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三日月の滝(大分県玖珠)2010年01月30日 13時31分28秒

(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===三日月の滝===

三日月の瀧 平安時代、京の都で醍醐天皇の御孫姫、小松女院と、笛の名手、清原正高少納言は恋をしますが身分の違いもあり、正高は豊後の国に配せられます。 小松女院は正高の後を慕って穴井四郎弘次・荘隈次郎利勢と十一人の侍女を伴いはるばると当地までやってきました。 滝のほとりで一人の老樵に出合い正高はすでに矢野氏の娘を娶り長野の館に住んでいることを聞き、今は尋ねても詮なきことと、旅に使った笠や衣を松の枝に掛け辞世の歌「笛竹のひとよの節と知るならば 吹くとも風になびかざらまし」と詠み十一人の侍女と手を携えて瀧の水底に身を投じました。 正高はこの事を聞いて驚き里人と淵瀬を探し、小松女院と侍女の御遺骸を引き揚げ御墓所をつくり、神社を建て御魂を鎮められました。 玖珠川を挟む、嵐山・桜ヶ岡両瀧神社では現在も入水の日を祭日として厳粛に大祭が催されています。

◇◇◇三日月の滝◇◇◇

平安時代、京の都で醍醐天皇の御孫姫、小松女院と、笛の名手、清原正高少納言は恋をしますが身分の違いもあり、正高は豊後の国に配せられます。 小松女院は正高の後を慕って穴井四郎弘次・荘隈次郎利勢と十一人の侍女を伴いはるばると当地までやってきました。 滝のほとりで一人の老樵に出合い正高はすでに矢野氏の娘を娶り長野の館に住んでいることを聞き、今は尋ねても詮なきことと、旅に使った笠や衣を松の枝に掛け辞世の歌「笛竹のひとよの節と知るならば 吹くとも風になびかざらまし」と詠み十一人の侍女と手を携えて瀧の水底に身を投じました。 正高はこの事を聞いて驚き里人と淵瀬を探し、小松女院と侍女の御遺骸を引き揚げ御墓所をつくり、神社を建て御魂を鎮められました。 玖珠川を挟む、嵐山・桜ヶ岡両瀧神社では現在も入水の日を祭日として厳粛に大祭が催されています。

===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===三日月の滝===
所在地=大分県玖珠郡玖珠町

落差約5m幅約50mの滝で、馬蹄形の滝壁を持つことから、その形を三日月に例えて三日月の滝と呼ばれています。

慈恩の滝(大分県天瀬)2010年01月29日 11時34分44秒

(写真をクリックすると大きくなります) 768x1024===慈恩の滝===
所在地=大分県日田市天瀬町 落差=30m (上段20m下段10m)幅=10m

写真をクリックすると大きくなります。◇◇◇慈恩の滝の由来◇◇◇今からおよそ千数百年の昔、この滝壷の中に大蛇が住んでいた。或る年の麦の実る頃、夜中にこの大蛇が滝壷より這い出して麦畑の中でのたうちまわり農民の汗による麦を荒してしまいわづか一夜で近郷の麦畑はほとんど全滅に近い被害を受けその年の秋の実りの田もこの大蛇に荒され其の後数年間、田畑を荒され続けた。このため農民はホトホトこまり八方手をつくし何とか大蛇を鎮めんものと、或るときは、加持祈祷に、またあるときは、滝壷に竹網を張るなどしたがその甲斐もなく大蛇に荒され農民は食べるものもなく困窮の果て、先祖より受けついだ田畑を捨て、家を捨てる者が続出しこの地域をはなれて行ったのである。 こんな年の・・・・夏の夕暮れどき、地域を通りかかった旅僧がこのありさまを聞き、及ばづながら経の功力により大蛇を鎮めて見ようと、その夜折から登る月光の下滝しぶきのかかるあたりに座して一心に読経を続けておりますと、やがて急に滝壷に逆渦巻が起り、波の中から凄まじい形相の大蛇が姿を現わしたのである。これを見た旅僧はそのような浅ましい姿では経を聞くことは出来まい。・・「心をやわらげ、姿を変えて現われよ」と、さとした。すると大蛇は、ザブンと水中に身を沈め、しばらくしてこんどは頭だけ大きく胴体は筆の軸位に痩細り長さは二丈(7m)あまり見るもあわれな姿で水の上に現れた。旅僧は大蛇に向い法を説きながら、「何故に田畑を荒すのか」と問いただすと、大蛇は頭を胴の方に向けて曲げ舌の先で体中を舐め始めたので、旅僧は大蛇に近づき、よく見ると、鱗の間に全身虫が寄生しているのを発見した旅僧はこの大蛇をあわれに思い、その胴体の上を経文で撫でさすると、大蛇は目を細め旅僧のなすままに静かにしていて、病気もよくなりその後は一度も田畑を荒すことなく稲や麦も実り農民の喜びは大変なものであった。農民はこの旅僧のために一つの寺を建立し慈恩寺と名付け寄進した。しかし慈恩寺は戦国の争乱で大分府内の領主大友宗麟の軍により滅失したのである。

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◇◇◇慈恩の滝の由来◇◇◇

今からおよそ千数百年の昔、この滝壷の中に大蛇が住んでいた。或る年の麦の実る頃、夜中にこの大蛇が滝壷より這い出して麦畑の中でのたうちまわり農民の汗による麦を荒してしまいわづか一夜で近郷の麦畑はほとんど全滅に近い被害を受けその年の秋の実りの田もこの大蛇に荒され其の後数年間、田畑を荒され続けた。このため農民はホトホトこまり八方手をつくし何とか大蛇を鎮めんものと、或るときは、加持祈祷に、またあるときは、滝壷に竹網を張るなどしたがその甲斐もなく大蛇に荒され農民は食べるものもなく困窮の果て、先祖より受けついだ田畑を捨て、家を捨てる者が続出しこの地域をはなれて行ったのである。 こんな年の・・・・夏の夕暮れどき、地域を通りかかった旅僧がこのありさまを聞き、及ばづながら経の功力により大蛇を鎮めて見ようと、その夜折から登る月光の下滝しぶきのかかるあたりに座して一心に読経を続けておりますと、やがて急に滝壷に逆渦巻が起り、波の中から凄まじい形相の大蛇が姿を現わしたのである。これを見た旅僧はそのような浅ましい姿では経を聞くことは出来まい。・・「心をやわらげ、姿を変えて現われよ」と、さとした。すると大蛇は、ザブンと水中に身を沈め、しばらくしてこんどは頭だけ大きく胴体は筆の軸位に痩細り長さは二丈(7m)あまり見るもあわれな姿で水の上に現れた。旅僧は大蛇に向い法を説きながら、「何故に田畑を荒すのか」と問いただすと、大蛇は頭を胴の方に向けて曲げ舌の先で体中を舐め始めたので、旅僧は大蛇に近づき、よく見ると、鱗の間に全身虫が寄生しているのを発見した旅僧はこの大蛇をあわれに思い、その胴体の上を経文で撫でさすると、大蛇は目を細め旅僧のなすままに静かにしていて、病気もよくなりその後は一度も田畑を荒すことなく稲や麦も実り農民の喜びは大変なものであった。農民はこの旅僧のために一つの寺を建立し慈恩寺と名付け寄進した。しかし慈恩寺は戦国の争乱で大分府内の領主大友宗麟の軍により滅失したのである。


===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===昇り竜===
慈恩の滝そばに建立された龍、名版には上昇喜龍と記されています。
(写真をクリックすると大きくなります) 800x600===河童===

整備された遊歩道を川沿いに行くと、岩の上に可愛らしい河童が目につきます。更に進むと滝の裏側に行けるのですが只今工事中に付き入れませんの看板があり裏側に行く事が出来ませんでした。

大分県一心寺の八重ざくら2009年04月12日 09時30分39秒


◇◇◇霊山一心寺は初代住職安部一僧正が報恩感謝の一念から余生を人助けに捧げんとして昭和三十八年四月この塚野の地を選んで建立されました。以来今日まで安部僧正は山を開きひとつひとつの石を積み上げ道を造り幾多の障害や苦労にも絶えて三十有余年を経て漸く不動尊を祀るにふさわしい聖域がほぼ完成を見るに至りました。 人助けにも専念せられ時を嫌わず尋ね来る人の病を治し又苦を抜き楽を与え禍を福に変えるその姿は不動尊そのものの如く救われた人の数は計り知れず本当に筆舌に盡しがたいものがありました。その間造設されました本堂十三仏殿念仏堂の仏様を拝する時此の世の阿弥陀洛浄土を感ぜずにはいられません。こうした大偉業を成し遂げられた先生の遺徳わ偲び後世に伝えたく又私達の心中深く留め置きたく信者一同より建立致しました。◇◇◇
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◇◇◇一心寺由来◇◇◇

霊山一心寺は初代住職安部一僧正が報恩感謝の一念から余生を人助けに捧げんとして昭和三十八年四月この塚野の地を選んで建立されました。以来今日まで安部僧正は山を開きひとつひとつの石を積み上げ道を造り幾多の障害や苦労にも絶えて三十有余年を経て漸く不動尊を祀るにふさわしい聖域がほぼ完成を見るに至りました。 人助けにも専念せられ時を嫌わず尋ね来る人の病を治し又苦を抜き楽を与え禍を福に変えるその姿は不動尊そのものの如く救われた人の数は計り知れず本当に筆舌に盡しがたいものがありました。その間造設されました本堂十三仏殿念仏堂の仏様を拝する時此の世の阿弥陀洛浄土を感ぜずにはいられません。こうした大偉業を成し遂げられた先生の遺徳わ偲び後世に伝えたく又私達の心中深く留め置きたく信者一同より建立致しました。
===現地由来書石碑より===

豊後高田長崎鼻⑩2009年04月01日 14時33分38秒

(写真をクリックすると大きくなります)-->上写真
 
海に浮かぶ変形岩

豊後高田長崎鼻⑨2009年04月01日 14時29分53秒

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このリアス式海岸に見られる岩岸と黒松

豊後高田長崎鼻⑧2009年04月01日 14時25分20秒

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香々地(かかじ)灯台
初点 昭和26年9月 改築 昭和62年3月
国東半島の先端部近くに突き出した半島「長崎鼻」。近くに姫島が望み、遠くに周防灘を隔て四国、中国を望める風光明美な半島である。海蝕洞穴のあるリアス式海岸と黒松の茂る地に香々地灯台があります。

豊後高田長崎鼻⑦2009年04月01日 14時22分02秒

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香々地灯台と海蝕洞穴


     
灯台下にあいた海蝕洞穴
この日は丁度干潮で下に下りることができました。

豊後高田長崎鼻⑥2009年04月01日 14時20分10秒

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岩場は溶岩と砂が混ざったような岩が多い。
中央の三角形の岩に松が生えている丁度盆栽のようです。

豊後高田長崎鼻⑤2009年04月01日 14時16分01秒

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岸壁にあいた海蝕洞穴
この日は風もなく海は穏やかであるが海が荒れば洞穴も形が変わることもあるのではないでしょうか?ここから見る景色はまた格別のものです。

豊後高田長崎鼻④2009年04月01日 14時10分23秒

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岩場よりの海蝕洞穴
このあたり一帯は海蝕によって削り取られた岩盤が色々な形でみられる。