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日出城 別 称:暘谷(ようこく)城) ①2008年07月09日 09時11分03秒

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(1601年徳川家康から3万石を与えられた木下延俊が築城工事に着工、翌慶長7年(1602)に完成した城です。  木下延俊は豊臣秀吉の正室北政所の実兄・姫路城主木下家定の三男であった。わずか3万石の小大名が短期間で日出城を完成させたのは、当時、豊前中津城主の細川忠興(木下延俊の義兄)が自ら縄張りを担当し、多大な援助を惜しまなかったからである。  細川忠興は自ら縄張りを担当し、築城人夫や石垣積みの名手を派遣するなど大変な力の入れようであった。  寛永18年(1641)木下延俊の遺言によって木下氏二代俊治が弟延由を5千石で立石に分知した。立石木下家は旗本の石高ながら大名に準じた扱いを受け、12代続いて明治まで存続。  日出城主2万5千石の本家木下家も江戸時代を通じて替わることなく16代で明治維新を迎える。  なお、日出城は小城ながら堅城であったため、三代藩主木下俊長が中国古書『淮南子(えなんじ)』より引用して暘谷城と命名した。今でも暘谷城跡とも呼ばれている。
日出城は国東半島東側の入口に位置し、別府湾を見下ろす崖の上に築かれていた。本丸は海に面した南方以外は堀をめぐらし、三層の複合天守のほか6基の櫓、3つの城門を周囲に配置。これを二の丸、三の丸、さらに町屋が総構えで防備するという堅城であった。  現在、本丸跡は日出小学校となっているが、校庭の東側には「日出城の時鐘」がある。この時鐘は三代藩主木下俊長が元禄8年(1695)に鋳造させ、外大手門近くの土居に懸けて毎日十二刻の時を報せていた。現在の時鐘は鐘楼とともに平成2年に新しく造りかえられたもの。  小学校を取り囲むように、水は湛えていないものの堀と石垣が残り、在りし日の日出城の名残りをとどめている。  校庭の東南隅に残る天守台の高石垣は細川忠興が力を注いで築いたものだけに実に見事なもの。  天守台から眺める別府湾と高崎山の風景は美しく、本丸跡下の城下海岸は公園として整備され、遊歩道を散策すれば別府八景の名に恥じぬ眺望が楽しめる。
  日出城跡の本丸下の海岸は城下海岸と呼ばれ、この海中の真清水が湧く一帯は全国的に有名な「城下かれい」の名で知られるマコガレイの生息地。  高浜虚子の「海中に真清水湧きて魚育つ」の句碑が建ち、城下かれいの旬である5月から7月上旬頃までは全国から食通が訪れる。

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