をクリックすると大きくなります)===清水三重塔説明版===
(写真をクリックすると大きくなります)===清水寺・山門===

この山門は、木造入母屋二層造、屋上、階下とも三十六・三平方メートル・造営当時は桧皮葺でありましたが、現在は銅版葺に替わっています。延享二年(1745年)柳川初代藩主、立花宗茂公より第六代目の藩主、立花貞則公が願主となって、大城源右衛門を大棟梁とし建立させたものであります。階上には釈迦如来・文殊菩薩と、これを守護する持国・広目・増長・多門の四天王の像が安置されています。

(写真をクリックすると大きくなります)===清水寺・山門説明版===

寺伝によれば、平安時代初期の大同元年(806年)、唐から帰国してまもない最澄(伝教大師)は、1羽の雉の導きで清水寺のある山に分け入り、合歓(ねむ)の霊木を見つけたという。最澄はこの合歓の立木を刻んで2体の千手観音の木像を作り、うち1体を京都の清水寺に安置。もう1体を安置する堂をこの地に創建したのが当寺の起源であるという。

延享2年(1745年)には当時の柳川藩藩主立花貞則が願主となって、山門(福岡県指定重要文化財)が建立され、天保7年(1836年)には三重塔(福岡県指定重要文化財)が落成した。

(写真をクリックすると大きくなります)===清水寺・参道石段===

蓮華院・誕生寺本院 五重塔(熊本県)2016年02月12日 10時15分13秒


蓮華院誕生寺・本院 五重塔

宗 派  :真言律宗・九州別格本山

名  称 :蓮華院誕生寺・本院

本 院 : 熊本県玉名市築地2288

(写真をクリックすると大きくなります)===誕生寺五重塔===

誕生寺本院の「平成五重塔」は、平成9年4月に落慶された総青森ひば造りの五重塔です。高さ35mで、九州で2つの純木造の五重塔のひとつです。一層に御本尊皇円大菩薩様をお祀りし、その手のひらの上には、お釈迦様の真舎利が納まっています。  昭和62年に故川原真如大僧正の発願により、約10年の月日をかけて建立され、現貫主川原英照権大僧正の下に落成したものです。日本のみならず、インドやチベットやスリランカや多くの人々の協力のお陰で完成した国際的な「平成五重塔」です。

(写真をクリックすると大きくなります)===誕生寺五重塔===
(写真をクリックすると大きくなります)===五輪塔説明版===

この五輪塔は、浄土宗の開祖である法然上人の師、皇円上人の生誕地として、皇円上人の祖、関白藤原道兼の菩提を弔うために造立されたものと伝承され、地元では関白塔の名で親しまれている。以下、向かって右を東塔、左塔とする。

東塔は、高さ約2.53メートルの巨大のもので、地輪下に幅約1.16メートル、高さ約20センチメートルの基礎石がある。西塔は、高さ約2.68メートルあり、東塔より若干高く、九州では最大の高さを誇る五輪塔である。この関白塔には、規模が大きいにも関わらず、梵字等は何も刻まれていない。

このことは真言律宗総本山奈良市西大寺の叡尊塔に代表される特徴であり、真言律宗においては鎌倉時代後期から室町時代にかけて梵字を刻まない大型五輪塔が僧の墓塔として造立されている。関白塔は、真言律宗の玉名地域への伝播と、その後の発展および定着をしめしており、中世における九州での仏教受容のあり方とその背景を考えるうえで重要な文化財である。

===現地説明版より===
(写真をクリックすると大きくなります)===五輪塔===

蓮華院誕生寺奥之院 (熊本県)2016年02月11日 19時50分16秒


蓮華院誕生寺・奥之院

宗 派  :真言律宗・九州別格本山

名 称  : 蓮華院誕生寺・奥之院

所在地 : 熊本県玉名市築地1512-77

本 院 : 熊本県玉名市築地2288

(写真をクリックすると大きくなります)===心経門===
(写真をクリックすると大きくなります)===仁王門===
(写真をクリックすると大きくなります)===左右の仁王像===

この仁王像は、仁王像にかけては日本一と言われる、大阪四天王寺の大仏師によって造られたものです。素材は総檜造りで高さは3m90cmで九州では2番目の大きさです。

(写真をクリックすると大きくなります)===五重塔一層が本堂===

この蓮華院誕生寺の奥之院は、熊本県玉名市の霊山、小岱山の西の麓に広がる宏荘な境内は、皇円大菩薩様の大仏様を中心に18万坪(60ha)の広さです。

 五重塔にも登れ、各層それぞれが修行の道場になっています。階段を上り、最上階からの見晴らしは東には阿蘇の山々、南には有明海が眼下に広がり、雲仙岳も、すぐ目の前という広大な展望が開けています。

ここからの眺めは最高で訪れる人々をとても清々しい気持ちにさせてくれます。また、奥之院では四季の移り変わりと共に紅葉や花々も心を癒してくれます。

写真をクリックすると大きくなります)===五重塔左側面より===
(写真をクリックすると大きくなります)===五重塔裏側面より===
(写真をクリックすると大きくなります)===極楽橋===
(写真をクリックすると大きくなります)===鐘楼堂の大梵鐘===
(写真をクリックすると大きくなります)===大梵鐘を撞く様子===

この大梵鐘「飛龍の鐘」大きさは、直径9尺5寸(2.88m)、重さ1万貫(37.5t)、高さ15尺(4.55m)で、京都の鋳造所から昭和51年に特別にトレーラーで運ばれ、海抜250メートルの小岱山中腹の奥之院まで、6トン以上は通れない山道をつつがなく一夜にして登り運ばれました。

奇跡に近いそのことは「真言密教の念力加護のお蔭」としか思えません。誰言うことなく、空を飛ぶ鐘「飛龍の鐘」と名付けられました。 御仏のご利益の言葉「抜苦(九)与楽(ばっくよらく)、離業(五)得脱(りごうとくだつ)」(苦しみを抜き平安な心を与え、業の苦悩から解き放たれる)から九と五を選び、鐘の直径は九尺五寸となり、鐘を撞くことで祈願が叶う、「満願=一万貫(37.5トン)」世界一の大梵鐘です。

 また、「梵鐘は坐した仏の姿なり」と申し、鐘の音は、仏音「仏様の声」と申します。仏様の声は、有明海を渡り島原まで響きます。まさに仏様の声が広がるように、仏様のお力も広がり、世界で苦しんでいる方々を救い、世界が平和になります様にと願いながら、毎日朝6時と昼12時に鐘を撞いてお参りしております。

(写真をクリックすると大きくなります)===男坂からの眺望===

男坂からの眺望、手前中央から極楽橋・中央は仁王門・右手は鐘楼堂

(写真をクリックすると大きくなります)===男 坂===

この石段は正面までが三十二段あり、女性の厄払いにご゛利益があります。その先、大仏様までが六十段あり、男性の厄払いに霊顕があります。厄年の方は特に一段ごとに南無皇円大菩薩と真剣に唱えながら石段の中央を登ってください。必ずや功徳を頂けます。

===現地説明版より===
(写真をクリックすると大きくなります)===御礼廟(大仏)===

上がりきったところに皇円大菩薩の大仏があります。高さは13mもあります。ちなみにこのお寺の名前である「誕生寺」はここで皇円大菩薩が誕生したということが由来だそうです。

(写真をクリックすると大きくなります)===開山堂===

御開山堂は蓮華院誕生寺の奥之院を開山された故川原是信大僧正様の「みたま」です。皇円大菩薩様ご゛入定の月日と同じく、明治29年6月13日に皇円大菩薩の再来としてご誕生になった是信大僧正様は、大菩薩様のご霊告を頂き功徳をさずかって蓮華院誕生寺を再興され、衆生済度に挺身されました。昭和43年には、総本山奈良の西大寺から「大僧正」の階位と「別格本山」の寺格を授かられ昭和45年にはここに奥之院の建立を発願されました。昭和52年12月20日82歳の御時安祥として御入定になり、この開山堂から全国の衆生信者の済度に努められておられます。

===現地説明版より===

深見五重塔(大分県)2014年01月24日 15時01分54秒

所在地 : 大分県宇佐市安心院町鳥越

名 称 : 定樹山大健寺深見五重塔

建築方式 : 木造 ・高さ28m ・建立年月日: 1983年(昭和58年4月)

(写真をクリックすると大きくなります)===大健寺深見五重塔)


定樹山大建寺深見五重塔

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この五重の塔は糸永貞樹翁が故郷への報恩感謝の念をこめて建立したものです。翁は明治28年4月15日当地鳥越で此の世に生を享け、18才の時に身一つで東京に出て、文字通り苦学力行、ユフ精器株式会社(医療機器関係)を設立一代の成功者となりました。翁は常々今日、自分があるのは第一には両親をはじめ先祖のおかげであり、第二はこれまで接してきた周囲の多数の方々のおかげであると言っておりました。

郷土鳥越の地に平安から鎌倉にかけて栄えた大建寺と言う由緒あるお寺がありましたが、何時の時代にか廃寺となっており、大建寺跡地にふさわしい五重の塔を建立して、我が国の古き良き伝統を形として郷土に残したいと思い、美しさに定評のある平安時代建立の京都の国宝醍醐寺の五重の塔をモデルに、昭和58年4月15日翁の88才の誕生日に米寿を記念して落慶したものです。九州においては唯一の木造五重の塔です。

===現地五重塔建立之記より===
(写真をクリックすると大きくなります)===大健寺五重塔)

(写真をクリックすると大きくなります)===定樹山大建寺山門

大建寺山門には左右一対の仁王像が安置されています。樹齢六百年の欅(ケヤキ)の一本彫りです。欅(ケヤキ)の木目が薄っすらと見え印象的です。

(写真をクリックすると大きくなります)===定樹山大建寺山門仁王像左側

(写真をクリックすると大きくなります)===定樹山大建寺山門仁王像右側

新年のご挨拶。2014年01月01日 12時00分00秒

(写真をクリックすると大きくなります)===深見五重塔===
◇◇◇ (写真をクリックすると大きくなります) ◇◇◇ 迎 春 皆様のご健勝をお祈りいたします。 本年もよろしくお願い致します。平成26年元旦◇◇◇

和布刈神社 (福岡県)2013年02月03日 20時47分13秒

(写真をクリックすると大きくなります)===和布刈(めかり)神社 ===
(写真をクリックすると大きくなります)===和布刈(めかり)神社鳥居下の灯篭 ===
(写真をクリックすると大きくなります)===和布刈(めかり)神事の絵 ===>

三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って海に入り、わかめ刈り採って、神前に供えます。神事は、毎年旧暦大晦日の深夜から元旦にかけての干潮時に行われます。

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九州最北端に位置するこの神社は社記によると、仲哀天皇9年に 比賣大神(ひめのおおかみ)、日子穂々手見命(ひこほほてみのみこと)、鵜〔茲鳥〕葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、豊玉日賣命(とよたまひめのみこと)、阿曇磯良神(あすみいそはらのかみ)の五柱の神を祭神として、創建され、江戸時代までは、速戸社(はやとしゃ)とか隼人社と呼ばれていました。

近世末までは、時の領主である大内氏、毛利氏、小笠原氏の崇敬庇護厚く、神殿前には細川忠興公が寄進した灯籠があります。  この神社には古くから和布刈神事が伝えられていますが、李部王記によれば、和銅3年(710年)に和布刈神事のわかめを朝廷に献上したとの記録があり、奈良時代から行われていたものです。神事は、毎年旧暦大晦日の深夜から元旦にかけての干潮時に行われます。

三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って海に入り、わかめ刈り採って、神前に供えます。  わかめは、万物に先んじて、芽をだし自然に繁茂するため、幸福を招くといわれ、新年の予祝行事として昔から重んじられてきたものです。神事のうち、わかめを採る行事は、県の無形民俗文化財に、また、当神社に伝存する中世文書九通は、市の有形文化財に指定されています。

北 九 州 市   北九州市教育委員会

===現地説明板より===

龍原寺三重塔(大分県)2012年01月12日 10時36分19秒

名  称:龍原寺(りゅうげんじ)三重塔

所在地:大分県臼杵市福良平清水134

(写真をクリックすると大きくなります)浄土宗 龍原寺
(写真をクリックすると大きくなります)龍原寺本堂
(写真をクリックすると大きくなります)龍原寺説明板


龍原寺山門前の説明板には、つぎのように記されています。

浄土宗総本山知恩院末、慶長五年(1600年)創建、後陽成天皇の御字慶長五年

当寺開山円誉上人は領主の船長南興大夫の便船にして下向あり上人の高風を慕い乞により其の家に留錫す。

領主の稲葉右京貞通公は上人の高徳に感じ龍ヶ渕(現今の古名なり)を埋め一字を創建せり。
(写真をクリックすると大きくなります)龍原寺三重塔


この龍原寺三重塔は、臼杵が生んだ名匠高橋団内が、奈良や京都の古寺をめぐり、古い塔の長所をとり入れた理想的な三重塔の図面を引き、それを基に弟子の坂本荘右衛門が監督し、建物を完成させました。
工事は、嘉永元年1848年から10年の歳月をかけて行われ、安政5年1858年に竣工しました。総高21.8メートルをはかる九州でも数少ない江戸時代の三重塔です。内部には、聖徳太子の像が安置されています。

(写真をクリックすると大きくなります)龍原寺三重塔
(写真をクリックすると大きくなります)龍原寺三重塔
(写真をクリックすると大きくなります)龍原寺三重塔邪鬼像


この邪鬼像が龍原寺三重塔のように建築物の中にとり込まれていることは極めて珍しい例であるようです。この三重塔は京都や奈良の木造古塔を参考として、臼杵の名匠・高橋団内が設計し安政五年(1858年)に完成したものですが、京都や奈良の塔で邪鬼をこのような位置にはめ込んだものはないようです。
恐らく団内や、この三重塔の製作に携わった工匠たちの発想によるものと思われています。この邪鬼像は、高橋団内の弟子である宇野定治の作と伝えられています。それぞれ表情やポーズは異なっていて、苦しげな表情で両手と肩で軒を支えるもの、かと思えば片手で軽々と垂木を持ち上げている表情など、確かな彫刻技術の中に軽やかな遊び心も感じられます。

(写真をクリックすると大きくなります)龍原寺三重塔邪鬼像
(写真をクリックすると大きくなります)龍原寺三重塔邪鬼像
(写真をクリックすると大きくなります)龍原寺太子塔扉


この三重塔は1600年に臼杵藩の稲葉右京貞通、(いなばうきょう、さだみち)初代藩主が創建した塔で、九州に2つしかない木造三重塔です。この三重塔には聖徳太子像を安置していることから太子塔とも呼ばれています。また第一層の軒下には、邪鬼像が四隅にはめ込まれています。

(写真をクリックすると大きくなります)龍原寺三重塔

龍原寺境内からの三重塔の全景です。

(写真をクリックすると大きくなります)龍原寺三重塔相輪


相輪(そうりん)とは、五重塔などの屋根から天に向かって突き出た金属製の部分の総称。上から順に宝珠:仏舎利(釈迦の骨)が納められる。竜車:高貴な者の乗り物。水煙:火炎のデザインだが火事を避けるため水煙とされている。九輪(宝輪):五智如来と四菩薩を表す。受花(請花):飾り台。伏鉢:鉢を伏せた形をした盛り土形の墓、ストゥーパ形。露盤:伏鉢の土台。宝珠は仏舎利が納められるため、最も重要とされる。 なお、中心を貫く棒は「擦」または(刹管)と呼ばれています。

福徳稲荷神社(山口県)2011年03月20日 11時41分38秒

(写真をクリックすると大きくなります)===福徳稲荷神社本殿と大鳥居===

所在地=山口県下関市豊浦町宇賀2960

御祭神・倉稻魂大神・大宮能賣大神・大市比賣大神

御由緒・人皇12代景行天皇安須波の原に御臨幸のみぎり、犬鳴山の姫菖蒲を叡覧ありて、その美景に見いられて、いぬことを忘れる。 即ちいぬなき山というと伝えられ、それ以来この所を犬鳴山(稲城山)と称しこの景勝地に壱千余年の古より鎮座。 古歌に長門なる稲城山の姫あやめ時ならずして如月に咲くと詠まれている。

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(写真をクリックすると大きくなります)===説明版===
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稲荷大神は、私達の生活に必要なあらゆる物を守護される衣・食・住の大祖神です。  稲荷大神の御神徳は尊くして広大無辺であり、その有難き御神思は「(開運)鳥居」の奉納により授かる事ができると云う信仰が稲荷信仰の一つとして在ります。  お稲荷様を崇拝する人達の中には、信心によって危ない局面を救われたり、難儀から逃れたりして様々な成功を成し得た方達がいます。  このような方々は一様に、精一杯の努力をした人々で、その懸命な努力は無意識の中の"神の意"に適った努力となって其の結果「成就」と云う御神思を授かる事が出来たのです。  こうして尊い御神思を授かった多勢の崇敬者が、御神徳に報いようとして清浄な誠の心で奉納したのが千本鳥居なのです。 "千"の字を当てるのは数の多さを意味しますが実際に千本以上建てられています。  種々の成功を得た人達が奉納した鳥居ゆえに「開運鳥居」と命名されるところから、この有難いご利益に少しでもあやかろうとしてこの「開運鳥居」を潜る参詣者が後を絶ちません。  そして一方では、願い事が成就しますようにと、願掛けの奉納をされる人達も在り、年を追って名実共に、広大無辺の御神徳が威を増しています。


現地説明版より
(写真をクリックすると大きくなります)===福徳稲荷神社の額===
(写真をクリックすると大きくなります)===福徳稲荷神社の本殿===
(写真をクリックすると大きくなります)===福徳稲荷神社本殿右側面より===
(写真をクリックすると大きくなります)
===千本鳥居参拝案内図===
(C) Script by ja4chu

谷獄・谷森・谷川稲荷の三社に本社の御祭神の御分霊をお祀りしてあります。又近い時に縁組稲荷社を造営し、良縁を祈る参詣者をお迎えしています。前述三社には幼児の病気平ユ或いは大漁・航海安全・又商売繁盛等御利益霊顕あらたかで、多くの参詣者が朱塗りの千本鳥居をくぐります。又、稲城山公園一帯に眠る萬物の霊を、万霊慰霊塔を建立して慰めています。

(写真をクリックすると大きくなります)===千本鳥居===
是より縁組み稲荷・谷川稲荷・谷森稲荷・谷嶽稲荷参拝道となります。

小国両神社(熊本県小国)2011年01月24日 12時08分57秒

(写真をクリックすると大きくなります)===小国両神社桜門===

所在地= 熊本県阿蘇郡小国町大字宮原一六七〇番地

(写真をクリックすると大きくなります)===小国両神社境内由緒掲示板===
◇◇◇小国両神社御由緒略記◇◇◇
熊本県阿蘇郡小国町大字宮原一六七〇番地
御祭神
高橋大神(たかはしおおかみ) 火宮大神(ひのみやおおかみ) 雨宮媛命(あまみやひめのみこと) 御妃神二座・御親族の神十六座奉祀
神系図
神武天皇ー神八耳命ー健磐龍命(阿蘇大明神)ー 阿蘇国造大神 速瓶玉命ー  ー彦御子神(阿蘇大宮司家祖神)ー高橋神 (両神社主祭神) 雨宮媛命ー ー火宮神 (両神社主祭神)
御神徳

生活守護 農林諸業繁栄・祈雨祈晴・火防・縁結び武徳必勝・開運厄除 元寇の役で軍将北条公戦勝の祈願や、北里氏祖の綿貫石開運勝利の故事による。

御由緒

杜記によれば、太古の昔、高橋神・火宮神のご兄弟は、父祖阿蘇大神より小国郷開拓の命を受け農耕を起こし、衆庶に衣食住や殖産興業等の生活根源を教え、郷土開発先駆の多大な功績を残された。このご聖徳と、ご功業を敬仰し、第十六代仁徳天皇の御代に高橋大神を祀り、第十八代反 正天皇の御代に火宮大神を祀り、これより両神社(りょうじんじゃ)の御社名が始まったと伝わる古社である。

特殊神事
  一、御衣更神事 一、古伝の神饌 一、すがもり神事
社殿建物

社司年代記に、平安朝の天暦元年や鎌倉時代の弘安四年造営、応仁・文明の後、兵乱相続き社殿 廃毀焼亡とあり、古文書も焼失のため詳細は不明なり。本殿は元禄二年(西暦一六八九年)再建す。大正二年改築のため宮山を切り開き本殿を解体移築し、拝殿、楼門を新築す。平成三年十九合台風のため倒伏の杉大木により、楼門倒壊、本殿屋根、社務所大破するも平成九年十月再建竣功す。

◇◇◇祭 典◇◇◇
  十月十四日 御本祭高橋大神祭および献幣式  十月十五日 御本祭火宮大神祭 十月十六日~十八日 御神幸祭 十月十九日 御遷座祭 平成九年十一月吉辰 小国両神社 

(境内由緒掲示板より)
(写真をクリックすると大きくなります)===両神社西側の鳥居====
(写真をクリックすると大きくなります)===中央の鳥居と桜門====
(写真をクリックすると大きくなります)====小国両神社桜門===
(C) Script by ja4chu

社司年代記に、平安朝の天暦元年や鎌倉時代の弘安四年造営、応仁・文明の後、兵乱相続き社殿 廃毀焼亡とあり、古文書も焼失のため詳細は不明なり。本殿は元禄二年(西暦一六八九年)再建す。大正二年改築のため宮山を切り開き本殿を解体移築し、拝殿、楼門を新築す。平成三年十九合台風のため倒伏の杉大木により、楼門倒壊、本殿屋根、社務所大破するも平成九年十月再建竣功す。と記されています。

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社司年代記に、平安朝の天暦元年や鎌倉時代の弘安四年造営、応仁・文明の後、兵乱相続き社殿 廃毀焼亡とあり、古文書も焼失のため詳細は不明なり。本殿は元禄二年(西暦一六八九年)再建す。大正二年改築のため宮山を切り開き本殿を解体移築し、拝殿、楼門を新築す。平成三年十九合台風のため倒伏の杉大木により、楼門倒壊、本殿屋根、社務所大破するも平成九年十月再建竣功す。と記されています。

(写真をクリックすると大きくなります)====小国両神社拝殿===
(写真をクリックすると大きくなります)====両神社と富くじ説明版===
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両神社と富くじ 江戸時代の文政元年(西暦1818年)より両神社で「富くじ」を行うことが許された。この頃、宮原上町(現在の一番街)で造り酒屋を営む湊屋橋本順左衛門は、毎朝早起きして井川(現在のけやき水源)で手を洗い身を清め太古から湧き出る水を祀る水神様に自然の恵みを感謝した。そして小国郷の氏神である両神社へ参拝し、天下の太平と商売繁盛を祈ることを日々の勤めとしていた。 ある日の朝方、湊屋順左衛門は、けやき水源に小さな舟が流に逆らい入る夢を見た。湊に舟が入ることを吉兆と感じた、順左衛門は「富くじ」を買い、見事に大乙〔一番くじ〕を当てた。湊屋順左衛門の正夢の話を聞いた郷内城尾村市郎右衛門は、毎朝、一里の道をけやき水源に通い水神様と両神社に「一番くじ」を願って祈り続け心願成就し、両神社富くじと久住宮富くじに四回大乙〔一番くじ〕を当てたのである。 このことから、両神社の高橋宮・火宮の二祭神は「千両・万両の神様」と呼ばれるようになった。その後富くじは年毎に盛んになり、嘉永より安政年間までの十年間に七十六回も行われたと古文書に記載されている。 明治維新となり、両神社の富くじは無くなったが、今も祈願者に開運招福を授けて下さるのである。   平成十五年十二月 小国町商工会

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◇◇◇両神社と富くじ◇◇◇

両神社と富くじ 江戸時代の文政元年(西暦1818年)より両神社で「富くじ」を行うことが許された。この頃、宮原上町(現在の一番街)で造り酒屋を営む湊屋橋本順左衛門は、毎朝早起きして井川(現在のけやき水源)で手を洗い身を清め太古から湧き出る水を祀る水神様に自然の恵みを感謝した。そして小国郷の氏神である両神社へ参拝し、天下の太平と商売繁盛を祈ることを日々の勤めとしていた。 ある日の朝方、湊屋順左衛門は、けやき水源に小さな舟が流に逆らい入る夢を見た。湊に舟が入ることを吉兆と感じた、順左衛門は「富くじ」を買い、見事に大乙〔一番くじ〕を当てた。湊屋順左衛門の正夢の話を聞いた郷内城尾村市郎右衛門は、毎朝、一里の道をけやき水源に通い水神様と両神社に「一番くじ」を願って祈り続け心願成就し、両神社富くじと久住宮富くじに四回大乙〔一番くじ〕を当てたのである。 このことから、両神社の高橋宮・火宮の二祭神は「千両・万両の神様」と呼ばれるようになった。その後富くじは年毎に盛んになり、嘉永より安政年間までの十年間に七十六回も行われたと古文書に記載されている。 明治維新となり、両神社の富くじは無くなったが、今も祈願者に開運招福を授けて下さるのである。

  平成十五年十二月 小国町商工会
===境内説明板より===