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名護屋城跡 (佐賀県)2011年06月26日 14時00分32秒

所在地:  佐賀県唐津市鎮西町名護屋

遺 構:  曲輪、石垣、空堀

形 式:  平山城   築城者: 豊臣秀吉   築城年代: 天正19年

(写真をクリックすると大きくなります)名護屋城模型
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この名護屋城は戦国末期の城です。佐賀県唐津市鎮西町名護屋にあります。城は東松浦半島突端の台地に築かれており、もともとは、松浦(まつら)党の波多三河守親の家臣名護屋越前守経述の居城であった。豊臣(とよとみ)秀吉は朝鮮出兵にあたって、朝鮮半島に最短距離にあるこの地に本陣を築くことを考え、1591年(天正19年)から築城の工をおこし、翌92年(文禄1年)に完成させている。加藤清正、寺沢広高を普請奉行とし、縄張りは黒田孝高(如水)が担当したもので、規模は東西約330メートル、周囲1.5キロメートルにも及ぶ広大な平城である。台地の頂上を本丸とし、二の丸、三の丸、山里丸、水の手曲輪などを備え、九州諸大名に手伝い普請を命じた。本丸には五層七階の天守閣が建てられ、往時の城の模様は1968年(昭和43年)に世に出た「肥前名護屋城図屏風」(名護屋城博物館蔵)によって詳細にうかがうことができる。秀吉は1593年(文禄2年)から1年余この城に在城しており、城の周囲には166か所の諸大名の陣営が散在し、全盛期には在陣軍勢は10万を超え、さながら城のある半島全体が要塞都市になっていたことを物語つています。秀吉死後、遠征軍が帰国するとともに廃城となり建造物なども破却されました。材は岸岳(きしだけ)城の材とともに、唐津城へ運ばれました。仙台城二の丸大手門はこの城から移築したものといわれているが、戦災で焼失してしまいました。現在は石垣、堀、礎石などが残るのみである。

(写真をクリックすると大きくなります)名護屋城案内図
(写真をクリックすると大きくなります)名護屋城大手口石垣
(写真をクリックすると大きくなります)名護屋城大手口石垣
(写真をクリックすると大きくなります)名護屋城大手口櫓台石垣

大手口は、城の正面入り口といわれており、ここから南に向かって唐津に通じる「太閤道」と呼ぶ道がのびています。平成四年度の発掘調査で、櫓台下の東側広場から掘立柱跡が見つかりました。また前面の石垣からは、石垣改築の跡をみつけることができました。

(写真をクリックすると大きくなります)名護屋城東出丸櫓台石垣跡

東出丸は東方に張り出した長方形の曲輪で、千人桝とも呼ばれています。大手口・三の丸警固のための侍詰所があったと推定されます。

(写真をクリックすると大きくなります)名護屋城三の丸石垣跡
(写真をクリックすると大きくなります)名護屋城本丸大手石垣跡

三の丸と本丸を結ぶ通路で平成三年度からの発掘調査によって、大きな城門の礎石やL型に曲がった石段、石垣の上へあがる広い石段などの遺構や、門や櫓のものと思われる、大量の瓦などの遺物が見つかりました。さらに、ここは数度の改築が行われており、現在の形が一度にできたのではないということもわかりました。

(写真をクリックすると大きくなります)名護屋城三の丸井戸跡
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名護屋城内では当時のものと考えられる井戸が各所で発見されていますが、三の丸の井戸はその中でも最も高所(標高76m)にあります。現在の深さは地面から2m程ですが、後の時代に埋められているため、当時どの程度の深さであったかは不明です。三の丸はそのほぼ全域が盛り土であったため、湧水の深さまで掘っているとすれば、かなり深いものと推定されます。井戸は自然の割石を積み上げた石組みで造られていますが、その平面形は南北1.9m、東西1.3mの楕円形をなしており、名護屋城や陣跡で発見されたその他の井戸ではみられない特徴です。

(写真をクリックすると大きくなります)名護屋城三の丸櫓台跡石垣
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この櫓台跡石垣は、名護屋城で最大規模を誇り、その西側正面には城内最大の鏡石をも用いて、石垣を築いています。平成六年度の解体修理では、栗石の一部に大型石材を使用していることや、石材を一尺(約30cm)単位の規格で割ろうとした矢穴跡を確認しています。その石垣の裏からは、宝筐印塔の一部も見つかっています。また、馬場と三の丸を区画する位置(櫓台北側)では、門礎石と、その下層にこれより古い時期の石垣を発見しています。その礎石の上には、玉砂利・名護屋城期建物の瓦・崩壊した石垣の順に堆積していることから、少なくとも①「古い石垣」期、②「門存在」期、③「門解体玉砂利敷」期、があったと推定されます。なお、本丸側の石垣は、自然の岩盤を加工し、直接築いています。

(写真をクリックすると大きくなります)名護屋城本丸跡石碑

この名護屋城は加藤清正、寺沢広高が普請奉行となって、九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で8か月後の文禄元年(1592年)3月に完成しました。規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであった。本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に5重7階の天守が築かれました。城跡からは金箔を施した瓦が出土しており、天守に葺かれていたものと考えられています。城郭の周辺には各大名の陣屋が配置されました。

(写真をクリックすると大きくなります)名護屋城天守台 跡石碑
名護屋城天主臺址とある。
(写真をクリックすると大きくなります)本丸跡から二の丸全景を望む
また、二ノ丸には北西側に船手口という出入り口があります。北東側には次の曲輪、遊撃丸へと続く虎口があります。
(写真をクリックすると大きくなります)本丸跡から遊撃丸を望む①

遊撃丸は文禄二年(1593年)に明国の講和使節(遊撃将軍)が滞在し、もてなしを受けた曲輪といわれています。平成元年度と二年度(1989年~1990年)の石垣修理に伴う発掘調査で、門礎石・石段・玉砂利敷が新たに発見されました。特に船手門や天守台北側からは金箔瓦が出土しています。遊撃丸や天守台の石垣は、自然石を半分に割り、割った面を表面に見せる「打込みはぎ」の石積が顕著です。

(写真をクリックすると大きくなります)本丸跡から遊撃丸を望む②
(写真をクリックすると大きくなります)本丸跡から遊撃丸を望む③
(写真をクリックすると大きくなります)三の丸石垣跡から本丸を望む
(写真をクリックすると大きくなります)馬場櫓台跡
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この櫓台は本城の櫓配置の中でも特異な例であり、なぜか馬場の通路途中に設けられています。平成七年度に解体修理を実施しましたが、石材として、鏡石状の大石だけに野面石、その他には割石を用いている点や、割石の裏側に石割りの失敗や作業を中止した痕跡を残す点に他と異なる特徴があります。また、櫓台内部をすべて栗石で造り上げていることも判明していいますが、その中には大型石材の混入も複数ありました。また、櫓台西方の石垣上部と馬場通路面には、10cm程度の海岸産玉砂利が敷きつめられていました。

(写真をクリックすると大きくなります)名護屋城搦手口

前方の斜面は搦め手口と呼ばれる、名護屋城に五つある虎口(城の出入り口)のひとつです。搦め手とは城の裏側という意味で、表側の大手に対する言葉です。城の守りを固めるために通路を屈折させた、典型的な喰違い虎口の形状をしており、櫓台下側では瓦敷排水溝跡が見つかりました。

(写真をクリックすると大きくなります)名護屋城搦手口石垣に残された矢穴
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矢穴は石垣の石を切り出す際に鉄の矢を打ち込んだ穴です。大きな岩にミシン目のように穴を穿ち,そこに矢を打ち込んで石を切り出したのです。従って,矢穴は基本的に石の真ん中ではなく,端に見られるものですが,中には岩が硬すぎて割れず断念したことにより,真ん中に見られる場合も有ります。また,石垣でも加工した石を用いない野面積みの石垣にはあまり見られません。

(写真をクリックすると大きくなります)名護屋城搦手口
(写真をクリックすると大きくなります)名護屋城本丸石垣跡
(写真をクリックすると大きくなります)名護屋城弾正丸石垣跡