熊野磨崖仏 (大分県) ― 2018年10月30日 11時56分10秒
名 称 ・み仏の里 熊野磨崖仏
所在地 ・大分県豊後高田市田染平野
駐車場 ・有り(無料)
紀州熊野から田染に、お移りになった権現さまは霊験あらたかで、近郷の人々はお参りするようになってからは家は栄え、健康になりよく肥えていた。その時、何処からか一匹の鬼がやってきて住みつきました。鬼はこのよく肥えた人間の肉が食べたくてしかたないが権現さまが怖くてできなかった。 然しどうしても食べたくなってある日、権現さまにお願いしたら、「日が暮れてから翌朝鶏が鳴くまでの間に下の鳥居から神殿の前まで百段の石段を造れ、そうしたらお前の願いを許してやる。然しできなかったらお前を食い殺すぞ」 と云われた。権現さまは一夜で築くことはできまいと思って無理難題を申しつけたのですが鬼は人間が食べたい一心で西叡山に夕日が落ちるて暗くなると山から石探して運び石段を築きはじめました。
真夜中頃になると神殿の近くで鬼が石を運んで築く音が聞こえるので権現さまは不審に思い神殿の扉を開いて石段を数えてみるともう九十九段を築いて、下の方から鬼が最後の百段目の石をかついで登って来る。権現さまはこれは大変と、かわいい里の人間が食われてしまう、何とかしなければと、お考えになり声高らかに、コケコウーロと鶏の声をまねられたら、これを聞いた鬼はおわてて「夜明けの鶏が鳴いた、もう夜明けか、わしはこのままでは権現さまに食われてしまう、逃げよう」と最後の石をかついだまま夢中で山の中を走り、一里半(6キロ)ほど走ってやっと平地に出ましたが、息がきれて苦しいので、かついだ石を放ったら石が立ったまま倒れないので、そこを立石(速見郡山香町)と呼ぶようになった。
鬼はそのまま倒れて息絶えた。これを聞いた里人たちは、これで安心して日暮らが出来る。これも権現さまのおかげと、岩に彫んだ大日さまのお加護であると朝夕感謝するようになった。
===熊野磨崖仏パンフレットより===(写真をクリックすると大きくなります)===大日如来像===
大日如来像は、高さ約6.7メートルの半身像。高さ約8メートルのくぼみ(龕(がん))の中に彫り出されています。螺髪等の造形的特徴から、不動明王像よりも制作年代が下ると推定されている。通常の大日如来像は菩薩形(髻を結い、装身具を着ける)に造形されるが、本像は頭髪を螺髪としており、本来の像名は不明である。重要文化財指定名称は「如来形像」となっています。
(写真をクリックすると大きくなります)===不動明王像===
不動明王像は、高さ約8メートルの半身像。比較的軟らかく加工しやすい岩壁に刻まれており風化が進行しているため、不動明王像ではあるが憤怒の相は現さず、口元に柔和な笑みを浮かべているようにも見える。左右両脇には高さ約3メートルの矜羯羅童子、制多迦童子像の痕跡が認められる。
西郷隆盛宿陣跡 (宮崎県) ― 2014年08月27日 11時20分59秒
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西郷隆盛宿陣跡
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所在地 ⇒ 宮崎県延岡市北川町長井6727
名 称 ⇒ 西郷隆盛宿陣跡資料館(南洲翁寓居跡)
県指定 (史跡)⇒ 昭和8年12月5日南洲翁寓居跡指定
南洲翁寓居跡(旧児玉熊四郎宅)は西南の役最後となる延岡、和田越の決戦に敗れた西郷隆盛が明治10年8月15日から17日の夜の可愛嶽突破まで宿陣したところである。ここで解散布告を出し、最後の軍議を重ねており重要書類や当時日本で唯一一つしかなかった陸軍大将の軍服も焼いたとされている。 昭和8年12月5日には史跡として県指定を受けている。資料館には当時西郷隆盛が愛用した硯・船型枕などの遺品の他、種々の戦争資料が展示されています。延岡市北川町内にはこの他、陸地(かちじ)、矢ヶ内、宗太郎峠など数多くの激戦地跡や宿陣跡(吉祥寺・旧小野彦治宅)野戦病院跡(成就寺)、中津大四郎(滝口隊長)、小倉処平(飫肥隊)の自刃の地など多くの史跡が点在しています。 |
⇔ (click..play)可愛嶽突破・音声説明
1877年(明治10年)8月15日「和田越の戦」に敗れた西郷軍は、北川町俵野の児玉熊四郎宅に窮した。同16日には党薩諸隊に対し、解散令を出した。同17日の軍議は降伏か、決戦か、突破かの選択がせまられた。午後4時、西郷隆盛は「全軍まず進んで三田井に出、然る後その方向を決するも遅からず」との決意を表明した。
午後10時、可愛嶽突囲戦
18日午前4時半、英式ラッパの一声で総攻撃が開始された。ふいをつかれた官軍は総くずれとなり、第一旅団、野津少将は日の谷へ、第二旅団、三好少将は屋敷野の前衛隊へ逃れた。可愛嶽突破に成功した西郷軍は、西に進み、和久塚地蔵谷で一夜を明かし、上祝子でさらに一夜を明かし、20日に鹿川を越え、鹿児島への敗走の途についた。
===現地説明版より===明治10年8月15日の和田越え決戦に敗れた薩軍幹部は15日~17日と西郷隆盛の宿である。ここ児玉熊四郎宅に集まり、最後の軍議を開きました。周囲を完全に官軍に囲まれた状況下で、この地で決戦か降伏か、また、どの方向に向かう突囲かで激論となりましたが、西郷が「まず可愛嶽を突囲し、三田井に出る。それからのことはまた考えれば良い」と決断をくだしました。この場面は、その時の様子を再現したものです。
⇔ (click..play)最後の軍議の様子音声説明
(写真をクリックすると大きくなります)===最後の軍議の様子の再現===薩軍の最期が近づいたことを悟ったのか、西郷はここで当時日本に一つしかなかった陸軍大将の軍服や重要書類を焼いたとされている。
沈堕の滝 (大分県) ― 2011年11月27日 06時05分06秒
名 称:沈堕(ちんだ)の滝
所在地:大分県豊後大野市(旧大野町)清川町臼尾
これが雪舟が訪れ描いた鎮田瀑図である。雪舟が明国で会得した山水画の真髄を結集した作品といわれています。
(click..play)大分県の母なる川「大野川」は、源を遠く宮崎県五ヶ所(高千穂町)に発し、熊本県阿蘇郡から大分県直入郡をへて、この大野の地に至っている。名瀑「沈堕の滝」は、大野川本流にかかる幅百余メートル、高さ二十メートルの懸崖を落下する雄滝と、支流平井川かかる幅四メートル、高さ十八メートルの雌滝の二瀑からなり、その壮大な景観は「豊後のナイアガラ」とも呼ばれている。昔は遠く関東まで知られ多くの人々に絶賛され、なかでも室町時代のかの有名な「画聖」雪舟が訪れ描いたのが「鎮田瀑図」である。雪舟が明国で会得した山水画の真髄を結集した作品といわれている。当時の画家は寺院や邸宅の部屋に居座しながら描いたものであるが、雪舟は自然のありのままを描いており、数々の名作もこの作品を起点にされたという。この名瀑布の莫大なエネルギーは、明治時代末期に沈堕発電所の建設により電力に変えられた。この電力は、別府大分間の電車を走らせ、家庭用電力はもとより大分県の産業開発の原動力となり、文明開化の糸口となったのである。雄滝と雌滝の間にある西洋技術を取り入れた石造建築物がその発電所跡である。また、この沈堕の滝には古くから歴史的史実や竜神にまつわる伝説、言伝えも数多く残っている。
(写真をクリックすると大きくなります)===沈堕の滝===1909年(明治42年)に豊後電気鉄道株式会社によって別府<-->大分間の電車を運行するために沈堕発電所が建設されました。雄滝のすぐ上流に取水用の堰が設けられ、1923年(大正12年)には堰がかさ上げされたため水量が減少して往時の景観が損なわれました。しかし、1996年(平成8年)からの堰堤強化工事に伴い、常に一定量の放流が行われるようになり、かつての壮大な景観を取り戻しました。西洋技術を取り入れた石造建築物の沈堕発電所跡地です。
朝倉三連水車 (福岡県) ― 2011年11月08日 06時34分09秒
所在地:福岡県朝倉郡朝倉町菱野
当時、絶え間なく押し寄せる筑後川の洪水や、かんばつ、ききん等天災異変の中に幾多の犠牲と死闘を繰り返しつづけてきた祖先が新田開発のため、寛文3年(1663年)筑後川から水を取り入れることにより堀川を造った。 更に60年後の享保7年(1722年)岩盤を切り貫き現在の取入口を新設した。 しかし、山側の土地は位置が高いため、堀川の恩恵を受けることができなかった。そのためにこの土地では自動回転式の水車が設置されたのである。 三連水車は寛政元年(1789年)に設置されており、三島、九重(ひさしげ)の二連水車も同じく宝暦のころに設置されたものと思われる。 毎年6月中旬から10月中旬まで作動し、かんがい面積は、3基で35ヘクタールにもおよぶ。
寛政2年(1790年)当時の庄屋古賀百江を中心にして、堀川の水量を増加させかんがい面積を増やすために筑後川(堀川取水口上部)に山田堰を造った。 表面積25.370㎡で、今日もなお昔の面影をとどめ堀川への導水を容易にし、670ヘクタールの美田をうるおしている。
(写真をクリックすると大きくなります)享保7年(1722年)安定した水量を確保するために旧取水口を現在の位置に移した。内部は巨大な岩をノミでくり貫いたトンネルになっている。 当時、長さ11間(約20m)内法5尺(約1.5m)四方で新設され、その後数回の改修が行われ内法10尺(約3.0m)四方に拡げられ、現在に至っている。
寛政元年(1789年)もともと二連式だったものに一挺加えることで現在の形態になった。 車の直径は上部4.76m、中部4.30m、下部3.98mで、この大きさは、水車の回転数、水田の高さ、揚水の量と密接な関りをもち、一日当り7.892tを揚水し13.5ヘクタールの水田をかんがいしている。
鋼製三連水車朝倉を代表する文化的遺産として人々の生活を潤している三連水車は、寛政元年(1789年)に設置されました。その当時、洪水、干ばつ、そして飢饉といった天災異変のなか、新田開発のために堀川用水路を造った祭、その恩恵をうけることができるようにと自動回転式の水車が設置されたのです。現在では、本公園より約450m下流に菱野の三連水車、それより約130m下流に三島の二連水車の水車群が、毎年灌漑期の6月中旬から10月中旬まで稼動しています。この鋼製の三連水車は、水車群を代表する菱野の三連水車と同規模のステンレス製であり、モーター駆動方式の水車です。堀川用水路から導水管により本公園内の水路を経由してまた堀川用水路に流出させています。










⇒人物配置図 [ここをクリックすると大きくなります]





















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