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人吉城跡 ②2008年11月08日 06時35分38秒

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この人吉城は、鎌倉時代のはじめ、源頼朝の命をうけ、人吉庄の地頭として着任した遠江国相良庄(現在の静岡県牧ノ原市相良)を出身とする相良長頼により修築されたと伝えられています。ただし山城としての本格的な築城は、文明二年1470年頃、12代当主相良為続の時である。豊臣秀吉の九州統一後の天正17年1589年、20代当主相良長毎が豊後から石工を招き人吉城を石垣づくりの城として改修しました。慶長6年1601年には本丸・二の丸・堀・櫓・御門まで完成し、慶長12年1607年から球磨川沿いの石垣を築き始め外曲輪がが造られました。寛永16年1639年に石垣工事は中止されるが、この時、近世人吉城がほとんど完成しました。人吉城は2度の大火があり、特に、文久2年1862年の寅助火事では城内の建物がほとんど焼失しました。翌年、御館北側の石垣は「はね出し」という工法で防火のために造られています。この工法は、函館五稜郭、江戸湾台場など日本の城で数例みられる西洋式の石垣である。明治4年1871年の廃藩置県の後、城内の建物は立木とともに払い下げられ、石垣だけが残されました。 ==現地案内板より==

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