日向 佐土原城 (宮崎県) ― 2013年09月05日 07時40分29秒
名 称 : 佐土原城 (さどわらじょう) 別 名 : 田島城・鶴松城
築城年間 : 建武年間
築城者 : 田嶋休祐(たじまきゅうすけ)
主な改修者: 田嶋氏、伊東義祐、島津忠興
城 主 : 田嶋氏、伊東氏、島津氏
形 式 : 山 城
所在地 : 宮崎県宮崎市佐土原町上田島字追手
(写真をクリックすると大きくなります)===佐土原歴史資料館===
日向 佐土原城 (田嶋城)
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佐土原城は、建武年間に伊東氏の一族、田島休祐によって築かれました。 その後、日向の国の大半を制した伊東義祐の隠居城となり、義祐によって城の規模も拡大されました。
その後 天正5年、伊東氏は島津義久に敗れ豊後に逃れた後、義久の実弟島津家久が城主となりました。 天正15年、豊臣秀吉の九州征伐後も家久が城主となることになったが、豊臣秀長が家久を恐れて密かに毒殺されたと云われている。
慶長5年、島津豊久(家久の子)が関ヶ原の合戦で戦死して一時天領となったが、慶長8年に島津以久が3万石を領して入封、以後明治まで領しその後。
寛永14年、4代忠高のときに山上の城郭を廃して山麓に居を移した。 さらに、明治3年に最後の城主忠寛が政庁を広瀬陣屋に移し、佐土原城を廃城としました。
佐土原城は、明治に広瀬陣屋へ移る時には堀も埋められ水田・畑となっていましたが、現在の発掘調査の結果、二の丸御殿跡に御殿を一部復元し歴史民族資料館「鶴松館」が建てられています。
また江戸時代初期に山頂部にあった曲輪群は破却されていますが、現在では史跡公園として整備されています。佐土原城は、本丸をはじめ5つの曲輪が階段的に配置された山城の縄張りで、最盛期には三層の天守が存在したことが発掘調査で確認されています。
(写真をクリックすると大きくなります)===二条城を参考にした鶴松館===宮崎市佐土原歴史資料館は、佐土原城二の丸居館の一部を復元した「鶴松館」(平成5年(1993年)6月開館)・同城御普請所跡に建設されました。この「鶴松館」では、掛け軸・屏風・鎧兜・刀剣といった佐土原島津家の調度品が展示されています。入館料は無料です。
ここは、藩主が日常政務をとる書院の外観を復元しています。内部は、古代から近現代にかけての佐土原の歴史をわかりやすく展示・解説しています。
(写真をクリックすると大きくなります)===築山枯山水式庭園===この庭は、発掘調査や文献などからも明確な資料は現れていないので、城館を引き立たせる庭、また学習の為の庭と言う考えを主体に現在まで培われた三大日本庭園様式の中から敷地を考慮し、平庭式及び茶庭式庭園を取り入れて整備したものです。
===現地説明版より===コメント
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