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末廣神社(大分県玖珠)2010年03月01日 11時46分19秒

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===末廣神社神殿===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===末廣神社御案内板===
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末廣神社御案内 御祭神◇天御中主神◇大山積神二柱◇境内社◇五社殿◇松尾社◇不動尊◇◇◇由 緒◇◇◇末廣神社は、慶長6年(1601年)初代森藩主久留島康親公は藩の守護神として「三島宮」を愛媛県三島より御勧請鎮際した。その後、文化文政の頃、第八代久留島通嘉公によって境内並びに御神殿、拝殿その他の建物などが造営整備され現在の姿になった。明治五年になって当地方に以前より祀られていた「妙見宮」を合祀して社名を「末廣神社」と改称し現在に至っている。 ◇◇◇御神殿◇◇◇ 御神殿は総欅造りのもので精巧かつ優美であるが鞘堂がその上を被っている。鞘堂は規模が大きく建坪が三十六坪ある。 ◇◇◇庭 園◇◇◇ 境内に巨大な石を用いた庭園が数箇所ある。 ◇◇◇清水御門庭園◇◇◇ 社殿北側の石段下庭園は正参道の入り口に造られたもので、その上部に清水茶屋があった。 ◇◇◇栖鳳楼庭園◇◇◇ 拝殿正面下段の二階建の建物は栖鳳楼と呼ばれ階下は茶室となっておりここから眺めると、はるか九重連山の遠景をとり入れた庭となっている。 ◇◇◇旧久留島邸庭園◇◇◇ 南側斜面下の児童公園に接する部分に蓮菜式池泉庭園がある。雄大豪華な手法で石組がなされている。 ===末廣神社御案内板より===

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末廣神社は、慶長6年(1601年)初代森藩主久留島康親公は藩の守護神として「三島宮」を愛媛県三島より御勧請鎮際した。その後、文化文政の頃、第八代久留島通嘉公によって境内並びに御神殿、拝殿その他の建物などが造営整備され現在の姿になった。明治五年になって当地方に以前より祀られていた「妙見宮」を合祀して社名を「末廣神社」と改称し現在に至っている。

御神殿は総欅造りのもので精巧かつ優美であるが鞘堂がその上を被っている。鞘堂は規模が大きく建坪が三十六坪ある。
境内に巨大な石を用いた庭園が数箇所ある。
社殿北側の石段下庭園は正参道の入り口に造られたもので、その上部に清水茶屋があった。
拝殿正面下段の二階建の建物は栖鳳楼と呼ばれ階下は茶室となっておりここから眺めると、はるか九重連山の遠景をとり入れた庭となっている。
南側斜面下の児童公園に接する部分に蓮菜式池泉庭園がある。雄大豪華な手法で石組がなされている。
===末廣神社御案内板より===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===手水鉢説明板===
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巨大な岩石をくりぬいたこの手水鉢(ちょうずばち)は、角埋山の中腹から挽き寄せたと言われますが、一体何人でこの巨石を引っぱったのでしょうか。石工には、石の粉一升を彫れば小銭一升を与えるとして奨励し、彫らせたとも言われています。その前の二個の二段の踏み石(水を汲むための石)も巨大です。鉢の容量は、七石(約1260リットル)

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===日本一大きな手水鉢===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===栖鳳楼説明板===
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栖鳳楼森藩の記録には、「紅葉の御茶屋」と記されており、天保二年(1821年)に完成。真言宗の高僧「不退堂」によって栖鳳楼と名付けられた。神社祭典の為の参篭(御通夜)や、月見・花見の宴などにも使用されていた。二階からの眺望は、素晴らしく、お城の天守閣の趣をなしている。一階は御茶屋風になっており、その庭園は九重連山や城下町の遠景を取り入れたもので、豪華な飛石が配置されている。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===栖鳳楼===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===桜の馬場と石垣===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===清水御門常夜燈説明板===
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この自然石の常夜燈は、日本一と称されています。竿に「文政十三庚寅年(1830年)秋八月建立」とあります。八代藩主久留島通嘉が参勤交代の途中東海道の宿場で、自然石日本一と言う石燈籠を見て、それ以上のものを所望して作らせたと言われています。笠石は六畳敷の大きさで、竿石の正面に彫られた常夜燈の三文字の中には、米一俵が入ると伝えられています。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===清水御門常夜燈===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===玉濃井(井戸)===
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この玉濃井は深さは七十三尋といい、中程に三間(約6m)四方位の広い場所があります。そこから抜け穴が通じていると伝えられています。この井戸は大正10年の大洪水で破壊し資金難から埋め立てることになりましたが、これに反対した元小学校長宿利政太氏は、一般有志に呼びかけ種々奔走して、ついに昭和4年758円余りを費やしてようやく復旧させました。

===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===丸木御門===
この丸木御門を通り抜けると桜の馬場に通じていて更に行くと末廣神社へ着きます。又桜の馬場から清水御門に出ることもできる。
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===清水御門===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===清水御門===
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◇◇◇清水御門このあたりが、お城仕立ての境内の表玄関となっています。 清水御門に向かって左側の土手からは、年中涸れることなく清水がわき出ている。この清水は「玉水」と名付けられ、お茶をたてるのに適した水といわれています。玉水の上の広場には清水茶屋がありました。門を通り抜け石段を上がると玉濃井(井戸)があり桜の馬場を通って三島宮(末廣神社)の拝殿前に到着する。慶長六年(1601年)に関ヶ原の合戦で西軍に与し一時浪々の身となっていた村上水軍の来島康親は、伊予来島から豊後森に一万四千石で所領を与えられました。来島氏は、角埋山(角牟礼城)の麓に陣屋を築きました。二代藩主の道春は、姓を来島から久留嶋に改めました。八代藩主久留嶋通嘉は、末広神社(三島神社)を改築し、庭園を造営するとともに神社を城仕立てに改築しました。

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清水御門このあたりが、お城仕立ての境内の表玄関となっています。 清水御門に向かって左側の土手からは、年中涸れることなく清水がわき出ている。この清水は「玉水」と名付けられ、お茶をたてるのに適した水といわれています。玉水の上の広場には清水茶屋がありました。門を通り抜け石段を上がると玉濃井(井戸)があり桜の馬場を通って三島宮(末廣神社)の拝殿前に到着する。慶長六年(1601年)に関ヶ原の合戦で西軍に与し一時浪々の身となっていた村上水軍の来島康親(やすちか)は、伊予来島から豊後森に一万四千石で所領を与えられました。来島氏は、角埋山(角牟礼城(つのむれじょう)の麓に陣屋を築きました。二代藩主の道春は、姓を来島から久留嶋に改めました。八代藩主久留嶋通嘉(みちよし)は、末廣神社(三島神社)を改築し、庭園を造営するとともに神社を城仕立てに改築しました。


コメント

_ ito3 ― 2010年03月02日 06時25分16秒

玖珠にあまり知られていない(知らないのは私だけかな)素晴らしい神社がありますね、手水鉢と言い、燈篭も巨大です。

_ ja4chu ― 2010年03月02日 11時44分11秒

ito3さん何時もブログを観て頂き有り難う御座います。
玖珠も色々と歴史的に有名な所がありますね。この末広神社もその一つと言えます、私が関心した事は神社が城仕立てと言うことです。石垣、や清水御門、丸木御門、白壁に矢狭間や鉄砲狭間がある等非常に珍しいですね。この山頂付近に角牟礼城跡もあり一度訪問してはいかがでしょうか?

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