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豊前中津城(大分県)2015年09月26日 09時44分50秒

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日向 高鍋城 (宮崎県)2015年08月29日 15時26分25秒

名  称 : 高鍋城 (たかなべじょう) 別 名 : 舞鶴城・財部城

築城年間 :  斉衡年間(854年~857年)

築城者  : 柏木左衛門尉 (かしわぎさえもんのじょう)   

歴代城主 :   柏木、土持、伊東、島津、秋月.

形 式 :  平山城

所在地 : 宮崎県児湯郡高鍋町小路

(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸石垣===

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高鍋城は、古くは財部城と呼ばれ、築城年代は定かでないが柏木左衛門尉によって築城され、その後財部土持氏の居城であった。長禄元年、土持景綱が、都於郡城主、伊東祐堯と戦って敗れて滅亡、財部城は伊東氏の持城となり、家臣落合民部少輔が城主となった。天正6年、伊東氏は島津氏に敗れ、島津氏家臣川上忠智が城主となった。

天正15年、豊臣秀吉の九州征伐後、筑前秋月城主秋月種実が日向串間へと移封になり、財部城は秋月氏の持城となった。その後、慶長9年、秋月種長は財部城へ居城を移し、慶長12年より財部城を三層天守を持つ近世城郭へと改修、三代種信の時にも大改修を行い、この時財部を「高鍋」へと改称した。以後、明治まで秋月氏2万7000石の居城として明治に至りました。

(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸に続く石段===

二の丸から石段の登城道を登ると、広々とした本丸へたどり着きます。本丸には御殿跡の礎石が所々に残されていて、本丸御殿の案内板がありました。

(写真をクリックすると大きくなります)===高鍋城説明板===

高鍋城本丸、奥御殿は第三代藩主、種信公の延宝四年(1676年)に完成した。長峰御門(本丸北側)を過ぎると本丸の玄関があり、玄関を上がると藩主の集まる大広間がある。

その他藩主が藩臣とお逢いになる御書院、家老や奉行が藩政をとりおこなう家老所、奉行所などがあった。奥御殿が完成すると同時に藩主は二の丸の仮住居から転居され本格的な藩政の充実と発展に向かって邁進なされた。

===現地説明版より===

(写真をクリックすると大きくなります)本丸政庁・奥御殿跡===

今治城 (愛媛県)2015年07月16日 04時42分24秒

名  称 : 今治城 (いまばりじょう) 別 名 : 吹上城 ・ 吹揚城

築城年間 :  慶長7年(1602年)

築城者  : 藤堂高虎 (とうどうたかとら)   

城 主 :  藤堂氏 ・ 松平(久松)氏

形 式 :  輪郭式平城(海城)

所在地 : 愛媛県今治市通町3-1-3

◇◇◇今治城は、築城の名手、藤堂高虎により慶長7年(1602年)に着工し同9年(1604年)に完成しました。堀に海水を引き入れる日本三大海城の一つで大規模な近世の平城でもあります。また日本で初めて層塔式天守が造られるなど、織豊期の城郭とは異なる革新的なものが認められます。藤堂高虎は同時期に徳川家康の天下普請に乞われ、各地の築城の縄張りに関与していることから、今治城は徳川系(関ヶ原合戦以降)城郭の雛形と言われています。築城当時は三重の堀があり、いわゆる総構えの城でありました。城の規模は現在の10倍以上であったと言われています。現存するのは本丸と二の丸、三の丸の城塁と幅約50mの内堀のみで昭和28年に愛媛県指定史跡「今治城跡」に指定されています。◇◇◇
(写真をクリックすると大きくなります)==今治城・天守閣==
(写真をクリックすると大きくなります)==今治城・天守閣正面から==

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今治城は、築城の名手、藤堂高虎により慶長7年(1602年)に着工し同9年(1604年)に完成しました。堀に海水を引き入れる日本三大海城の一つで大規模な近世の平城でもあります。また日本で初めて層塔式天守が造られるなど、織豊期の城郭とは異なる革新的なものが認められます。

藤堂高虎は同時期に徳川家康の天下普請に乞われ、各地の築城の縄張りに関与していることから、今治城は徳川系(関ヶ原合戦以降)城郭の雛形と言われています。 築城当時は三重の堀があり、いわゆる総構えの城でありました。城の規模は現在の10倍以上であったと言われています。現存するのは本丸と二の丸、三の丸の城塁と幅約50mの内堀のみで昭和28年に愛媛県指定史跡「今治城跡」に指定されています。

(写真をクリックすると大きくなります)==今治城・天守と山里櫓==
(写真をクリックすると大きくなります)==左側から山里櫓と天守閣==

現在の天守は、昭和55年に市制60周年を記念して再建されました。5層6階の天守には、武具・甲冑・刀剣など今治藩ゆかりの品が展示されています。御金櫓は昭和60年に、山里櫓は平成2年に市制70周年記念事業により再建されました。

さらに、平成16年から19年にかけて、今治城築城・開町400年祭の記念事業として、総鉄板張りの鉄御門及び武具櫓、東多聞櫓、西多聞櫓、東西控塀の一連の建造物並びに明治期に取り壊された桝形石垣が市民の寄付により再建されました。 これにより、築城当時の今治城の勇姿が400年ぶりに再現されました。

===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)==藤堂高虎公銅像==

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藤堂高虎公は、弘治2年(1556年)近江の国に生まれた。 羽柴秀長、豊臣秀吉などに仕えて宇和島・大洲8万石の大名となり、慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦功によって、徳川家康から今治12万石を加増され、伊予半国20万3千石の領主となった。 今治城は、高虎公により慶長9年(1604年)に竣工を見た。三重の堀に海水を引き入れ、舟入りを持つ日本有数の海城である。五層の天守は層塔式で白漆喰が映え、近世城郭のモデルとされた。

築城に合わせて城下に町割りを行い、地名を今張から今治に改め、現代の今治市の原型がつくられた。 築城の名人と称された高虎公は、多くの天下普請の城を築き、慶長13年(1608年)伊勢・伊賀に転封された。 そして大坂の陣のあと、朝廷と幕府間の斡旋役を務めるなど徳川幕藩体制の基礎固めに大きく貢献し、寛永7年(1630年)75年の波乱の生涯を閉じた。

===現地碑文より===
(写真をクリックすると大きくなります)==今治城・南側石垣と内堀==

中央の石垣は南隅櫓跡の石垣です。内堀石垣周囲には犬走りがあります。これは藤堂高虎築城の特徴です。地盤が脆弱な場所に築城する際に、圧力を分散させる為に造られたものです。水面に浮かんでいるようにみえます。

(写真をクリックすると大きくなります)==天守閣・御金櫓==

二の丸跡の東隅に立つ二重櫓です。この御金櫓は平成2年(1990年)に再建されました。 内部は武具や古美術品が展示されています。

(写真をクリックすると大きくなります)==御金櫓・多門櫓・武具櫓==
(写真をクリックすると大きくなります)==二の丸内・多門櫓・武具櫓==

二の丸御殿跡から鉄御門多聞櫓をみます。往時はこの多聞櫓と二の丸御殿の間に仕切り塀があり二の丸が東西に分かれていました。

(写真をクリックすると大きくなります)==二の丸桝形・多門櫓==
(写真をクリックすると大きくなります)==鉄御門==

この 鉄御門 (くろがねごもん)は、二の丸の表門で、巨大な枡形や付随する多聞櫓によって厳重に守られていて、枡形に侵入した敵兵に対しては、門の上部を含め三方向から攻撃できる構造になっています。 平成19年(2007年)に櫓門や多聞櫓などを忠実に再現復元し、内部を公開しています。

(写真をクリックすると大きくなります)==勘兵衛石==

この石は今治城で最大の石で、「縦、約2.4m横、約4.6m奥行約0.6m重さ約16.5トン材質、花崗岩」城主の権威を示すために目立つ場所に据えられた巨石(鏡岩)で、今治城の入り口の正面にあります。石の名前は、今治城の築城奉行と伝わる渡辺勘兵衛に因んだもので、江戸時代には既に「勘兵衛石」と呼ばれていました。

(写真をクリックすると大きくなります)==多門櫓・長塀内側(狭間)==
(写真をクリックすると大きくなります)==今治城・鉄御門と内堀==

左から多聞櫓、中央鉄御門、右隅武具櫓、内堀は幅30間(約60m)もあり二の丸に渡る土橋も長大です。

(写真をクリックすると大きくなります)==二の丸土橋==

この土橋を行くと正面に今治城最大の勘兵衛石が目に入ります。左が多門櫓右側が鉄御門入り口そして武具櫓へ続く。

(写真をクリックすると大きくなります)==今治城案内版==

松尾城跡 (福岡県)2014年10月07日 06時15分34秒

名  称 : 松尾城(まつおじょう) 別 名 : 小石原城

築城年間 :  不明

築城者 : 宝珠山、山城守

城 主 : 黒田(中間)六郎右衛門統胤 (むねたね

形 式 :  山 城

所在地 : 福岡県朝倉郡東峰村小石原字城山

(写真をクリックすると大きくなります)===松尾城跡===

◇◇◇戦国時代、秋月氏の家臣であったと考えられる宝珠山、山城守の居城と伝えられています。慶長五年(1600年)に黒田長政が関ヶ原の戦いの功により、豊前中津から筑前に入国し、黒田家の支配下にはいりました。慶長六年には、領内に六つの端城を設け、松尾城には、黒田(中間)六郎右衛門統胤(むねたね)が城代となりました。その後、松尾城は元和元年(1615)年、幕府の一国一城令により取り壊されました。主郭部は、二段に造成されて、石垣や土塁で周りを囲ってあり、下段の西側には、幅4mほどの虎口があります。主郭内には三間X五間(二棟)と一間X一間(一棟)の礎石建物跡や、東部には櫓台があり、また、主郭斜面には畝状竪堀が北側に13本と南側に11本あり、東側の尾根には堀切が三本造られて、中世と近世初頭の城郭遺構が残る山城です。 ・・・・・・

(写真をクリックすると大きくなります)===松尾城跡説明板===

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松尾城は、戦国時代、秋月氏の家臣であったと考えられる宝珠山、山城守の居城と伝えられています。慶長五年(1600年)に黒田長政が関ヶ原の戦いの功により、豊前中津から筑前に入国し、黒田家の支配下にはいりました。

慶長六年には、領内に六つの端城を設け、松尾城には、黒田(中間)六郎右衛門統胤(むねたね)が城代となりました。その後、松尾城は元和元年(1615)年、幕府の一国一城令により取り壊されました。

主郭部は、二段に造成されて、石垣や土塁で周りを囲ってあり、下段の西側には、幅4mほどの虎口があります。主郭内には三間X五間(二棟)と一間X一間(一棟)の礎石建物跡や、東部には櫓台があり、また、主郭斜面には畝状竪堀が北側に13本と南側に11本あり、東側の尾根には堀切が三本造られて、中世と近世初頭の城郭遺構が残る山城です。

===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)===枡形虎口(出入口)石垣===
(写真をクリックすると大きくなります)===虎口(出入口)主郭下段から===
(写真をクリックすると大きくなります)===松尾城縄張り図===

虎 口⇒城の出入口で、大手門などの城門が備えられた場所です。

畝状竪堀⇒ 斜面に垂直に掘られた竪堀と、竪土塁を連続して配置 した堀です。敵兵の集団行動を阻害する為のものです。

堀 切⇒尾根方向に直行して設けた堀です。敵にとって最も安易な尾根からの進入を防ぐためのものです。

横矢掛け⇒城壁に追った敵兵に対して側面から攻撃するために石垣などを突き出した部分です。

(写真をクリックすると大きくなります)===松尾城櫓台跡===

松尾城は、筑前国の六端城のひとつに属し、豊前国と豊後国との国境近くに位置しています。戦国時代後期には、豊後国の武将大友宗麟が英彦山を占領する目的で、この松尾城や近接する二股城を攻撃するなど、領土を巡り攻防戦を繰り広げていました。

豊前国との国境は、ここより1kmほど東にある「行者杉の森」の中を走っています。両国は元禄13年(1700年)に国境争いを解決するために、行者堂の裏から二股山までの間に両国の境石を各一本背中合わせに建立しています。江戸時代の初め、松尾城の主郭東端に設けられたこの櫓台は、隣国の侵入を監視する役目を担っていたと思われます。

(写真をクリックすると大きくなります)===南側横矢掛け跡===

現在地は、主郭南側城壁に造られた横矢掛け跡です。横矢は、城壁に近ずく敵を側面から攻撃する為に、城壁に突き出しを石垣で造った部分です。主郭北側城壁にも横矢掛けが見ることができます。

日向 佐土原城 (宮崎県)2013年09月05日 07時40分29秒

名  称 : 佐土原城 (さどわらじょう) 別 名 : 田島城・鶴松城

築城年間 :  建武年間

築城者 : 田嶋休祐(たじまきゅうすけ) 

主な改修者: 田嶋氏、伊東義祐、島津忠興

城 主 : 田嶋氏、伊東氏、島津氏

形 式 :  山 城

所在地 : 宮崎県宮崎市佐土原町上田島字追手

(写真をクリックすると大きくなります)===佐土原歴史資料館===


日向 佐土原城 (田嶋城)

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佐土原城は、建武年間に伊東氏の一族、田島休祐によって築かれました。 その後、日向の国の大半を制した伊東義祐の隠居城となり、義祐によって城の規模も拡大されました。

その後 天正5年、伊東氏は島津義久に敗れ豊後に逃れた後、義久の実弟島津家久が城主となりました。 天正15年、豊臣秀吉の九州征伐後も家久が城主となることになったが、豊臣秀長が家久を恐れて密かに毒殺されたと云われている。

 慶長5年、島津豊久(家久の子)が関ヶ原の合戦で戦死して一時天領となったが、慶長8年に島津以久が3万石を領して入封、以後明治まで領しその後。

 寛永14年、4代忠高のときに山上の城郭を廃して山麓に居を移した。 さらに、明治3年に最後の城主忠寛が政庁を広瀬陣屋に移し、佐土原城を廃城としました。

(写真をクリックすると大きくなります)===歴史資料館正面玄関===

佐土原城は、明治に広瀬陣屋へ移る時には堀も埋められ水田・畑となっていましたが、現在の発掘調査の結果、二の丸御殿跡に御殿を一部復元し歴史民族資料館「鶴松館」が建てられています。

また江戸時代初期に山頂部にあった曲輪群は破却されていますが、現在では史跡公園として整備されています。佐土原城は、本丸をはじめ5つの曲輪が階段的に配置された山城の縄張りで、最盛期には三層の天守が存在したことが発掘調査で確認されています。

(写真をクリックすると大きくなります)===二条城を参考にした鶴松館===

宮崎市佐土原歴史資料館は、佐土原城二の丸居館の一部を復元した「鶴松館」(平成5年(1993年)6月開館)・同城御普請所跡に建設されました。この「鶴松館」では、掛け軸・屏風・鎧兜・刀剣といった佐土原島津家の調度品が展示されています。入館料は無料です。

(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸跡書院===

ここは、藩主が日常政務をとる書院の外観を復元しています。内部は、古代から近現代にかけての佐土原の歴史をわかりやすく展示・解説しています。

(写真をクリックすると大きくなります)===築山枯山水式庭園===

この庭は、発掘調査や文献などからも明確な資料は現れていないので、城館を引き立たせる庭、また学習の為の庭と言う考えを主体に現在まで培われた三大日本庭園様式の中から敷地を考慮し、平庭式及び茶庭式庭園を取り入れて整備したものです。

===現地説明版より===

日向 綾 城 (宮崎県)2013年09月01日 06時02分18秒

名  称 : 綾城 (あやじょう) 別 名 : 龍尾城

築城年間 :  元弘年間(1331年~1334年創築)

築城者 : 細川小四郎義門(ほそかわこしろうよしかど) 

   

主な改修者 : 細川氏、伊東氏、島津氏

城 主 :  細川氏、伊東氏、島津氏

形 式 :  平山城

所在地 : 宮崎県東諸県郡綾町大字北俣

(写真をクリックすると大きくなります)===綾城遠望===
(写真をクリックすると大きくなります)===綾城城門===


日向 綾城 (龍尾城)

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綾城のはじまりは、今からおよそ660年前の元弘年間(1331年~1334年)足利尊氏の家臣であった細川小四郎義門がこの地方に下向を命ぜられ、その子義遠が収納使として綾を領有し、綾に山城を構え、綾氏と称したころと考えられています。

綾氏は数代城主としてこの地方を治めていましたが、室町時代八代将軍義政のころ、都於郡城を根拠として日向の国の一大豪族となった伊東氏の家臣となりました。したがって、綾城も伊東氏48城の一つとなり島津氏と戦う伊東方の重要な役割を果たしました。

その後江戸時代の一国一城制度により廃止されるまでの二百七十余年、綾城は日向の国の山城のまもりとして、現在の綾城は昭和60年春日本城郭協会に中世山城の築城について考察を依頼し、数次の調査に基づいた考察により想定され、戦国初期城楼建造物として構築されました。

===現地綾城石碑より===
(写真をクリックすると大きくなります)===冠木門綾城正面===
(写真をクリックすると大きくなります)===綾城左側面望楼===

天守閣には望楼型天守と層塔型天守があります。この綾城天守は望楼(見張り台)から発展したものと考えられています。望楼を入母屋造り(いりもやづくり)の屋根の上に載せ、防御力と攻撃力を高めた建造物が天守の源流であると言われています。

(写真をクリックすると大きくなります)===望楼から観る冠木門と土橋===

この綾城は木造であり、主柱は栂の75cm角材が使用されるなど当時を想わせる重厚な風格があります。綾城の規模は基礎 縦20m 横24m 構造 木造2層物見櫓付き  地上からの高さ19mで、城内は綾の歩みを知ることができる歴史資料館となっています。また 展示品は、多くの国の重要文化財に指定されている名刀を作った刀工、田中國廣作の名刀やその弟子、出羽大掾國路などの名刀の他、鎧甲などが展示されています。

(写真をクリックすると大きくなります)===綾城望楼からの綾の町並み===

日出城(鬼門櫓) (大分県)2013年01月26日 20時45分18秒

(写真をクリックすると大きくなります)===日出城鬼門櫓===
(写真をクリックすると大きくなります)===日出城鬼門櫓===
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この隅櫓は、日出藩木下家の居城である日出城の本丸東北隅に築かれた二層二階櫓で、鬼門櫓とも呼ばれています。慶長六年(1601年)から翌二年にかけての日出城の築城とともに築かれたと考えられますが、史料上の初出は[豊後国日出城絵図(正保城絵図)]で、十七世紀中頃には構築されていたことを知ることができます。

隅櫓の特色は、櫓の東北隅を欠いた特異な構造にあります。当時、東北の方位は、禍を招く「鬼門」として忌み嫌われていたことから、これを除けるために隅を欠いたといわれています。こうした櫓は全国でも大変珍しく、日出城の他に例をみないといわれています。

明治四年(1871年)、廃藩置県により日出藩が廃止されると、明治四年(1875年)には本丸内の天守や櫓が競売に付せられ、次々と取り壊されていきました。しかし隅櫓はこれを免れ、山村羊太郎氏、南喜平氏を経て中村貢氏が所有し、大正10年(1921年)に下仁王(現東仁王)へ移築され、平成二十年(2008年)、中村家より日出町に寄付されました。

===現地説明板より===

(写真をクリックすると大きくなります)===日出城鬼門櫓===

現在では工事中で櫓内部には入れません。一般公開は二月の中旬の予定との事でした。

(写真をクリックすると大きくなります)===日出城鬼門櫓二階屋根===

(写真をクリックすると大きくなります)===日出城鬼門櫓===

隅櫓の特色は、櫓の東北隅を欠いた特異な構造にあります。当時、東北の方位は、禍を招く「鬼門」として忌み嫌われていたことから、これを除けるために隅を欠いたといわれています。こうした櫓は全国でも大変珍しく、日出城の他に例をみないといわれています。

(写真をクリックすると大きくなります)===明治初期の鬼門櫓===
(写真をクリックすると大きくなります)===移築前の鬼門櫓===

薩摩・別府城 (鹿児島県)2012年12月16日 18時34分44秒

(写真をクリックすると大きくなります)===別府城跡・石碑)===

名  称 : 別府城 (べっぷじょう) 別 名 : 加世田城

築城年間 :  治承元年(1177年)

築城者  : 別府 五郎忠明(べっぷごろうただあき)    

主な改修者 : 島津氏

城 主 :  島津氏

形 式 :  平山城

所在地 : 鹿児島県南さつま市加世田武田

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この別府城は、平安時代末期の治承元年(1177年)別府五郎忠明によって築かれました。別府氏は桓武平氏・平良文流で、忠明の時に別府姓を名乗り別府城を居城として代々続きましたが、室町時代の応永27年(1420年)別府氏は島津家第八代当主、島津久豊に降伏して別府城は島津氏の城となり、その後、加世田の地は島津久豊の次男・用久に始まる島津氏庶流(分家)で出水(いずみ)を領した薩州家の所領になりました。

 薩州島津氏は戦国時代の島津氏の三州(薩摩・大隅・日向)領国統一平定戦の前半の過程では、薩州島津氏の島津実久は、島津氏代14代当主・勝久の跡目争いで、伊作(兼)相州島津氏の日新斎島津忠良公や、その子で島津氏第15代当主・島津貴久公と戦い、一族内のライバルでした。忠良公に始まる3代に渡る島津氏国内平定戦の初期の過程で、天文8年(1539年)正月の加世田別府城の戦いで忠良公は実久軍を破って別府城を手に入れ、南薩をほぼ制圧しました。同年8月の市来鶴丸城(市来鶴丸城跡)の戦いにおいて実久の弟・忠辰を討ち取ったことにより実久は降伏し、島津宗家の薩摩国制圧がほぼ完了しました。

現在では尼ヶ城公園として整備されています。別府城跡の石碑が建てられているのみで遺構はまったく残っていません。公園の東側には別府五郎忠明を奉った別府神社があります。

(写真をクリックすると大きくなります)===沿革史石碑===
(写真をクリックすると大きくなります)===明治36年頃に造られた階段===

この階段は当時では148階段あったようですが城跡を切り崩した為現在では74階段となりました。

(写真をクリックすると大きくなります)===尼ヶ城公園===

尼ヶ城公園内にはネズミと落花生を模った滑り台が目に映ります。 この地特産の落花生(ピーナツ)畑が多く有名なようです。そこで遊具もネズミがピーナツをかじっている様子を再現しています。

松山城 (愛媛県)2012年09月10日 09時10分10秒

(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・天守閣)===

名  称 : 松山城 (まつやまじょう) 別 名 : 金亀城 ・ 勝山城

築城年間 :  慶長7年(1602年)

築城者  : 加藤嘉明 (かとうよしあき)   

主な改修者 : 松平勝善

城 主 :  加藤氏 ・ 松平(久松)氏

形 式 :  連立式平山城(安政元年1854年復興)

所在地 : 愛媛県松山市丸之内1 城山公園内

(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・天守閣)===
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松山城の創建者は、加藤嘉明である。嘉明は、永禄6年(1563年)に三河国(愛知県)永良郷賀気村に生まれた。父広明は徳川氏譜代の武士であったが6歳の時に美濃国(岐阜県)で逝去した。 孤児となった嘉明は諸国を流浪し、やがて羽柴秀吉に見出されてその家臣となった。20歳の時賤ヶ岳の合戦に加わり、七本槍の一人として、武勲をたてたことは余りにも有名である。

その後従五位下、左馬助に補せられ、文禄の役の戦功によって伊予国正木(伊予郡松前町)六万石の城主に封ぜられた。 その後慶長の役(1597年)においても活躍し、十万石に加増され、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに徳川家康に従軍し、その戦功が認められて二十万石となった。 そこで嘉明は同7年(1602年)に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を、その周辺部に城下町を築くため、足立重信を普請奉行に命じて工事に着手した。

翌8年(1603年)10月に嘉明は、家臣および正木の住民とともに居を新城下に移すこととなり、初めて松山という名称が公けにされ、その後も工事は継続された。 当時の天守閣は五層で偉観を誇っていた。嘉明は松山にあること25年、寛永4年(1627年)に会津へ移った。 その後へ蒲生氏郷(がもううじさと)の孫、忠知が出羽国(山形県)上ノ山城から入国し二之丸の造営を完成した。 在城僅か7年のち寛永11年(1634年)8月参勤交代の途中京都で病没し、嗣子がなかったので断絶した。

その後、寛永12年(1635年)7月伊勢国(三重県)桑名城主松平定行が松山城主15万石に封ぜられて以来世襲して、明治維新に至った。 なお天守閣は、寛永19年(1642年)に三層に改築されたが、天明4年(1784年)落雷で焼失した。 文政3年(1820年)から再建工事を企画し、35年の歳月を経て、安政元年(1854年)に復興した。これが現在の天守閣である。 標高132メートルの勝山山頂に本丸を置き、中腹に二之丸、山麓に三之丸(堀之内)を置いた。広大な規模を持ち、姫路城、和歌山城とともに典型的な連立式平山城である。

===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・太鼓櫓の石垣)===

太鼓櫓は太鼓櫓から巽(たつみ)櫓までは、大手面に対する連続した本丸防衛ラインを構築する一連の建物群となっています。本丸の南西に位置する太鼓櫓は大手方面の眺めのよいところに建てられており、戦の合図のための太鼓が置かれたことからこの名が残っています。

(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・戸無門下の石垣)===
(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・本丸筒井門・隠門下の石垣)===
(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・大手門跡の石垣)===
(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・馬具櫓後方は天守群)===

手前から馬具櫓・後方右から天守閣・小天守・南隅櫓

(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・小天守)===

紫竹門付近から小天守を見る 。右側より小天守左側は南隅櫓

小天守閣は追手方面を防衛、からめ手方面を側防し、二ノ丸・三ノ丸方面を監視できる位置にあります。小天守閣の大棟には両端に瓦のしゃちほこがおかれており、その威厳を示しています。

(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・乾門東続櫓===

乾門内桝形から見る乾櫓古町口登城道が本丸に達する地点に設けられた、搦手(からめて:裏側)方面の防備のための2重の隅櫓である乾(いぬい)櫓は、窓は格子・突上げ構造で、腰袴式ではなく出窓式の石落しが設けられている。

(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・野原櫓===
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この櫓は、乾櫓(いぬいやぐら)の東の本丸石垣に臨んで建てられ、北側搦手(からめて)の山林に対応する2層櫓で、本丸西北を防備するための櫓である。屋根は入母屋造、本瓦葺。軒は一重、軒裏は波形漆喰塗籠(しっくいぬりごめ)である。平面的には桁行5間、梁間3間(使用尺度は6尺5寸間)の1階の大入母屋屋根の中ほど上に、2間半角の2階をのせており、通柱は見られない。これは城郭建築が、大屋根上の物見櫓から発達したとする天守望楼起源説の名残を示すものとして注目される。  この櫓は騎馬櫓とも呼ばれ、加藤嘉明が慶長年間(1596年~1614年)に築城した当時に新しく建築した建物と伝えられる。本城最古の建物で、豪放な木割り、礫(れき)詰めの太鼓壁、化粧屋根裏などの構造と、石落し・狭間(さま)の備えを含め、築城当初の面影をよく留める貴重な建物である。

(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・北隅櫓===

北隅櫓は小天守北ノ櫓とか申酉小天守とも呼ばれ、大天守に次ぐ格式をもつ櫓です。十間廊下は天守の搦手(裏手)にあたる西側の乾門方面を防衛する重要な櫓であって、北隅櫓と南隅櫓を連結する通路でもあります。桁行が10間あることからこの名がつけられています。

(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・南隅櫓===
(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・現在の乾門(いぬいもん)===
(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・焼失前の乾門===

乾門(いぬいもん)搦手(からめて)のなかで最も重要な構えを持つ脇門附きの櫓門である。 慶長年間築城の際正木城(伊豆郡松前町)から移建されたといわれる。 昭和10年国宝に指定されたが同20年7月に戦災のため焼失したので同57年11月に古い資料に基づいて復元された。

===(現地説明板より)===

今治城 (愛媛県)2012年08月30日 04時33分45秒

(写真をクリックすると大きくなります)===今治城・天守閣===

名  称 : 今治城 (いまばりじょう) 別 名 : 吹上城 ・ 吹揚城

築城年間 : 慶長7年(1602年)

築城者  :藤堂高虎 (とうどうたかとら)   

城 主 :  藤堂氏 ・ 松平(久松)氏

形 式 :  輪郭式平城(海城)

所在地 : 愛媛県今治市通町3-1-3

(写真をクリックすると大きくなります)===今治城天守閣と多聞櫓===
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今治城は、築城の名手、藤堂高虎により慶長7年(1602年)に着工し同9年(1604年)に完成しました。堀に海水を引き入れる日本三大海城の一つで大規模な近世の平城でもあります。また日本で初めて層塔式天守が造られるなど、織豊期の城郭とは異なる革新的なものが認められます。

藤堂高虎は同時期に徳川家康の天下普請に乞われ、各地の築城の縄張りに関与していることから、今治城は徳川系(関ヶ原合戦以降)城郭の雛形と言われています。 築城当時は三重の堀があり、いわゆる総構えの城でありました。城の規模は現在の10倍以上であったと言われています。現存するのは本丸と二の丸、三の丸の城塁と幅約50mの内堀のみで昭和28年に愛媛県指定史跡「今治城跡」に指定されています。

現在の天守は、昭和55年に市制60周年を記念して再建されました。5層6階の天守には、武具・甲冑・刀剣など今治藩ゆかりの品が展示されています。御金櫓は昭和60年に、山里櫓は平成2年に市制70周年記念事業により再建されました。

さらに、平成16年から19年にかけて、今治城築城・開町400年祭の記念事業として、総鉄板張りの鉄御門及び武具櫓、東多聞櫓、西多聞櫓、東西控塀の一連の建造物並びに明治期に取り壊された桝形石垣が市民の寄付により再建されました。 これにより、築城当時の今治城の勇姿が400年ぶりに再現されました。

===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)===今治城===
(写真をクリックすると大きくなります)===今治城・山里櫓と山里門===

平成2年の市政70周年記念事業に復元された山里櫓と山里門(二の丸裏門)です。

(写真をクリックすると大きくなります)===今治城・藤堂高虎公像===

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藤堂高虎公は、弘治2年(1556年)近江の国に生まれた。 羽柴秀長、豊臣秀吉などに仕えて宇和島・大洲8万石の大名となり、慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦功によって、徳川家康から今治12万石を加増され、伊予半国20万3千石の領主となった。 今治城は、高虎公により慶長9年(1604年)に竣工を見た。三重の堀に海水を引き入れ、舟入りを持つ日本有数の海城である。五層の天守は層塔式で白漆喰が映え、近世城郭のモデルとされた。 築城に合わせて城下に町割りを行い、地名を今張から今治に改め、現代の今治市の原型がつくられた。 築城の名人と称された高虎公は、多くの天下普請の城を築き、慶長13年(1608年)伊勢・伊賀に転封された。 そして大坂の陣のあと、朝廷と幕府間の斡旋役を務めるなど徳川幕藩体制の基礎固めに大きく貢献し、寛永7年(1630年)75年の波乱の生涯を閉じた。

===現地碑文より===
(写真をクリックすると大きくなります)===今治城===

左側から山里櫓、山里門、は二の丸の裏門です。そして天守閣です。

(写真をクリックすると大きくなります)===今治城・南側石垣と内堀===

中央の石垣は南隅櫓跡の石垣です。内堀石垣周囲には犬走りがあります。これは藤堂高虎築城の特徴です。地盤が脆弱な場所に築城する際に、圧力を分散させる為に造られたそうです。水面に浮かんでいるようにみえます。

(写真をクリックすると大きくなります)===今治城・御金櫓と内堀===

東からみた今治城、中央は御金櫓、その後方に模擬天守。広大な内堀です。

(写真をクリックすると大きくなります)===今治城・二の丸多聞櫓===

二の丸御殿跡から鉄御門多聞をみます。往時はこの多聞櫓と二の丸御殿の間に仕切り塀があり二の丸が東西に分かれていました。

(写真をクリックすると大きくなります)===今治城・二の丸多聞櫓枡形===
(写真をクリックすると大きくなります)===今治城・鉄御門と内堀===

左から多聞櫓、中央鉄御門、右隅武具櫓、内堀は幅30間(約60m)もあり二の丸に渡る土橋も長大です。

(写真をクリックすると大きくなります)===今治城・土橋と鉄御門===

この土橋を真っ直ぐに行くと、平成16年から19年にかけて復元された鉄門と枡形多聞櫓です。往時はここに一の門として高麗門がありました。明治期に取り壊された枡形石垣も同時に復元されています。