今日はです

島原城 ①2008年12月13日 11時05分11秒

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この地は森岳といい、有馬晴信が本陣を構えて佐賀龍造寺隆信軍を撃破したところです。この瑞祥の地に、五条(奈良県)から入封した松倉重政が島原城を築きました。1618年(元和4年)着工、4~7年の歳月を経て完成。同時に島原城下町も整備したといいます。破風をもたない層塔型総塗込の五層の天守閣を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配置して、所要を三層櫓で固め、外郭は四キロにわたり矢狭間をもつ練塀で取り囲みました。四万石の大名には過分な城です。ここに有馬氏時代からの海外貿易の利益と、松倉氏の新興大名としての意気込みが見られます。以来、松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏・再び松平氏と四氏19代の居城として輝きました。その間、1637年(寛永14年)島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、1792年(寛政四年)島原大変時には打ち続く地震と足下を洗う大津波にも耐えてきました。明治維新で廃城になり、払い下げ・解体されましたが、島原市民の夢である御城復元への取り組みが長年続きました。(昭和39年)天守閣が復元するなど、次第に昔の面影を取り戻しつつあります。
この地は森岳といい、有馬晴信が本陣を構えて佐賀龍造寺隆信軍を撃破したところです。この瑞祥の地に、五条(奈良県)から入封した松倉重政が島原城を築きました。1618年(元和4年)着工、4~7年の歳月を経て完成。同時に島原城下町も整備したといいます。破風をもたない層塔型総塗込の五層の天守閣を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配置して、所要を三層櫓で固め、外郭は四キロにわたり矢狭間をもつ練塀で取り囲みました。四万石の大名には過分な城です。ここに有馬氏時代からの海外貿易の利益と、松倉氏の新興大名としての意気込みが見られます。以来、松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏・再び松平氏と四氏19代の居城として輝きました。その間、1637年(寛永14年)島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、1792年(寛政四年)島原大変時には打ち続く地震と足下を洗う大津波にも耐えてきました。明治維新で廃城になり、払い下げ・解体されましたが、島原市民の夢である御城復元への取り組みが長年続きました。(昭和39年)天守閣が復元するなど、次第に昔の面影を取り戻しつつあります。......... ===現地説明板より===

===現地説明板より===

島原城 ②2008年12月13日 11時12分19秒

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==島原城城郭絵図==   == 現地説明板より==

島原城 ③2008年12月13日 11時14分19秒

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ありし日の島原城絵図===現地説明板より===
島原城は寛永元年(1624)に松倉豊後守重政が7年間の歳月をかけて築いたものです。 五層の天守閣を中核に、大小の櫓を要所に配置した、安土桃山時代の築城様式を取り入れた壮麗な城です。 それ以来約250年間、4氏19代の居城として使用されました。 ===歴代城主=== 松倉重政、松倉勝家 高力忠房、高力隆長 松平忠房、忠雄、忠俔、忠刻、忠祗、 戸田忠盈、戸田忠寛 松平忠恕、忠馮、忠候、忠誠、忠精、忠淳、忠愛、忠和、
島原城は寛永元年(1624)に松倉豊後守重政が7年間の歳月をかけて築いたものです。 五層の天守閣を中核に、大小の櫓を要所に配置した、安土桃山時代の築城様式を取り入れた壮麗な城です。 それ以来約250年間、4氏19代の居城として使用されました。 ===歴代城主=== 松倉重政、松倉勝家 高力忠房、高力隆長 松平忠房、忠雄、忠俔、忠刻、忠祗、 戸田忠盈、戸田忠寛 松平忠恕、忠馮、忠候、忠誠、忠精、忠淳、忠愛、忠和、

島原城 ④2008年12月13日 11時17分10秒

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島原城天守閣城郭は南に偏って本丸があり、そこには17間(33㍍)の天守が聳え立つ。北隣に二の丸が廊下橋で結ばれていた。さらに北側に三の丸があって、御殿が置かれた。その外郭は東西360㍍、南北1260㍍。周囲に3900㍍の塀をめぐらせ、要所には大小16の櫓を配置した。その内部に上士屋敷を、外部に下士屋敷を置いた。4万石の大名にしては過分の城であった。
島原城天守閣 城郭は南に偏って本丸があり、そこには17間(33㍍)の天守が聳え立つ。北隣に二の丸が廊下橋で結ばれていた。さらに北側に三の丸があって、御殿が置かれた。その外郭は東西360㍍、南北1260㍍。周囲に3900㍍の塀をめぐらせ、要所には大小16の櫓を配置した。その内部に上士屋敷を、外部に下士屋敷を置いた。4万石の大名にしては過分の城であった。

島原城 ⑤2008年12月13日 11時20分43秒

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この島原城内には郷土資料、民族資料、キリシタン史料等が展示されています。天守閣からの眺望は360度見わたせ最高の天守閣です。
島原城天守閣==青空に映える天守閣== この島原城内には郷土資料、民族資料、キリシタン史料等が展示されています。天守閣からの眺望は360度見わたせ最高の天守閣です。

島原城 ⑥2008年12月13日 11時23分21秒

(写真をクリックすると大きくなります) ===島原城西櫓正面入り口===
西櫓は天守閣再建に先立って昭和35年(1960)に再建されました。三重櫓です。天守閣がある場所よりも一段高い位置にあります。

島原城 ⑦2008年12月13日 11時25分48秒

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東櫓

島原城 ⑧2008年12月13日 11時28分07秒

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島原城東櫓前に建つ天草四郎時貞の銅像 島原城のちょうど裏側巽の櫓(たつみのやぐら)に、ある北村西望記念館j前の「天草四郎像」北村西望作
寛永14年(1637)10月25日、この天草四郎時貞を盟主に反乱が起こりました。本名を益田時貞といい、関ヶ原の戦い(1600)に敗れて処刑された小西行長の家臣、益田好次の子といわれていますが、さだかでありません。原城本丸内で細川藩の陣野佐左衛門により討ち取られたと言い伝えられています。この時まだ、わずか16歳でした。
寛永14年(1637)10月25日、この天草四郎時貞を盟主に反乱が起こりました。本名を益田時貞といい、関ヶ原の戦い(1600)に敗れて処刑された小西行長の家臣、益田好次の子といわれていますが、さだかでありません。原城本丸内で細川藩の陣野佐左衛門により討ち取られたと言い伝えられています。この時まだ、16歳でした。

島原城 ⑨2008年12月13日 11時29分47秒

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島原城城内南側城壁

島原城 ⑩2008年12月13日 11時31分38秒

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島原城城内の城壁と石垣、下の写真は堀側から見た天守閣と白壁が綺麗です。壁に三角、丸、長方形、などの穴があるが、これは矢狭間といいこの穴から鉄砲や弓矢で敵を攻撃するものです。
島原城城内の城壁と石垣、下の写真は堀側から見た天守閣と白壁が綺麗です。壁に三角、丸、長方形、などの穴があるが、これは矢狭間といいこの穴から鉄砲や弓矢で敵を攻撃するものです。