今日はです

湯布院狭霧台 雲海(wmv)2009年11月01日 07時12分51秒

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◇◇◇湯布院 雲海◇◇◇

◇◇◇湯布院 雲海◇◇◇ この狭霧台は、由布院盆地が一望できる展望台です。放射冷却現象がみられる時に秋から冬にかけて、早朝に盆地がすっぽり霧に包まれた景色を見ることができます。ここから盆地に向って、ゆるやかなカーブのハイウェイが続いており、目前に由布岳の山肌が迫る迫力ある景観が楽しめます。標高1,584mの由布岳は、双耳峰を持つ美しく荘厳な姿は「豊後富士」と呼ばれ、古くから山岳信仰の対象として崇められています。またこの由布岳は年間を通じて県内外から多くの登山愛好家が訪れています。山頂からは別府湾や、九重連山、由布院盆地が望めます。この下には、湯布院温泉街や、金鱗湖(きんりんこ) があります。 この 金鱗湖は明治初期の儒学者・毛利空桑が、湖で泳ぐ魚の鱗が夕日で金色に輝くのを見て名付けたといわれています。湖底の一部から温泉と水が湧きだしていると言われている珍しい湖で、霧のベールに包まれる冬の早朝は幻想的な景観が観ることが出来ます。

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旧亀石庭園跡①2009年11月09日 13時56分38秒

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写真をクリックすると大きくなります。  旧亀石坊の庭園は、室町時代の画僧、雪舟が築いたものと伝えられています。雪舟は中国に渡って勉学の後、帰国してしばらく九州の各地を遍歴したということですが、たまたま薩摩国にいたとき彦山の行者に遇い、勧誘されて亀石坊にしばらく滞在したということです。雪舟は方々で庭を築いていますが、この庭には雪舟の作風がよく残っているということで昭和3(1928)年、名勝として国の指定を受けました。旧亀石坊庭園の広さは699平方メートル池泉鑑賞式庭園です。庭園の東側が一段高く、南西へ傾斜しているのを利用して築山をつくり、その山裾に池が掘られています。 奉幣殿のすぐ下に、幕末の混乱の犠牲となった11人の義僧の墓「招魂社」があります。 文久3(1863)年3月、朝廷は攘夷を決意し、全国の寺社に国家安泰、敵国降伏を祈願させました。英彦山でも座主教有は奉幣殿の前庭に護摩壇を仕立て、30日間の勤行を勤めると、山中でも一気に攘夷、反幕の気運が高まりました。しかし、不幸にも11人の山伏が小倉藩によってとらわれ、ついに獄死しました。この事件の後、英彦山は小倉藩の監視下に置かれました。

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旧亀石庭園跡
旧亀石坊の庭園は、室町時代の画僧、雪舟が築いたものと伝えられています。雪舟は中国に渡って勉学の後、帰国してしばらく九州の各地を遍歴したということですが、たまたま薩摩国にいたとき彦山の行者に遇い、勧誘されて亀石坊にしばらく滞在したということです。雪舟は方々で庭を築いていますが、この庭には雪舟の作風がよく残っているということで昭和3(1928)年、名勝として国の指定を受けました。旧亀石坊庭園の広さは699平方メートル池泉鑑賞式庭園です。庭園の東側が一段高く、南西へ傾斜しているのを利用して築山をつくり、その山裾に池が掘られています。 奉幣殿のすぐ下に、幕末の混乱の犠牲となった11人の義僧の墓「招魂社」があります。 文久3(1863)年3月、朝廷は攘夷を決意し、全国の寺社に国家安泰、敵国降伏を祈願させました。英彦山でも座主教有は奉幣殿の前庭に護摩壇を仕立て、30日間の勤行を勤めると、山中でも一気に攘夷、反幕の気運が高まりました。しかし、不幸にも11人の山伏が小倉藩によってとらわれ、ついに獄死しました。この事件の後、英彦山は小倉藩の監視下に置かれました。

旧亀石庭園跡②2009年11月09日 14時16分11秒

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旧亀石庭園跡③2009年11月09日 14時37分35秒

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旧亀石庭園跡④2009年11月09日 14時42分12秒

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写真をクリックすると大きくなります。   この大きな宝篋印塔は文化14(1817)年、肥後(熊本県玉名郡岱明町)出身の僧・豪潮律師の建立したものです。豪潮は、16歳で比叡山に修行して天台の教学を学び、徳行天下にあまねき名僧で、殊に光格天皇の御信位篤く、寛海国師の稱三を賜った程です。晩年は尾張藩主、徳川斉朝に重用され、八十七歳で名古屋城下にて入寂されました。この間、全国に二千有余の宝篋印塔を建立し、庶民の現世安穏、後世極楽を祈願をしましたが、この塔はその中の最大のもので高さは約八メートルあります。明治維新の廃仏毀釈の際、これを保存するため燈籠に変形し、基礎の蓮華も亀甲にかえたりしています。 県内では芦屋町と久留米市にこれとほとんど同じような豪潮律師の宝篋印塔があります。明治維新の神仏分離令で英彦山から仏教関係のもの一切を取り除くことになったので、塔の中心部に刻まれていた梵字を削って「燈」の一字を入れ、塔の腰部をとりまいている蓮華の花びら(反り花)に亀の甲羅の模様を付けたのです。しかし、側面の文字はそのままに残されています。参道の反対側の広場にもほぼ同じような規模の塔が残されています。

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◇◇◇宝篋印塔◇◇◇
この大きな宝篋印塔は文化14(1817)年、肥後(熊本県玉名郡岱明町)出身の僧・豪潮律師の建立したものです。豪潮は、16歳で比叡山に修行して天台の教学を学び、徳行天下にあまねき名僧で、殊に光格天皇の御信位篤く、寛海国師の稱三を賜った程です。晩年は尾張藩主、徳川斉朝に重用され、八十七歳で名古屋城下にて入寂されました。この間、全国に二千有余の宝篋印塔を建立し、庶民の現世安穏、後世極楽を祈願をしましたが、この塔はその中の最大のもので高さは約八メートルあります。明治維新の廃仏毀釈の際、これを保存するため燈籠に変形し、基礎の蓮華も亀甲にかえたりしています。 県内では芦屋町と久留米市にこれとほとんど同じような豪潮律師の宝篋印塔があります。明治維新の神仏分離令で英彦山から仏教関係のもの一切を取り除くことになったので、塔の中心部に刻まれていた梵字を削って「燈」の一字を入れ、塔の腰部をとりまいている蓮華の花びら(反り花)に亀の甲羅の模様を付けたのです。しかし、側面の文字はそのままに残されています。参道の反対側の広場にもほぼ同じような規模の塔が残されています。
===宝篋印塔 現地説明板===(写真をクリックすると大きくなります)800x400

萩 反射炉 ①2009年11月17日 10時05分55秒

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写真をクリックすると大きくなります。 反射炉は西洋で開発された金属溶解炉である。日本へは欧米列強に対する危機感が高揚した江戸時代後期、反射炉の知識が蘭書によってもたらされ、幕府や一部の藩がその導入に取り組んだ。それは、旧来の大砲に代わる鉄製の洋式大砲を必要としたからである。嘉永四年(1851年)佐賀藩が日本で最初に反射炉を完成させ、薩摩藩・伊豆韮山代官所(幕府天領)・水戸藩・萩藩(長州藩)が続いた。また民間でも、安心院(大分県)・六尾(鳥取県)・大多羅(岡山県)などで反射炉が導入された。そのうち、反射炉の遺構が現存するのは、伊豆韮山と萩の二カ所だけであり、わが国の産業技術史上たいへん貴重な遺跡とされている。萩藩においては、ペリー来航後の安政年間に反射炉の導入が試みられた。同藩は安政二年(1855年)西洋学所を開設し翌年造船所を設立して洋式軍艦の丙辰丸を建造するなど、軍備の拡充に努める。同藩はこれら軍事力強化の一環として、反射炉の導入にも取り組んだのである。従来、萩の反射炉は安政五年(1858年)に築造されたと考えられてきたが、現在、記録で確認できるのは、安政3年(1856年)の一時期に「雛形」(試験炉)が操業されたということのみである。したがって近年では、萩藩には実用炉の存在は認められず、この反射炉は試験炉であったという見方が有力視されている。

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◇◇◇萩 反射炉◇◇◇
反射炉は西洋で開発された金属溶解炉である。日本へは欧米列強に対する危機感が高揚した江戸時代後期、反射炉の知識が蘭書によってもたらされ、幕府や一部の藩がその導入に取り組んだ。それは、旧来の大砲に代わる鉄製の洋式大砲を必要としたからである。嘉永四年(1851年)佐賀藩が日本で最初に反射炉を完成させ、薩摩藩・伊豆韮山代官所(幕府天領)・水戸藩・萩藩(長州藩)が続いた。また民間でも、安心院(大分県)・六尾(鳥取県)・大多羅(岡山県)などで反射炉が導入された。そのうち、反射炉の遺構が現存するのは、伊豆韮山と萩の二カ所だけであり、わが国の産業技術史上たいへん貴重な遺跡とされている。萩藩においては、ペリー来航後の安政年間に反射炉の導入が試みられた。同藩は安政二年(1855年)西洋学所を開設し翌年造船所を設立して洋式軍艦の丙辰丸を建造するなど、軍備の拡充に努める。同藩はこれら軍事力強化の一環として、反射炉の導入にも取り組んだのである。従来、萩の反射炉は安政五年(1858年)に築造されたと考えられてきたが、現在、記録で確認できるのは、安政3年(1856年)の一時期に「雛形」(試験炉)が操業されたということのみである。したがって近年では、萩藩には実用炉の存在は認められず、この反射炉は試験炉であったという見方が有力視されている。
===現地説明板より===

萩 反射炉 ②2009年11月17日 10時10分55秒

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写真をクリックすると大きくなります。 反射炉の構造は、炉と煙突に大きくわけられる。アーチ形の炉では、後方の燃焼室で焚いた燃料の炎や熱を天井に反射させ、前方の溶解室に置いた金属を溶解した。また、炉内を高温に保つ必要があるため、高い煙突を利用して空気を大量に取り込んだ。 これによって、鉄(Fe)に含まれた炭素(C)と酸素(O2)を結合させ、二酸化炭素(CO2)を排出し、鉄に含まれる炭素の量を減らすことが可能となる。「硬くてもろい鉄」を「軟らかくて粘りのある鉄」に変えることが、反射炉の大きな特徴だったのである。


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◇◇◇反射炉の構造と特徴◇◇◇
反射炉の構造は、炉と煙突に大きくわけられる。アーチ形の炉では、後方の燃焼室で焚いた燃料の炎や熱を天井に反射させ、前方の溶解室に置いた金属を溶解した。また、炉内を高温に保つ必要があるため、高い煙突を利用して空気を大量に取り込んだ。 これによって、鉄(Fe)に含まれた炭素(C)と酸素(O2)を結合させ、二酸化炭素(CO2)を排出し、鉄に含まれる炭素の量を減らすことが可能となる。「硬くてもろい鉄」を「軟らかくて粘りのある鉄」に変えることが、反射炉の大きな特徴だったのである。
===現地説明板より===

萩 反射炉 ③2009年11月17日 10時35分22秒

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写真をクリックすると大きくなります。 現在残っている遺構は、萩反射炉の煙突にあたる部分である。 高さ11mの玄武岩積み(上方一部煉瓦積み)の煙突は、基底部が前面5.54m、側面3.8mあり、上に向かって幅を狭める長方形で、下方に二つのアーチ型の煙道孔が開いている。上方で二股に分かれているようにも見えるが、実際はそれぞれ独立した二本の煙突となっている。 昭和53年からの発掘調査では、炉床とみられる遺構が二本の煙突に対応して確認され、おもに西側の炉床で創業されたと考えられている。また、煙突前方の広場では建物・囲・槓が発掘されており、現在、これらの位置は低い土壇で表示し、柱の位置に玉柘植(タマツゲ)を植えている。

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◇◇◇萩 反射炉◇◇◇
現在残っている遺構は、萩反射炉の煙突にあたる部分である。 高さ11mの玄武岩積み(上方一部煉瓦積み)の煙突は、基底部が前面5.54m、側面3.8mあり、上に向かって幅を狭める長方形で、下方に二つのアーチ型の煙道孔が開いている。上方で二股に分かれているようにも見えるが、実際はそれぞれ独立した二本の煙突となっている。 昭和53年からの発掘調査では、炉床とみられる遺構が二本の煙突に対応して確認され、おもに西側の炉床で創業されたと考えられている。また、煙突前方の広場では建物・囲・槓が発掘されており、現在、これらの位置は低い土壇で表示し、柱の位置に玉柘植(タマツゲ)を植えている。
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===煙突前の広場に柱の位置に玉柘植(タマツゲ)が植えられています。===
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===二つのアーチ型の煙道孔が開いている。===

===現地説明板より===

晩秋の由布岳 (wmv)2009年11月25日 16時34分34秒

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◇◇◇晩秋の由布岳◇◇◇(標高1584m)
この日は朝から天候は良好で写真を撮るには最高のコンデションでしたが、山の天候は刻々と変わっていくのでなかなか想いどうりに撮ることができませんでしたが、由布岳の西側(裏側)に移動して頂上付近の霧氷を撮ることができました。望遠があればもう少し良く撮れたかもしれません。