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旧亀石庭園跡①2009年11月09日 13時56分38秒

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写真をクリックすると大きくなります。  旧亀石坊の庭園は、室町時代の画僧、雪舟が築いたものと伝えられています。雪舟は中国に渡って勉学の後、帰国してしばらく九州の各地を遍歴したということですが、たまたま薩摩国にいたとき彦山の行者に遇い、勧誘されて亀石坊にしばらく滞在したということです。雪舟は方々で庭を築いていますが、この庭には雪舟の作風がよく残っているということで昭和3(1928)年、名勝として国の指定を受けました。旧亀石坊庭園の広さは699平方メートル池泉鑑賞式庭園です。庭園の東側が一段高く、南西へ傾斜しているのを利用して築山をつくり、その山裾に池が掘られています。 奉幣殿のすぐ下に、幕末の混乱の犠牲となった11人の義僧の墓「招魂社」があります。 文久3(1863)年3月、朝廷は攘夷を決意し、全国の寺社に国家安泰、敵国降伏を祈願させました。英彦山でも座主教有は奉幣殿の前庭に護摩壇を仕立て、30日間の勤行を勤めると、山中でも一気に攘夷、反幕の気運が高まりました。しかし、不幸にも11人の山伏が小倉藩によってとらわれ、ついに獄死しました。この事件の後、英彦山は小倉藩の監視下に置かれました。

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旧亀石庭園跡
旧亀石坊の庭園は、室町時代の画僧、雪舟が築いたものと伝えられています。雪舟は中国に渡って勉学の後、帰国してしばらく九州の各地を遍歴したということですが、たまたま薩摩国にいたとき彦山の行者に遇い、勧誘されて亀石坊にしばらく滞在したということです。雪舟は方々で庭を築いていますが、この庭には雪舟の作風がよく残っているということで昭和3(1928)年、名勝として国の指定を受けました。旧亀石坊庭園の広さは699平方メートル池泉鑑賞式庭園です。庭園の東側が一段高く、南西へ傾斜しているのを利用して築山をつくり、その山裾に池が掘られています。 奉幣殿のすぐ下に、幕末の混乱の犠牲となった11人の義僧の墓「招魂社」があります。 文久3(1863)年3月、朝廷は攘夷を決意し、全国の寺社に国家安泰、敵国降伏を祈願させました。英彦山でも座主教有は奉幣殿の前庭に護摩壇を仕立て、30日間の勤行を勤めると、山中でも一気に攘夷、反幕の気運が高まりました。しかし、不幸にも11人の山伏が小倉藩によってとらわれ、ついに獄死しました。この事件の後、英彦山は小倉藩の監視下に置かれました。

旧亀石庭園跡②2009年11月09日 14時16分11秒

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旧亀石庭園跡③2009年11月09日 14時37分35秒

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旧亀石庭園跡④2009年11月09日 14時42分12秒

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写真をクリックすると大きくなります。   この大きな宝篋印塔は文化14(1817)年、肥後(熊本県玉名郡岱明町)出身の僧・豪潮律師の建立したものです。豪潮は、16歳で比叡山に修行して天台の教学を学び、徳行天下にあまねき名僧で、殊に光格天皇の御信位篤く、寛海国師の稱三を賜った程です。晩年は尾張藩主、徳川斉朝に重用され、八十七歳で名古屋城下にて入寂されました。この間、全国に二千有余の宝篋印塔を建立し、庶民の現世安穏、後世極楽を祈願をしましたが、この塔はその中の最大のもので高さは約八メートルあります。明治維新の廃仏毀釈の際、これを保存するため燈籠に変形し、基礎の蓮華も亀甲にかえたりしています。 県内では芦屋町と久留米市にこれとほとんど同じような豪潮律師の宝篋印塔があります。明治維新の神仏分離令で英彦山から仏教関係のもの一切を取り除くことになったので、塔の中心部に刻まれていた梵字を削って「燈」の一字を入れ、塔の腰部をとりまいている蓮華の花びら(反り花)に亀の甲羅の模様を付けたのです。しかし、側面の文字はそのままに残されています。参道の反対側の広場にもほぼ同じような規模の塔が残されています。

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◇◇◇宝篋印塔◇◇◇
この大きな宝篋印塔は文化14(1817)年、肥後(熊本県玉名郡岱明町)出身の僧・豪潮律師の建立したものです。豪潮は、16歳で比叡山に修行して天台の教学を学び、徳行天下にあまねき名僧で、殊に光格天皇の御信位篤く、寛海国師の稱三を賜った程です。晩年は尾張藩主、徳川斉朝に重用され、八十七歳で名古屋城下にて入寂されました。この間、全国に二千有余の宝篋印塔を建立し、庶民の現世安穏、後世極楽を祈願をしましたが、この塔はその中の最大のもので高さは約八メートルあります。明治維新の廃仏毀釈の際、これを保存するため燈籠に変形し、基礎の蓮華も亀甲にかえたりしています。 県内では芦屋町と久留米市にこれとほとんど同じような豪潮律師の宝篋印塔があります。明治維新の神仏分離令で英彦山から仏教関係のもの一切を取り除くことになったので、塔の中心部に刻まれていた梵字を削って「燈」の一字を入れ、塔の腰部をとりまいている蓮華の花びら(反り花)に亀の甲羅の模様を付けたのです。しかし、側面の文字はそのままに残されています。参道の反対側の広場にもほぼ同じような規模の塔が残されています。
===宝篋印塔 現地説明板===(写真をクリックすると大きくなります)800x400