今日はです
国宝 瑠璃光寺 ① ― 2008年07月31日 10時30分23秒
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瑠璃光寺入り口石碑
瑠璃光寺 (るりこうじ)
曹洞宗。山号は保寧山。
守護大名・大内氏の家臣・陶(すえ)弘房は主君・大内政弘と共に応仁の乱で戦い、応仁2年(1468年)京都・相国寺で戦死。夫人の仁保氏が文明3年(1471年)に吉敷(よしき)郡仁保庄に安養寺を建立した。
後、寺領が狭いため隣山に寺を建て、弘房の持仏・薬師如来を移し、安養寺を廃して保寧山瑠璃光寺と号した。
天正14年(1586年)、吉川元春の逝去の折、瑠璃光寺が霊牌所となって一時寺名を変えたが、元禄3年(1690年)再び瑠璃光寺の名にもどり、現在の場所(大内義弘が建立した香積寺の地所)に移された。
寺宝として享禄2年(1529年)、安芸洞雲寺から寄進された延徳年間(1489~92)の「正法眼蔵」の写本(瑠璃光寺本16冊83巻)がある。「正法眼蔵」の完備したものとしては日本最古の写本。
瑠璃光寺入り口石碑
瑠璃光寺 (るりこうじ)
曹洞宗。山号は保寧山。
守護大名・大内氏の家臣・陶(すえ)弘房は主君・大内政弘と共に応仁の乱で戦い、応仁2年(1468年)京都・相国寺で戦死。夫人の仁保氏が文明3年(1471年)に吉敷(よしき)郡仁保庄に安養寺を建立した。
後、寺領が狭いため隣山に寺を建て、弘房の持仏・薬師如来を移し、安養寺を廃して保寧山瑠璃光寺と号した。
天正14年(1586年)、吉川元春の逝去の折、瑠璃光寺が霊牌所となって一時寺名を変えたが、元禄3年(1690年)再び瑠璃光寺の名にもどり、現在の場所(大内義弘が建立した香積寺の地所)に移された。
寺宝として享禄2年(1529年)、安芸洞雲寺から寄進された延徳年間(1489~92)の「正法眼蔵」の写本(瑠璃光寺本16冊83巻)がある。「正法眼蔵」の完備したものとしては日本最古の写本。
国宝 瑠璃光寺 ② ― 2008年07月31日 10時34分09秒
国宝 瑠璃光寺 ③ ― 2008年07月31日 10時45分26秒
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山口市香山町瑠璃光寺の境内にある。柱間が三間四方(5.11m)、の五重塔で、高さは31.2m、屋根は桧皮(ひわだ)葺きである。この地に古く大内義弘が建立した香積寺があった。この五重塔も香積寺の遺物で、義弘の弟大内盛見が、義弘の菩提のために建立したという。1916年(大正5)に塔を解体修理した時に、組物の斗に嘉吉二年(1442年にあたる)と書かれた墨書が発見された。様式手法から、その頃の建立と見てよい。塔の外観は各重の軒の出が深く、屋根勾配はゆるい。各重の屋根は上にいくに連れかなり小さくなっていき、安定した美しい姿を見せている。室町時代のすぐれた建築の一つであるとともに、大内氏隆盛時の文化を示す遺構としても意義が深い。建築手法は和様であるが、二重の手摺の逆蓮柱や、内部の円形須弥壇(しゅみだん)にわずか禅宗様式が用いられている。この禅宗様式の円形須弥壇は他に例がなく珍しい。香積寺は江戸時代初期に解体され、その跡地に瑠璃光寺が移転された経緯があり、現在は瑠璃光寺五重塔と呼ばれている。
山口市香山町瑠璃光寺の境内にある。柱間が三間四方(5.11m)、の五重塔で、高さは31.2m、屋根は桧皮(ひわだ)葺きである。この地に古く大内義弘が建立した香積寺があった。この五重塔も香積寺の遺物で、義弘の弟大内盛見が、義弘の菩提のために建立したという。1916年(大正5)に塔を解体修理した時に、組物の斗に嘉吉二年(1442年にあたる)と書かれた墨書が発見された。様式手法から、その頃の建立と見てよい。塔の外観は各重の軒の出が深く、屋根勾配はゆるい。各重の屋根は上にいくに連れかなり小さくなっていき、安定した美しい姿を見せている。室町時代のすぐれた建築の一つであるとともに、大内氏隆盛時の文化を示す遺構としても意義が深い。建築手法は和様であるが、二重の手摺の逆蓮柱や、内部の円形須弥壇(しゅみだん)にわずか禅宗様式が用いられている。この禅宗様式の円形須弥壇は他に例がなく珍しい。香積寺は江戸時代初期に解体され、その跡地に瑠璃光寺が移転された経緯があり、現在は瑠璃光寺五重塔と呼ばれている。
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