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島原城天守閣2009年01月01日 01時00分01秒


かつてここには森岳と言う小山があった。そこへ百万と言う労力と7年の歳月をかけて寛永元(1624)年、島原城を生み出した。この時、北と東を埋め立てて武士屋敷や三会町を造り出し、さらに城下町を整備した。 城郭は南に偏って本丸があり、そこには17間(33㍍)の天守が聳え立つ。北隣に二の丸が廊下橋で結ばれていた。さらに北側に三の丸があって、御殿が置かれた。その外郭は東西360㍍、南北1260㍍。周囲に3900㍍の塀をめぐらせ、要所には大小16の櫓を配置した。その内部に上士屋敷を、外部に下士屋敷を置いた。4万石の大名にしては過分の城であった。 大手御門跡から眺める島原城はすばらしい。青い空に白い五層の天守閣がよく映える堀から15㍍上に矢狭間をもつ瓦葺白壁塀とその上に三層の巽櫓、右手の丑寅櫓と左手の西櫓も見える。その上に五層の白色総塗込みの天守閣が35メートルの高さに聳え立つ。
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島原城初代城主松倉重政2009年01月11日 21時02分37秒


(click..play) ★★★ 島原城初代城主松倉重政について ★★★ 
★★★★★松倉豊後守重政は、天正2年(1574)筒井家の家老松倉重信の長男として生まれている。重信は右近あるいは右近太夫とも呼ばれ、筒井順慶に仕え、松倉家は筒井家の家老職を務めていた。筒井順慶が天正12年36歳で死去後、その跡を継いだ筒井定次は、翌13年秀吉により、伊賀の国上野への転封を命じられる。重政12歳のことである。定次に従った父右近重信とともに伊賀国名張簗瀬城に移り住み、文禄2年(1593)父右近重信死去により、重政20歳で家督を継ぐ。☆  慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、重政は井伊直政隊に加わり関東勢として活躍。この戦のおり家康公の覚えめでたく、慶長13年(1608)筒井定次改易処分に際し、重政も簗瀬の所領を失いはしたが、十市、高市、宇智郡で一万石余を拝領、あらたに大名となって同年7月二見城(五條市二見)に入部した。松倉重政35歳の時である。☆  松倉豊後守重政はその後、8年ばかり二見城にあって、城下町振興策として諸役を免許して商人の結集を計った。その結果、五條村と二見村の間、紀州街道沿いに「新町」が開設され、新町は現在に続く、商業と交通の要衝として五條市発展の礎となった。 元和元年(1615)大阪夏の陣大和口、道明寺の戦いで軍功めざましく、家康の命により、元和2年(1616)4万3千石に加増され、有馬晴信の旧領であった肥前の国有馬日之江に転封された。☆  島原では、原城と日之江城を廃して、元和4年(1618)島原城築城に着工、7年後の寛永2年(1625)島原城が完成した。 寛永7年(1630)呂宋遠征の船が長崎を出港して5日後の11月16日、松倉豊後守重政は小浜温泉で急死した(57歳)。重政の死因は明らかにされておらず、暗殺されたとの伝承も残されている。☆  重政が分不相応の島原城を築城し、財政難から島原で領民に苛斂誅求を行ったことは有名な話である。これをきっかけに、彼の死の7年後島原の乱が起きたとされているが、五條では 松倉豊後守重政の評価は大変高いものであった。新町の西方寺境内に重政の頌徳碑(龍珠院殿雲厳宗関大居士)が建ち、江戸時代では松倉祭り、豊後祭り、豊後様、として感謝の祭礼が行われていたなど、名君として崇められていたことは、殆ど知られていないことである。★★★★★
島原城スライドショー 島原城スライドショー
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島原城 スライドショー2009年01月17日 06時04分34秒

(click..play)★島原城の由来★