今日はです

中の浜遺跡(山口県)2011年03月12日 17時40分33秒

(写真をクリックすると大きくなります)===中の浜遺跡全景===
◇所在地: 山口県 下関市豊浦町川棚 下村
(写真をクリックすると大きくなります)===中の浜遺跡説明版===
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中の浜遺跡は、北の土井ヶ浜遺跡、南の梶栗浜遺跡とならんで、響灘の面した砂丘上に営まれた弥生時代前期~中期の集団墓地です。響灘沿岸は北九州とともに弥生文化を最初に大陸から受容した地であり、全国的にも有数の規模を誇る弥生人の埋葬地がつぎつぎ発見されています。 当遺跡では昭和35年以来9次にわたる調査がおこなわれ、100基余りの墓と104体の弥生人骨が発見されました。これら人骨から見ると、土井ヶ浜遺跡の人骨に似て面長でかつ長身という特徴をもっています。顔が丸く背の低いそれまでの縄文人とは大きくちがっていることから、ここの葬られた人々は弥生文化をもたらした渡来系のひとであったと考えられています。 墓地の構成は土壙墓、箱式石棺墓、配石墓などの多様な墓からなっていて、それぞれにつくられた時期やグループの異りを表しています。 青銅の剣の副葬や断体儀礼の習俗もみられ、それらは全体として弥生時代の社会を明らかにし、かつ日本の文化の起源を知る上で大変貴重な遺跡となっています。 指定日昭和50年3月22日 昭和61年10月24日追加指定

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中の浜遺跡は、北の土井ヶ浜遺跡、南の梶栗浜遺跡とならんで、響灘の面した砂丘上に営まれた弥生時代前期~中期の集団墓地です。響灘沿岸は北九州とともに弥生文化を最初に大陸から受容した地であり、全国的にも有数の規模を誇る弥生人の埋葬地がつぎつぎ発見されています。 当遺跡では昭和35年以来9次にわたる調査がおこなわれ、100基余りの墓と104体の弥生人骨が発見されました。これら人骨から見ると、土井ヶ浜遺跡の人骨に似て面長でかつ長身という特徴をもっています。顔が丸く背の低いそれまでの縄文人とは大きくちがっていることから、ここの葬られた人々は弥生文化をもたらした渡来系のひとであったと考えられています。 墓地の構成は土壙墓、箱式石棺墓、配石墓などの多様な墓からなっていて、それぞれにつくられた時期やグループの異りを表しています。 青銅の剣の副葬や断体儀礼の習俗もみられ、それらは全体として弥生時代の社会を明らかにし、かつ日本の文化の起源を知る上で大変貴重な遺跡となっています。 指定日昭和50年3月22日 昭和61年10月24日追加指定

(写真をクリックすると大きくなります)===中の浜遺跡拡大図面===
===現地説明版より===
(写真をクリックすると大きくなります)===石棺墓蓋石を除いた状態===
(写真をクリックすると大きくなります)===石棺墓蓋石を覆った状態===
(写真をクリックすると大きくなります)===副室を持つ石棺墓===
(写真をクリックすると大きくなります)===銅戈を検出した遺構===
(写真をクリックすると大きくなります)===八人を埋葬した石棺墓の位置===
(写真をクリックすると大きくなります)===日本最古の貝輪検出位置===
(写真をクリックすると大きくなります)===銅剣を副葬した土擴墓===
(写真をクリックすると大きくなります)===左手を埋葬した壷棺===
(写真をクリックすると大きくなります)===配石土壙墓===

福徳稲荷神社(山口県)2011年03月20日 11時41分38秒

(写真をクリックすると大きくなります)===福徳稲荷神社本殿と大鳥居===

所在地=山口県下関市豊浦町宇賀2960

御祭神・倉稻魂大神・大宮能賣大神・大市比賣大神

御由緒・人皇12代景行天皇安須波の原に御臨幸のみぎり、犬鳴山の姫菖蒲を叡覧ありて、その美景に見いられて、いぬことを忘れる。 即ちいぬなき山というと伝えられ、それ以来この所を犬鳴山(稲城山)と称しこの景勝地に壱千余年の古より鎮座。 古歌に長門なる稲城山の姫あやめ時ならずして如月に咲くと詠まれている。

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(写真をクリックすると大きくなります)===説明版===
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稲荷大神は、私達の生活に必要なあらゆる物を守護される衣・食・住の大祖神です。  稲荷大神の御神徳は尊くして広大無辺であり、その有難き御神思は「(開運)鳥居」の奉納により授かる事ができると云う信仰が稲荷信仰の一つとして在ります。  お稲荷様を崇拝する人達の中には、信心によって危ない局面を救われたり、難儀から逃れたりして様々な成功を成し得た方達がいます。  このような方々は一様に、精一杯の努力をした人々で、その懸命な努力は無意識の中の"神の意"に適った努力となって其の結果「成就」と云う御神思を授かる事が出来たのです。  こうして尊い御神思を授かった多勢の崇敬者が、御神徳に報いようとして清浄な誠の心で奉納したのが千本鳥居なのです。 "千"の字を当てるのは数の多さを意味しますが実際に千本以上建てられています。  種々の成功を得た人達が奉納した鳥居ゆえに「開運鳥居」と命名されるところから、この有難いご利益に少しでもあやかろうとしてこの「開運鳥居」を潜る参詣者が後を絶ちません。  そして一方では、願い事が成就しますようにと、願掛けの奉納をされる人達も在り、年を追って名実共に、広大無辺の御神徳が威を増しています。


現地説明版より
(写真をクリックすると大きくなります)===福徳稲荷神社の額===
(写真をクリックすると大きくなります)===福徳稲荷神社の本殿===
(写真をクリックすると大きくなります)===福徳稲荷神社本殿右側面より===
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===千本鳥居参拝案内図===
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谷獄・谷森・谷川稲荷の三社に本社の御祭神の御分霊をお祀りしてあります。又近い時に縁組稲荷社を造営し、良縁を祈る参詣者をお迎えしています。前述三社には幼児の病気平ユ或いは大漁・航海安全・又商売繁盛等御利益霊顕あらたかで、多くの参詣者が朱塗りの千本鳥居をくぐります。又、稲城山公園一帯に眠る萬物の霊を、万霊慰霊塔を建立して慰めています。

(写真をクリックすると大きくなります)===千本鳥居===
是より縁組み稲荷・谷川稲荷・谷森稲荷・谷嶽稲荷参拝道となります。

鞠智城跡(熊本県)2011年03月26日 06時03分02秒

(写真をクリックすると大きくなります)===鞠智城八角形鼓楼===

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この建物は鼓楼と呼ばれ、最上階に置いた太鼓を使って連絡等をしていたと考えられています。 鞠智城内で最も高い建物で、高さ15.9m、最大幅8.2m。屋根は瓦葺きで、瓦の総重量は76トンです。三層造りで、一層目に49本(芯柱を含む) 、二層・三層目に16本ずつの柱があり屋根の重みをがっちり支えています。中心部に通る芯柱は最上部で接合し、振り子のように地震の揺れを吸収し、絶妙なバランスを保ち建物の倒壊を防ぐ塔建築の技術を再現しています。建物は、斗と肘木を組み合わせて建築されています。

所在地=熊本県山鹿市菊鹿町米原443−1

城郭構造=古代山城

(写真をクリックすると大きくなります)===温故創生之碑===
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鞠智城のシンボルとして平成8年度に建てられました。中央に防人、前面に防人の妻と子、西側に築城を指導したといわれる百済(くだら)の貴族、東側に八方ヶ岳に祈りを捧げる巫女(みこ)、北側には一対の鳳凰(ほうおう)が立っています。台座には万葉集からの防人の歌と鞠智城の歴史を解説した6枚のレリーフが掲げられています。 ※「温故創生(おんこそうせい)」という言葉には、「調査を行い整備をすることで、新しい文化が生まれる。」という意味があります。

(写真をクリックすると大きくなります)===鞠智城跡周辺案内図===
(写真をクリックすると大きくなります)===鞠智城絵図===

(写真をクリックすると大きくなります)===鞠智城絵図説明版拡大===

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鞠智城は、7世紀後半(1300年前)に、大和朝廷が築いた山城です。当時、東アジアの政治的情勢は、非常に緊張していました。日本は、友好国であった百済を復興するため援軍を送りましたが、663年の「白村江の戦い」で、唐と新羅の連合軍に敗北しました。このため、事態は急変し、直接日本が戦いの舞台となる危険が生じました。そこで九州には、大宰府を守るために大野城(福岡県)、基肄城(佐賀県)、金田城(長崎県)が造られました。鞠智城は、これらの城に食糧や武器、兵士などを補給する支援基地でした。

(写真をクリックすると大きくなります)===鞠智城高床式米倉===
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この建物は、高床式・校倉造り・ねずみ返し、などの、当時の米倉の典型的な特徴が再現されています。周囲から炭化米がみつかっていることから、米の保管場所と考えられています。規模は、間口7.2m、奥行きが9.6m、で屋根は瓦葺き。構造は断面が三角形の建築材(校木)を組み合わせて外壁とする校倉造りで、奈良の正倉院と同じ造りです。高床式でもあるため風通しがよく、天井が高いので、内部は夏でも涼しくひんやりとして、米の貯蔵に適しています。計算では約1200俵もの米を保管することが可能です。

(写真をクリックすると大きくなります)===鞠智城兵舎===
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この建物は兵舎と呼ばれ、防人たちが日常生活を行っていたと考えられています。建物の規模は、間口26.6m、奥行き8.0m、で大きさから50人前後の防人たちが生活していたと考えられます。土間造りが特徴です。同じ時期に建てられたと考えられる兵舎が、2棟隣り合わせで見つかっていることから、少なくとも100人前後の防人が駐屯していたと考えられます。