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今日はです

灯台記念日 11月01日①2008年11月01日 13時32分35秒

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この灯台は下関市豊北町角島にある、角島灯台です。 角島灯台は1876年に点灯を始めました。高さ約30mの石造りです。 この灯台のレンズは日本最大のレンズを使用しています。 レンズは横1.8m縦2.5mで1874年に英国で作られたもので、現役として活躍中です。同じレンズが使われているのは角島を含め五箇所の灯台のみで、気象条件が良ければ34キロ先まで照らすことができます。 灯台記念日は、1868年に日本初の西洋式灯台が神奈川県で起工された日にちなんで定められました。

灯台記念日 11月01日②2008年11月01日 13時39分19秒

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現役で稼動中の角島灯台気象状態が良い時は34km先まで届くようです。

灯台記念日 11月01日③2008年11月01日 13時42分47秒

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角島灯台日本最大のレンズを使用している。
このレンズは横1.8m縦2.5mあります。

耶馬渓橋 (オランダ橋) ①2008年11月02日 15時40分39秒

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耶馬渓橋 (オランダ橋)
この橋は、山国川にかかる観光道路、生活道路として大正九年から十二年にかけて架橋されたもので、長崎県に多い石積方式であるため通称オランダ橋とも呼ばれている。架橋工事は、地元の岩渕万吉氏が請け負い、地元の石工、石材を使用し架橋された。その工事に要した費用は曽木地区の村山21人の共有林を売却しそれに当てたもので、その金額は四万円と言われている。現在、我が国にはこれだけの規模の石橋はなく八連、橋長116mは共に日本一である。架橋以来、永い間水害に耐えて来たこの橋であるが、昭和19年の大洪水で大きな被害をうけ橋面の高欄等が流失し、コンクリートにおいて復旧されていた。しかし、数年前より橋体にひび割れ等が判明し、通行上非常に危険な状態であったため平成10年から11年にかけて当時の写真等を参考に補強、修復されたものである。
===現地説明板より===

耶馬溪橋 (オランダ橋) ②2008年11月02日 15時45分45秒

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耶馬溪橋 (オランダ橋)
この橋は、山国川にかかる観光道路、生活道路として大正九年から十二年にかけて架橋されたもので、長崎県に多い石積方式であるため通称オランダ橋とも呼ばれている。架橋工事は、地元の岩渕万吉氏が請け負い、地元の石工、石材を使用し架橋された。その工事に要した費用は曽木地区の村山21人の共有林を売却しそれに当てたもので、その金額は四万円と言われている。現在、我が国にはこれだけの規模の石橋はなく八連、橋長116mは共に日本一である。架橋以来、永い間水害に耐えて来たこの橋であるが、昭和19年の大洪水で大きな被害をうけ橋面の高欄等が流失し、コンクリートにおいて復旧されていた。しかし、数年前より橋体にひび割れ等が判明し、通行上非常に危険な状態であったため平成10年から11年にかけて当時の写真等を参考に補強、修復されたものである。
==現地説明板より==

耶馬渓橋 (オランダ橋) ③2008年11月02日 15時50分45秒

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            耶馬渓橋左側面より

人吉城跡 ①2008年11月08日 06時27分38秒

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人吉城は球磨川と胸川を堀とし、天嶮を利用した要害である。平安太古、平頼盛の城代、矢瀬主馬助が在城したが、建久九年1198年、相良長頼が入城して以来歴世球磨地方を統治し、慶長二年1597年から近世的築城を始め、寛永16年1639年に成就したが、更に幕末洋式の跳出の工法も加えられた人吉城は球磨川に沿う城下町と共に四開の風光と相映じ、その情趣は又、相良氏も百年の歴史を象微する名城の姿でもある。 ==現地説明板より==

人吉城跡 ②2008年11月08日 06時35分38秒

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この人吉城は、鎌倉時代のはじめ、源頼朝の命をうけ、人吉庄の地頭として着任した遠江国相良庄(現在の静岡県牧ノ原市相良)を出身とする相良長頼により修築されたと伝えられています。ただし山城としての本格的な築城は、文明二年1470年頃、12代当主相良為続の時である。豊臣秀吉の九州統一後の天正17年1589年、20代当主相良長毎が豊後から石工を招き人吉城を石垣づくりの城として改修しました。慶長6年1601年には本丸・二の丸・堀・櫓・御門まで完成し、慶長12年1607年から球磨川沿いの石垣を築き始め外曲輪がが造られました。寛永16年1639年に石垣工事は中止されるが、この時、近世人吉城がほとんど完成しました。人吉城は2度の大火があり、特に、文久2年1862年の寅助火事では城内の建物がほとんど焼失しました。翌年、御館北側の石垣は「はね出し」という工法で防火のために造られています。この工法は、函館五稜郭、江戸湾台場など日本の城で数例みられる西洋式の石垣である。明治4年1871年の廃藩置県の後、城内の建物は立木とともに払い下げられ、石垣だけが残されました。 ==現地案内板より==

人吉城跡 ③2008年11月08日 06時40分54秒

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この石垣は大手門櫓跡の石垣です。胸川御門とも呼ばれた大手門は、城の正面入り口となる重要な場所であったので、石垣の上に櫓(矢倉)をわたして下に門を設けた。さらに門前の通路は鍵形にして枡形につくり、また、門の北側には多聞櫓を建てて、外濠となる胸川の対岸に大手橋を架けけて防御している。門内には番所を置いて監視させている。この大手門櫓は正保年中、1644年から1648年にたてられ、享保五年1720年に造り替えられ、明治初期の払い下げで撤去されました。 撤去前に撮影された写真を基に描かれた油絵によれば梁間2間半、(5m)、桁行12間(24m)の瓦葺き切妻型の櫓門で、壁の上部は漆喰塗り、下部は板張りとなっています。大手門櫓と多聞櫓の間には、長さ3mの瓦葺の板塀がついています。 ==現地案内板より==

人吉城跡 ④2008年11月08日 06時45分22秒

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堀合門跡に向かい合うように「水の手門跡」が残る。城内に入る4ヵ所の門の一つで、球磨川に面する水運のための門であったことからこの名がある。門外にあった舟着場から米蔵など多くの蔵への物資の搬入に利用されていた。球磨川に面して積まれた石垣は見事なものですまた白い城壁が綺麗です。