薩摩・別府城 (鹿児島県) ― 2012年12月16日 18時34分44秒
名 称 : 別府城 (べっぷじょう) 別 名 : 加世田城
築城年間 : 治承元年(1177年)
築城者 : 別府 五郎忠明(べっぷごろうただあき)
主な改修者 : 島津氏
城 主 : 島津氏
形 式 : 平山城
所在地 : 鹿児島県南さつま市加世田武田
この別府城は、平安時代末期の治承元年(1177年)別府五郎忠明によって築かれました。別府氏は桓武平氏・平良文流で、忠明の時に別府姓を名乗り別府城を居城として代々続きましたが、室町時代の応永27年(1420年)別府氏は島津家第八代当主、島津久豊に降伏して別府城は島津氏の城となり、その後、加世田の地は島津久豊の次男・用久に始まる島津氏庶流(分家)で出水(いずみ)を領した薩州家の所領になりました。
薩州島津氏は戦国時代の島津氏の三州(薩摩・大隅・日向)領国統一平定戦の前半の過程では、薩州島津氏の島津実久は、島津氏代14代当主・勝久の跡目争いで、伊作(兼)相州島津氏の日新斎島津忠良公や、その子で島津氏第15代当主・島津貴久公と戦い、一族内のライバルでした。忠良公に始まる3代に渡る島津氏国内平定戦の初期の過程で、天文8年(1539年)正月の加世田別府城の戦いで忠良公は実久軍を破って別府城を手に入れ、南薩をほぼ制圧しました。同年8月の市来鶴丸城(市来鶴丸城跡)の戦いにおいて実久の弟・忠辰を討ち取ったことにより実久は降伏し、島津宗家の薩摩国制圧がほぼ完了しました。
現在では尼ヶ城公園として整備されています。別府城跡の石碑が建てられているのみで遺構はまったく残っていません。公園の東側には別府五郎忠明を奉った別府神社があります。
この階段は当時では148階段あったようですが城跡を切り崩した為現在では74階段となりました。
尼ヶ城公園内にはネズミと落花生を模った滑り台が目に映ります。 この地特産の落花生(ピーナツ)畑が多く有名なようです。そこで遊具もネズミがピーナツをかじっている様子を再現しています。
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