紅葉の岡城跡 (大分県) ― 2021年11月20日 20時58分59秒
|
国指定史跡 岡城跡 (大分県) 竹田市
|
||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
名 称 ・岡城跡 ・別名・臥牛城
所在地 ・大分県竹田市大字竹田
入城受付時間 ・9:00~17:00入城料金・高校生以上300円 ・小中学生150円
◎岡城跡について
奥豊後の山深く、稲葉川と白滝川に挟まれた断崖絶壁の地に、天高くそびえ立つ高石垣。広大な敷地に広がる山城『岡城』は、総石垣のまさに「難攻不落の堅城」です。岡城は、兄である源頼朝に追われた源義経を迎えるため、文治元年(1118年)に緒方三郎惟栄が築城したという伝説にはじまります。
時は流れ、やがて岡城は豊後国守護大友氏の一族である志賀氏の居城となります。天正14年(1586年)薩摩の島津義弘率いる大軍が、志賀親次の守る岡城を攻撃します。島津軍は険峻な要害である岡城を落とすことができずに撤退し、「岡城は難攻不落の城」として世に広く知られるようになりました。その後、豊臣秀吉の朝鮮出兵で主家の大友氏が失脚すると志賀氏はこの地を去ることになりました。代わって中川氏が岡城の城主となり、明治四年(1871年)の廃藩置県により城を去るまでの277年間、岡城は中川氏の居城となりました。中川氏の時代に岡城の大改修が行われ、要害堅固な地形を土台とした総石垣の広大な近世城郭へと変貌していきました。
岡城を形成する断崖絶壁は、阿蘇山の噴火により流れ出した火砕流でできた阿蘇溶結凝灰岩の岩盤です。阿蘇溶結凝灰岩で形成された太地を、長い年月をかけて河川が削り、深い谷と断崖絶壁による要害堅固な岡城の地形が生み出されました。
大手門は、城の正面玄関であることに加え防御施設でもあります。大手門の石垣上には、櫓が渡されており、櫓上から敵を攻撃できるようになっていました。現在残る石垣や礎石・車敷等から、大手門の大きさが窺えます。
岡城では、文禄三年(1594年)中川氏入部後、大手・近戸・下原の三口が切り開かれ、かっての大手門はここよりも東側に設けられていましたが、慶長十七年(1612年)に岡城へ立ち寄った築城の名人である伊勢津藩主藤堂高虎の意見によって、今のように西向きに替えたとつたえられています。
西の丸には、三代藩主中川久清の隠居後の住まいとして御殿が造営されました。その後、政務の中心的な機能も西の丸へ集約されます。西の丸には、御殿のほかに馬場や庭園等があり、城内で最も広い曲輪でもありました。
三の丸は、他藩からの使者や家臣が藩主と対面する場であったとされています。現在は、三代藩主に藩政に関する指南を行った熊沢蕃山や幕末の勤皇の志士である小河一敏など、岡藩に縁のある人物の顕彰碑が建立されています。
太鼓櫓は岡城の中心部への入り口で、城内で最も重要な門です。2mほどの巨石を「切込接」という石積の技法を用い、隙間なく積まれた石垣は、藩主の権威の象徴であり、岡藩の石積技術の高さが窺えるものとなっています。太鼓櫓に隣接して鐘櫓があり、火災や緊急時には、銅鐘が打ち鳴らされていました。
国指定史跡 岡城跡
岡城は、文治元年(1185)大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄が、源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられるが(*註1)、惟栄は大物浦(兵庫県)を出航しようとして捕らえられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流された。
建武のころ豊後国守護大友氏の分家で大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令をうけ、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、志賀氏の直入郡への進出は、南北朝なかばの応安二年(1369)から後で(*註2)、その城はきむれの城(騎牟礼城)であった。のちに志賀氏の居城は岡城に移った。
天正十四年(1586)から翌年の豊薩戦争では島津の大軍が岡城をおそい、わずか十八歳の志賀親次(親善)は城を守り、よく戦って豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし、文禄二年(1593)豊後大友義統が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。
文禄三年(1594)二月、播磨国三木城から中川秀成が総勢四千人余で入部。築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし(*註3)、急ぎ近世城郭の形をととのえ、本丸は慶長元年(1597)に完成、寛文三年(1662)には西の丸御殿がつくられ、城の中心部分とされていった(*註4)。
明治二年(1869)版籍奉還後の四年(1871)には十四代・277年間続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は七年(1874)大分県による入札・払い下げ(*註5)ですべてが取りこわされた。
滝廉太郎は、少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治三十四年(1901)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。
*註1 『豊後国志』巻六 直入郡の項による。但し当時、惟栄は京都に滞在していた可能性が極めて高い。(『源平の雄 緒方三郎惟栄』)
*註2 『豊後国志』巻六 直入郡の項による。但し、志賀氏の直入郡進出は、応安二年直入郡代官職・検断職を預けられた以降で、天文二十一年ころは大友氏加判衆(老職)をも勤めていた。(『竹田市史』上巻)
*註3 『中川史料集』に「滋賀湖左衛門親次が旧居に御住居」とあり、戦国時代の城郭を基礎として近世城郭の整備・城下の町割り(竹田町の建設)などをおこなった。
*註4 岡城は山城的殿舎(御廟)、平山城的殿舎(本丸・二の丸・三の丸)、平城的殿舎(西の丸)で構成され、これらが一体となっていることは近世城郭史上特異な城である。
*註5 明治七年二月十九日付『大分県布告書』で、(県内五城の建造物)岡城は六十九棟が入札に付されている。











最近のコメント