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西郷隆盛宿陣跡 (宮崎県)2014年08月27日 11時20分59秒


西郷隆盛宿陣跡

所在地 ⇒ 宮崎県延岡市北川町長井6727

名 称 ⇒ 西郷隆盛宿陣跡資料館(南洲翁寓居跡)

県指定 (史跡)⇒ 昭和8年12月5日南洲翁寓居跡指定

(写真をクリックすると大きくなります)===西郷隆盛宿陣跡資料館===

南洲翁寓居跡(旧児玉熊四郎宅)は西南の役最後となる延岡、和田越の決戦に敗れた西郷隆盛が明治10年8月15日から17日の夜の可愛嶽(えのたけ突破まで宿陣したところである。ここで解散布告を出し、最後の軍議を重ねており重要書類や当時日本で唯一一つしかなかった陸軍大将の軍服も焼いたとされている。

昭和8年12月5日には史跡として県指定を受けている。資料館には当時西郷隆盛が愛用した硯・船型枕などの遺品の他、種々の戦争資料が展示されています。延岡市北川町内にはこの他、陸地(かちじ)、矢ヶ内、宗太郎峠など数多くの激戦地跡や宿陣跡(吉祥寺・旧小野彦治宅)野戦病院跡(成就寺)、中津大四郎(滝口隊長)、小倉処平(飫肥隊)の自刃の地など多くの史跡が点在しています。

(写真をクリックすると大きくなります)
(写真をクリックすると大きくなります)===可愛嶽(えのたけ)突破===

⇔ (click..play)可愛嶽突破・音声説明

1877年(明治10年)8月15日「和田越の戦」に敗れた西郷軍は、北川町俵野の児玉熊四郎宅に窮した。同16日には党薩諸隊に対し、解散令を出した。同17日の軍議は降伏か、決戦か、突破かの選択がせまられた。午後4時、西郷隆盛は「全軍まず進んで三田井に出、然る後その方向を決するも遅からず」との決意を表明した。

午後10時、可愛嶽突囲戦(えのたけとついせん)の隊編成が発表された。前軍司令 ・河野主一郎 ・辺見十郎太・中軍司令・桐野利秋・村田新八・後軍司令・中島健彦・貴島 清・総勢約600人が可愛嶽の頂上を目指した。

18日午前4時半、英式ラッパの一声で総攻撃が開始された。ふいをつかれた官軍は総くずれとなり、第一旅団、野津少将は日の谷へ、第二旅団、三好少将は屋敷野の前衛隊へ逃れた。可愛嶽突破に成功した西郷軍は、西に進み、和久塚地蔵谷で一夜を明かし、上祝子でさらに一夜を明かし、20日に鹿川を越え、鹿児島への敗走の途についた。

===現地説明版より===
(写真をクリックすると大きくなります)===可愛嶽(えのたけ)突破路===
(写真をクリックすると大きくなります)===最後の軍議の様子の再現===

明治10年8月15日の和田越え決戦に敗れた薩軍幹部は15日~17日と西郷隆盛の宿である。ここ児玉熊四郎宅に集まり、最後の軍議を開きました。周囲を完全に官軍に囲まれた状況下で、この地で決戦か降伏か、また、どの方向に向かう突囲かで激論となりましたが、西郷が「まず可愛嶽を突囲し、三田井に出る。それからのことはまた考えれば良い」と決断をくだしました。この場面は、その時の様子を再現したものです。

(写真をクリックすると大きくなります)===最後の軍議の様子の再現===

⇔ (click..play)最後の軍議の様子音声説明

(写真をクリックすると大きくなります)===最後の軍議の様子の再現===
(写真をクリックすると大きくなります)===軍服焼却の地===

薩軍の最期が近づいたことを悟ったのか、西郷はここで当時日本に一つしかなかった陸軍大将の軍服や重要書類を焼いたとされている。

沈堕の滝 (大分県)2011年11月27日 06時05分06秒

(写真をクリックすると大きくなります)===沈堕の滝===

名  称:沈堕(ちんだ)の滝

所在地:大分県豊後大野市(旧大野町)清川町臼尾

(写真をクリックすると大きくなります)===沈堕の滝説明板===

(写真をクリックすると大きくなります)===鎮田瀑図===

これが雪舟が訪れ描いた鎮田瀑図である。雪舟が明国で会得した山水画の真髄を結集した作品といわれています。

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大分県の母なる川「大野川」は、源を遠く宮崎県五ヶ所(高千穂町)に発し、熊本県阿蘇郡から大分県直入郡をへて、この大野の地に至っている。名瀑「沈堕の滝」は、大野川本流にかかる幅百余メートル、高さ二十メートルの懸崖を落下する雄滝と、支流平井川かかる幅四メートル、高さ十八メートルの雌滝の二瀑からなり、その壮大な景観は「豊後のナイアガラ」とも呼ばれている。昔は遠く関東まで知られ多くの人々に絶賛され、なかでも室町時代のかの有名な「画聖」雪舟が訪れ描いたのが「鎮田瀑図」である。雪舟が明国で会得した山水画の真髄を結集した作品といわれている。当時の画家は寺院や邸宅の部屋に居座しながら描いたものであるが、雪舟は自然のありのままを描いており、数々の名作もこの作品を起点にされたという。この名瀑布の莫大なエネルギーは、明治時代末期に沈堕発電所の建設により電力に変えられた。この電力は、別府大分間の電車を走らせ、家庭用電力はもとより大分県の産業開発の原動力となり、文明開化の糸口となったのである。雄滝と雌滝の間にある西洋技術を取り入れた石造建築物がその発電所跡である。また、この沈堕の滝には古くから歴史的史実や竜神にまつわる伝説、言伝えも数多く残っている。

(写真をクリックすると大きくなります)===沈堕の滝===
(写真をクリックすると大きくなります)===沈堕の滝(雌滝)===
平井川の支流幅四メートル、高さ十八メートルから大野川に注ぎこまれています。
(写真をクリックすると大きくなります)===沈堕の滝(雌滝)===
(写真をクリックすると大きくなります)===沈堕の滝(雌滝)===
(写真をクリックすると大きくなります)===大野川に架かる大野橋===
(写真をクリックすると大きくなります)===旧沈堕発電所入り口石段===
(写真をクリックすると大きくなります)===旧沈堕発電所入り口跡===
(写真をクリックすると大きくなります)===旧沈堕発電所跡===

1909年(明治42年)に豊後電気鉄道株式会社によって別府<-->大分間の電車を運行するために沈堕発電所が建設されました。雄滝のすぐ上流に取水用の堰が設けられ、1923年(大正12年)には堰がかさ上げされたため水量が減少して往時の景観が損なわれました。しかし、1996年(平成8年)からの堰堤強化工事に伴い、常に一定量の放流が行われるようになり、かつての壮大な景観を取り戻しました。西洋技術を取り入れた石造建築物の沈堕発電所跡地です。

朝倉三連水車 (福岡県)2011年11月08日 06時34分09秒

(写真をクリックすると大きくなります)===朝倉菱野三連水車===

所在地:福岡県朝倉郡朝倉町菱野

◇◇◇歴史・由来◇◇◇
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当時、絶え間なく押し寄せる筑後川の洪水や、かんばつ、ききん等天災異変の中に幾多の犠牲と死闘を繰り返しつづけてきた祖先が新田開発のため、寛文3年(1663年)筑後川から水を取り入れることにより堀川を造った。 更に60年後の享保7年(1722年)岩盤を切り貫き現在の取入口を新設した。 しかし、山側の土地は位置が高いため、堀川の恩恵を受けることができなかった。そのためにこの土地では自動回転式の水車が設置されたのである。 三連水車は寛政元年(1789年)に設置されており、三島、九重(ひさしげ)の二連水車も同じく宝暦のころに設置されたものと思われる。 毎年6月中旬から10月中旬まで作動し、かんがい面積は、3基で35ヘクタールにもおよぶ。

(写真をクリックすると大きくなります)===堀川用水路===

寛政2年(1790年)当時の庄屋古賀百江を中心にして、堀川の水量を増加させかんがい面積を増やすために筑後川(堀川取水口上部)に山田堰を造った。 表面積25.370㎡で、今日もなお昔の面影をとどめ堀川への導水を容易にし、670ヘクタールの美田をうるおしている。

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享保7年(1722年)安定した水量を確保するために旧取水口を現在の位置に移した。内部は巨大な岩をノミでくり貫いたトンネルになっている。 当時、長さ11間(約20m)内法5尺(約1.5m)四方で新設され、その後数回の改修が行われ内法10尺(約3.0m)四方に拡げられ、現在に至っている。

寛政元年(1789年)もともと二連式だったものに一挺加えることで現在の形態になった。 車の直径は上部4.76m、中部4.30m、下部3.98mで、この大きさは、水車の回転数、水田の高さ、揚水の量と密接な関りをもち、一日当り7.892tを揚水し13.5ヘクタールの水田をかんがいしている。

三連水車の里あさくら(水車の駅)
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鋼製三連水車朝倉を代表する文化的遺産として人々の生活を潤している三連水車は、寛政元年(1789年)に設置されました。その当時、洪水、干ばつ、そして飢饉といった天災異変のなか、新田開発のために堀川用水路を造った祭、その恩恵をうけることができるようにと自動回転式の水車が設置されたのです。現在では、本公園より約450m下流に菱野の三連水車、それより約130m下流に三島の二連水車の水車群が、毎年灌漑期の6月中旬から10月中旬まで稼動しています。この鋼製の三連水車は、水車群を代表する菱野の三連水車と同規模のステンレス製であり、モーター駆動方式の水車です。堀川用水路から導水管により本公園内の水路を経由してまた堀川用水路に流出させています。

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壇ノ浦古戦場址(山口県下関)2010年06月09日 23時07分02秒

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===壇ノ浦古戦場址===
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写真をクリックすると大きくなります。◇日本史の節目を刻む関門海峡◇  西へ東へと1日に4回、その流れの向きをかえる関門海峡。せまい所では、両岸の幅は700mあまりで、潮流の速度は、最高で約10ノット(時速18km)にもなります。また、瀬戸内海の入口に位置する地理的条件から、昔も今も交通の要衝で、日本の歴史の節目を刻む舞台となっています。 寿永4年(1185年)3月24日、平知盛を大将にした平家と、源義経が率いる源氏が、この壇ノ浦を舞台に合戦をした。当初は、平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると、源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められた。最期を覚悟した知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え8歳の安徳天皇を抱いて入水。知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していった。なお、この戦いにおいて義経は、平教経(のりつね)の攻撃を、船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を見せたといわれている。 ===現地石碑説明板より===

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◇日本史の節目を刻む関門海峡◇  西へ東へと1日に4回、その流れの向きをかえる関門海峡。せまい所では、両岸の幅は700mあまりで、潮流の速度は、最高で約10ノット(時速18km)にもなります。また、瀬戸内海の入口に位置する地理的条件から、昔も今も交通の要衝で、日本の歴史の節目を刻む舞台となっています。 寿永4年(1185年)3月24日、平知盛を大将にした平家と、源義経が率いる源氏が、この壇ノ浦を舞台に合戦をした。当初は、平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると、源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められた。最期を覚悟した知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え8歳の安徳天皇を抱いて入水。知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していった。なお、この戦いにおいて義経は、平教経(のりつね)の攻撃を、船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を見せたといわれている。


===現地石碑説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===源義経 彫刻像===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===平知盛 彫刻像===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===二位尼辞世===
写真左横にある石碑は安徳天皇御入水之処が記されています。
今ぞ知る みもすそ川の 御なかれ 波の下にも みやこありとは
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===天保長州砲===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===天保製長州砲===
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写真をクリックすると大きくなります。 幕末、関門海峡での6次にわたる攘夷戦は、元治元年(1864年)8月、 長州藩兵と英・仏・蘭・米4カ国連合艦隊との交戦をもって終結したが、 同時にこれは明治維新の具体的始動につながった。この歴史的事件 で下関海岸砲台に装備された長州藩の青銅砲は、すべて戦利品とし て外国に運び去られ国内から姿をけしていた。 1966年春、東欧中の作家古川薫氏がパリ・アンヴァリット軍事博物館 に保管されている攘夷戦長州砲を発見、以来返還運動が進められた が実現困難のところ、郷土出身の外務大臣安倍晋太郎氏の努力と フランス政府の好意によって1984年6月、貸与の形式で里帰りを見る に至った。この機会に下関東ロータリークラブでは、フランス政府の了 解を得、創立20周年記念行事として、これを原寸大かつ精密に模造し 下関市に寄贈した。 同長州砲は天保15年(1844年)萩藩の鋳砲家郡司喜平治信安の手に なるもので、幕末日本人の対外危機感を象徴する歴史的逸品である。 鎖国に眠っていた日本史がようやく世界史に組み入れられる瞬間を 目撃したこの物言わぬ証人を、海峡のほとりへ永久に安置しようとする のは、歴史に富むこの地の発展と世界平和を祈念する趣旨にほかなら ない。

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幕末、関門海峡での6次にわたる攘夷戦は、元治元年(1864年)8月、長州藩兵と英・仏・蘭・米4カ国連合艦隊との交戦をもって終結したが、同時にこれは明治維新の具体的始動につながった。この歴史的事件で下関海岸砲台に装備された長州藩の青銅砲は、すべて戦利品とし て外国に運び去られ国内から姿をけしていた。1966年春、東欧中の作家古川薫氏がパリ・アンヴァリット軍事博物館に保管されている攘夷戦長州砲を発見、以来返還運動が進められたが実現困難のところ、郷土出身の外務大臣安倍晋太郎氏の努力とフランス政府の好意によって1984年6月、貸与の形式で里帰りを見るに至った。この機会に下関東ロータリークラブでは、フランス政府の了解を得、創立20周年記念行事として、これを原寸大かつ精密に模造し下関市に寄贈した。同長州砲は天保15年(1844年)萩藩の鋳砲家郡司喜平治信安の手になるもので、幕末日本人の対外危機感を象徴する歴史的逸品である。 鎖国に眠っていた日本史がようやく世界史に組み入れられる瞬間を 目撃したこの物言わぬ証人を、海峡のほとりへ永久に安置しようとする のは、歴史に富むこの地の発展と世界平和を祈念する趣旨にほかなら ない。


===現地天保製長州砲説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===長州砲(八十斤加農砲)===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===長州砲(八十斤加農砲)===
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写真をクリックすると大きくなります。文久3年(1863年)5月から6月にかけて、長州藩は関門海峡を通る外国船を5回にわたって砲撃しました(攘夷戦)翌年8月、アメリカ・ イギリス・フランス・オランダの四国連合艦隊17隻が報復のため下関にやってきました。海峡の最もせまい所に築かれたこの壇之浦砲台は、前田砲台と共に重要な役割を果たしましたが、連合艦隊に大敗し、すべての砲台が占領・破壊されました。外国の進んだ軍備にめざめた長州藩は、開国・倒幕へと転換し、明治維新を実現する言動力となりました。

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文久3年(1863年)5月から6月にかけて、長州藩は関門海峡を通る 外国船を5回にわたって砲撃しました(攘夷戦)翌年8月、アメリカ・ イギリス・フランス・オランダの四国連合艦隊17隻が報復のため下関にやってきました。海峡の最もせまい所に築かれたこの壇之浦砲台は、前田砲台と共に重要な役割を果たしましたが、連合艦隊に大敗し、すべての砲台が占領・破壊されました。外国の進んだ軍備にめざめた長州藩は、開国・倒幕へと転換し、明治維新を実現する言動力となりました。

的山荘(てきざんそう)(大分)2010年04月24日 05時42分06秒

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===的山荘説明板===
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写真をクリックすると大きくなります。 ◇◇◇的 山 荘◇◇◇的山荘は、大正四年当時馬上金山(山香町)を経営していた成清博愛翁が別荘として建てられて以来、保存管理されてきた豪華な建物と庭園である。敷地面積約三千六百七十坪、建坪面積約二百四十七坪、玄関の式台や、床、棚、書院などの座敷飾りのほか、各部屋を仕切る欄間彫刻、また別府湾や高崎山を借景とした庭園など、江戸時代以来の伝統的建築手法を継承している。近代和風建築を代表する貴重なものである。現在は、城下かれいの料亭として、全国に名が知られている。町有形文化財「建造物」平成三年十二月二十五日指定

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的山荘は、大正四年当時馬上金山(山香町)を経営していた成清博愛翁が別荘として建てられて以来、保存管理されてきた豪華な建物と庭園である。敷地面積約三千六百七十坪、建坪面積約二百四十七坪、玄関の式台や、床、棚、書院などの座敷飾りのほか、各部屋を仕切る欄間彫刻、また別府湾や高崎山を借景とした庭園など、江戸時代以来の伝統的建築手法を継承している。近代和風建築を代表する貴重なものである。現在は、城下かれいの料亭として、全国に名が知られている。町有形文化財「建造物」平成三年十二月二十五日指定


====現地説明板より==== ◇所在地=大分県速見郡日出町三の丸
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===的山荘日本庭園===
紅葉の樹木は平成二年十月二十七日に秋篠宮殿下・・妃殿下が当地に御訪問された時の記念植樹です。
写真をクリックすると大きくなります)800x600===的山荘===
写真をクリックすると大きくなります)800x600===的山荘===
写真をクリックすると大きくなります)800x600===的山荘玄関===
(写真をクリックすると大きくなります)824x522===的山荘玄関拡大===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===的山荘石畳道===

石坂石畳道wmv(大分県日田)2010年03月21日 10時27分36秒

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石坂石畳道(大分県日田)2010年03月19日 17時44分39秒

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===石坂石畳道===
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◇◇◇大字花月字坂ノ下(市ノ瀬町)から字石坂を経て字坂の辻(現伏木町)に至る間を山腹の斜面を経って全長約1260mにわたる石畳の坂道の登り口です。◇◇◇

大字花月字坂ノ下(市ノ瀬町)から字石坂を経て字坂の辻(現伏木町)に至る間を山腹の斜面を経って全長約1260mにわたる石畳の坂道の登り口です。
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===石坂石畳道説明板===
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◇◇◇この石坂石畳道、この道は市ノ瀬から伏木峠の間の急坂にひかれた石畳の道で、全部で十六箇所の曲折をつけながら1.260メートルの距離を上って行く。約2.2メートルの道幅のうち、中央部分には堅い切石を敷き、その左右には山の自然石を敷く。勾配は七度から十度で、急な所は馬や牛の歩行を考えて二、三歩進んでは一段上るようにゆるい段差をつけるなどの工夫がされている。この石坂は、日田から中津へ通じる主要道路の一つで、当時は交通も頻繁であった。しかし、岩や石の露出した難路であったため、嘉永三年(1850年)隈町の掛屋、京屋作兵衛(山田常良)は、周防(山口県)の石工に依頼し築道を行なわせ、通行人の便宜をはかった。道路完成の翌年には市ノ瀬村の庄屋の依頼で、広瀬淡窓が石坂改修の由来を漢文で撰し、隈町森昌明の書で記念碑が建てられた。これが国道のすぐ上にある「石坂修冶碑」である。と、このように石坂石畳説明板に記されています。◇◇◇

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◇◇◇石坂石畳道◇◇◇

この道は市ノ瀬から伏木峠の間の急坂にひかれた石畳の道で、全部で十六箇所の曲折をつけながら1.260メートルの距離を上って行く。約2.2メートルの道幅のうち、中央部分には堅い切石を敷き、その左右には山の自然石を敷く。勾配は七度から十度で、急な所は馬や牛の歩行を考えて二、三歩進んでは一段上るようにゆるい段差をつけるなどの工夫がされている。この石坂は、日田から中津へ通じる主要道路の一つで、当時は交通も頻繁であった。しかし、岩や石の露出した難路であったため、嘉永三年(1850年)隈町の掛屋、京屋作兵衛(山田常良)は、周防(山口県)の石工に依頼し築道を行なわせ、通行人の便宜をはかった。道路完成の翌年には市ノ瀬村の庄屋の依頼で、広瀬淡窓が石坂改修の由来を漢文で撰し、隈町森昌明の書で記念碑が建てられた。これが国道のすぐ上にある「石坂修冶碑」である。

===石坂石畳道説明板より===


(写真をクリックすると大きくなります)800x600===石坂石畳道===
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◇◇◇約2.2メートルの道幅のうち、中央部分には堅い切石を敷き、その左右には山の自然石を敷く。勾配は七度から十度で、急な所は馬や牛の歩行を考えて二、三歩進んでは一段上るようにゆるい段差をつけるなどの工夫がされています。◇◇◇

約2.2メートルの道幅のうち、中央部分には堅い切石を敷き、その左右には山の自然石を敷く。勾配は七度から十度で、急な所は馬や牛の歩行を考えて二、三歩進んでは一段上るようにゆるい段差をつけるなどの工夫がされています。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===石坂石畳道===
この石坂畳道の勾配は約七度から十度といわれています。次の曲折部の所まで続きます。
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===石坂石畳道===
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◇◇◇約十六箇所の曲折をつけ、道幅は約2.16mあり中央部分には約96センチのやや堅い切石が敷かれその左右の外側にはそれぞれ60センチ幅でこの山の自然石を敷きつめています。また石坂石畳道に接する石垣にはこの山の自然石を使用しています。◇◇◇

約十六箇所の曲折をつけ、道幅は約2.16mあり中央部分には約96センチのやや堅い切石が敷かれその左右の外側にはそれぞれ60センチ幅でこの山の自然石を敷きつめています。また石坂石畳道に接する石垣にはこの山の自然石を使用しています。


◇所在地◇大分県日田市大字花月字坂ノ下

紅葉の功山寺 (下関) (wmv)2009年12月04日 19時48分26秒

(click..play) (画像をダブルクリックすると大きく見られます。)===紅葉の功山寺===
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◇◇◇紅葉の功山寺◇◇◇

紅葉の功山寺 (下関)2009年12月01日 09時18分37秒

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===功山寺山門===
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写真をクリックすると大きくなります。 この壮大な二重櫓造りの功山寺山門は、安永二年(1773年)長府藩主十代、毛利匡芳の命により建立(再建)されたものです。山門(山門)とは、本堂へ入るのに通らねばならない門、三解脱門(空・無相・無作)にたとえ、その略からといわれています。禅僧の門にみられる三間三戸二重門。二階楼上に釈迦・十六羅漢を置くのが普通ですが、この櫓の中には市指定文化財(彫刻)の二十八部衆立像が、国宝の仏殿の中から移されて安置されています。建築様式の特徴として、土間に自然石の礎石(礎盤)を並べ、本柱四本と控柱八本で支えられた重厚な門、入母屋造り、本瓦で葺かれた屋根は見事な反りを見せています。また、櫓を支えている太い十二本の柱は全て円柱で柱の上部を僅かに円く削りこみ、その下部先端は急に細めた、粽型となっています。山門の建築資材は、これまでに度々修理が施されていますが、その箇所を除いて、すべて欅の素木を用いて建てられています。木鼻等の彫刻物、および組物を含め簡素な中にも重厚さを秘めた功山寺の山門は、この時代の禅宗洋式を今に伝える貴重な文化財です。

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◇◇◇功山寺山門◇◇◇
この壮大な二重櫓造りの功山寺山門は、安永二年(1773年)長府藩主十代、毛利匡芳の命により建立(再建)されたものです。山門(山門)とは、本堂へ入るのに通らねばならない門、三解脱門(空・無相・無作)にたとえ、その略からといわれています。禅僧の門にみられる三間三戸二重門。二階楼上に釈迦・十六羅漢を置くのが普通ですが、この櫓の中には市指定文化財(彫刻)の二十八部衆立像が、国宝の仏殿の中から移されて安置されています。建築様式の特徴として、土間に自然石の礎石(礎盤)を並べ、本柱四本と控柱八本で支えられた重厚な門、入母屋造り、本瓦で葺かれた屋根は見事な反りを見せています。また、櫓を支えている太い十二本の柱は全て円柱で柱の上部を僅かに円く削りこみ、その下部先端は急に細めた、粽型となっています。山門の建築資材は、これまでに度々修理が施されていますが、その箇所を除いて、すべて欅の素木を用いて建てられています。木鼻等の彫刻物、および組物を含め簡素な中にも重厚さを秘めた功山寺の山門は、この時代の禅宗洋式を今に伝える貴重な文化財です。
===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===功山寺仏殿===
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写真をクリックすると大きくなります。 この功山寺仏殿は鎌倉時代末期の唐様(禅宗様)建築様式の典型的な建造物です。床は四半瓦敷、礎石と柱の間に木製の礎盤を入れ柱は上下部分が細く粽型になっています。見事な曲線美を見せる檜皮葺、入母屋造りの屋根を支えている化粧棰は天井中央より放射状に配置され、扇棰とも呼ばれています。また、二重屋根の内部の組み上がりの高さが異なった箇所を補うために海老虹梁(梁と同意)が用いられています。さらに前面両角には釣鐘型の特徴をもった花頭窓を有するなど、 我が国最古の禅寺洋式がよく残されており、鎌倉の円覚寺舎利殿同様、寺院建築史上、貴重な建築物です。この仏殿は、内陣柱上部に「此堂元應二年卯月五日柱立」の墨書があることから、西暦1320年に建てられたものとみられています。功山寺はもと臨済宗・長福寺と呼ばれていましたが、毛利秀元により曹洞宗・笑山寺と改称、さらに慶安3年 (1650年)秀元の没後、戒名(功山玄譽大居士)をもって功山寺と改称しています。

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◇◇◇功山寺仏殿◇◇◇
この功山寺仏殿は鎌倉時代末期の唐様(禅宗様)建築様式の典型的な建造物です。床は四半瓦敷、礎石と柱の間に木製の礎盤を入れ柱は上下部分が細く粽型になっています。見事な曲線美を見せる檜皮葺、入母屋造りの屋根を支えている化粧棰は天井中央より放射状に配置され、扇棰とも呼ばれています。また、二重屋根の内部の組み上がりの高さが異なった箇所を補うために海老虹梁(梁と同意)が用いられています。さらに前面両角には釣鐘型の特徴をもった花頭窓を有するなど、 我が国最古の禅寺洋式がよく残されており、鎌倉の円覚寺舎利殿同様、寺院建築史上、貴重な建築物です。この仏殿は、内陣柱上部に「此堂元應二年卯月五日柱立」の墨書があることから、西暦1320年に建てられたものとみられています。功山寺はもと臨済宗・長福寺と呼ばれていましたが、毛利秀元により曹洞宗・笑山寺と改称、さらに慶安3年 (1650年)秀元の没後、戒名(功山玄譽大居士)をもって功山寺と改称しています。
===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===功山寺境内===
(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===功山寺境内===

(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===五重石塔===
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(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===長府博物館石段===
(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===万骨塔===
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写真をクリックすると大きくなります。 この万骨塔は昭和八年(1933年)十月、当地に「長門尊攘堂」を創設した桂弥一が、日本各地から石を取り寄せて建設した慰霊塔で、有名・無名の勤王の士を、当時の府県毎に祀っていた。なお、名称は「一将功成って万骨枯るに由来する。

◇◇◇万 骨 塔◇◇◇
昭和八年(1933年)十月、当地に「長門尊攘堂」を創設した桂弥一が、日本各地から石を取り寄せて建設した慰霊塔で、有名・無名の勤王の士を、当時の府県毎に祀っていた。なお、名称は「一将功成って万骨枯るに由来する。

萩 反射炉 ③2009年11月17日 10時35分22秒

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写真をクリックすると大きくなります。 現在残っている遺構は、萩反射炉の煙突にあたる部分である。 高さ11mの玄武岩積み(上方一部煉瓦積み)の煙突は、基底部が前面5.54m、側面3.8mあり、上に向かって幅を狭める長方形で、下方に二つのアーチ型の煙道孔が開いている。上方で二股に分かれているようにも見えるが、実際はそれぞれ独立した二本の煙突となっている。 昭和53年からの発掘調査では、炉床とみられる遺構が二本の煙突に対応して確認され、おもに西側の炉床で創業されたと考えられている。また、煙突前方の広場では建物・囲・槓が発掘されており、現在、これらの位置は低い土壇で表示し、柱の位置に玉柘植(タマツゲ)を植えている。

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◇◇◇萩 反射炉◇◇◇
現在残っている遺構は、萩反射炉の煙突にあたる部分である。 高さ11mの玄武岩積み(上方一部煉瓦積み)の煙突は、基底部が前面5.54m、側面3.8mあり、上に向かって幅を狭める長方形で、下方に二つのアーチ型の煙道孔が開いている。上方で二股に分かれているようにも見えるが、実際はそれぞれ独立した二本の煙突となっている。 昭和53年からの発掘調査では、炉床とみられる遺構が二本の煙突に対応して確認され、おもに西側の炉床で創業されたと考えられている。また、煙突前方の広場では建物・囲・槓が発掘されており、現在、これらの位置は低い土壇で表示し、柱の位置に玉柘植(タマツゲ)を植えている。
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===煙突前の広場に柱の位置に玉柘植(タマツゲ)が植えられています。===
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===二つのアーチ型の煙道孔が開いている。===

===現地説明板より===