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平田城(白米城)跡 ①2009年03月08日 14時28分25秒

写真をクリックすると大きくなります===現地説明板===
=== 平田城は建長年間長岩城主、野中重房が築城し、平田掃部介の居城であった。天正年間、黒田勢が長岩城を攻め落とし、戦功のあった栗山備後が城主となり「黒田騒動」で名高い栗山大膳(栗山備後の長子)は此の城で少年期を過ごしている。===
◇◇◇平田城(白米城)◇◇◇
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平田城は建長年間長岩城主、野中重房が築城し、平田掃部介の居城であった。
天正年間、黒田勢が長岩城を攻め落とし、戦功のあった栗山備後が 城主となり「黒田騒動」で名高い栗山大膳(栗山備後の長子)は此の城で少年期を過ごしている。

===現地説明板より===

平田城(白米城)跡 ②2009年03月08日 14時35分18秒

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===天正十年六月、織田信長が明智光秀の謀叛で斃され、光秀を討ち取った羽柴秀吉が天下人に駆け上った。そして、九州征伐のなった天正十五年、孝高は豊前国六郡を与えられたのである。このとき栗山備後守利安は、六千石を与えられ黒田家中屈指の大身に出世した。ところが、豊前国城井谷には鎌倉時代以来の豪族宇都宮(城井)氏が割拠しており、豊臣秀吉の伊予移封の命にも従わず、新領主として入部してきた孝高の前に立ち塞がったのである。 宇都宮氏は一族を諸処に配し、当主鎮房も武勇の将として知られていた。秀吉から討伐の命を受けた孝高は一計を案じて宇都宮氏を討ち取り、天正十六年、城井谷を攻撃した。このとき、栗山備後守利安は後藤又兵衛等とともに孝高に従って、宇都宮一族野中氏が守る長岩城に迫った。戦いは三日三晩にわたって繰り広げられ、ついに落城、野中氏は滅亡した。戦後、孝高は長岩城攻めで戦功をあげた栗山備後守利安に対し、長岩城代を命じて中津城の守りを固めました。  翌年、孝高は隠居して如水軒圓清と号し、利安は長政に仕えるようになった。文祿元年(1592年)の朝鮮陣に際して、利安は母里太兵衞とともに長政に従って渡海しました。 ===
◇◇◇栗山備後守◇◇◇

(click..play)(click..play) 天正十年六月、織田信長が明智光秀の謀叛で斃され、光秀を討ち取った羽柴秀吉が天下人に駆け上った。そして、九州征伐のなった天正十五年、孝高は豊前国六郡を与えられたのである。 このとき栗山備後守利安は、六千石を与えられ黒田家中屈指の大身に出世した。ところが、豊前国城井谷には鎌倉時代以来の豪族宇都宮(城井)氏が割拠しており、豊臣秀吉の伊予移封の命にも従わず、新領主として入部してきた孝高の前に立ち塞がったのである。 宇都宮氏は一族を諸処に配し、当主鎮房も武勇の将として知られていた。秀吉から討伐の命を受けた孝高は一計を案じて宇都宮氏を討ち取り、天正十六年、城井谷を攻撃した。 このとき、栗山備後守利安は後藤又兵衛等とともに孝高に従って、宇都宮一族野中氏が守る長岩城に迫った。戦いは三日三晩にわたって繰り広げられ、ついに落城、野中氏は滅亡した。 戦後、孝高は長岩城攻めで戦功をあげた栗山備後守利安に対し、長岩城代を命じて中津城の守りを固めました。 翌年、孝高は隠居して如水軒圓清と号し、利安は長政に仕えるようになった。文祿元年(1592年)の朝鮮陣に際して、利安は母里太兵衞とともに長政に従って渡海しました。

平田城(白米城)跡 ③2009年03月08日 14時40分16秒

(写真をクリックすると大きくなります)===平田城跡木碑===
=== 由緒===平田城は建長年間長岩城主、野中重房が築城し、平田掃部介の居城であった。天正年間、黒田勢が長岩城を攻め落とし、戦功のあった栗山備後が城主となり「黒田騒動」で名高い栗山大膳(栗山備後の長子)は此の城で少年期を過ごしている。と記している。===
石段を上がると左側に木碑があります。内容は下記の通りです。
◇◇由緒◇◇
平田城は建長年間
長岩城主、野中重房が築城し、平田掃部介の居城であった。 天正年間、黒田勢が長岩城を攻め落とし、戦功のあった 栗山備後が城主となり「黒田騒動」で名高い栗山大膳(栗山備後の長子)は此の城で少年期を過ごしている。と記している。

平田城(白米城)跡 ④2009年03月08日 14時44分31秒

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===この石段を上がると本丸跡は小高い丘であるが眺めもよく、前には山国川も一望できる。現在は神社や忠霊塔が建ています。また桜の名所として地域の憩いの場となり、麓の町丈集落は当時の城下町で上町下町があり、米の生産に恵まれた所であったようです。それで、お城の名前も別名白米城とも言われていた。また、お城に関連した地名が数多く残っています。 ===
(click..play)(click..play) この石段を上がると本丸跡は小高い丘であるが眺めもよく、前には山国川も一望できる。現在は神社や忠霊塔が建ています。また桜の名所として地域の憩いの場となり、麓の町丈集落は当時の城下町で上町下町があり、米の生産に恵まれた所であったようです。それで、お城の名前も別名白米城とも言われていた。また、お城に関連した地名が数多く残っています。

平田城(白米城)跡 ⑤2009年03月08日 14時51分00秒

(写真をクリックすると大きくなります) 平田城南側曲輪跡
===>◇平田城南側曲輪跡◇ ◇曲輪 (くるわ)とは◇ 一定の地域を限って、その周囲と区別するために設けた囲い、つまり城や砦(とりで)の周りに築いた土塁や石垣などをいう。また囲まれたその一区画の地域をいう場合もある。歴史的な名称や固有名詞のときは曲輪の字を用いるが、最近の城郭研究では郭の字を用いることが多い。 ===
◇平田城南側曲輪跡◇ ◇曲輪 (くるわ)とは◇
(click..play)(click..play) 一定の地域を限って、その周囲と区別するために設けた囲い、つまり城や砦(とりで)の周りに築いた土塁や石垣などをいう。また囲まれたその一区画の地域をいう場合もある。歴史的な名称や固有名詞のときは曲輪の字を用いるが、最近の城郭研究では郭の字を用いることが多い。

平田城(白米城)跡 ⑥2009年03月08日 14時53分50秒

(写真をクリックすると大きくなります) ◇◇◇平田城曲輪跡◇◇◇

平田城(白米城)跡 ⑦2009年03月08日 14時56分24秒

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        ◇◇◇平田城の石垣と曲輪跡◇◇◇

平田城(白米城)跡 ⑧2009年03月08日 14時58分32秒

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     ◇◇◇平田城跡曲輪と石垣跡◇◇◇

平田城(白米城)跡 ⑨2009年03月08日 15時05分42秒

(写真をクリックすると大きくなります)◇◇◇説明版◇◇◇
◇◇◇立留りの景 国道212号線に接する巨岩の山で今から約200年前に一夜轟然と大音響を発して巌腹崩落して今日の景をなしたというこの景は、道行く人々が、自然立ち留まって眺めるので、この名が付いたという。◇◇◇
◇◇◇名勝耶馬渓◇◇◇
立留りの景
国道212号線に接する巨岩の山で今から約200年前に一夜轟然と大音響を発して巌腹崩落して今日の景をなしたというこの景は、道行く人々が、自然立ち留まって眺めるので、この名が付いたという。
===現地説明板より===

平田城(白米城)跡 ⑩2009年03月08日 15時12分30秒

(写真をクリックすると大きくなります) ===立ち留りの景===
◇◇◇平田城跡よりの眺望は素晴らしい。目の前に聳える岩山、すぐそばに山国川が流れているこの一帯は奇形の岩が多く点在しいる。この岩山は国道212号線に接する巨岩の山で今から約200年前に一夜轟然と大音響を発して巌腹崩落して今日の景をなしたというこの景は、道行く人々が、自然立ち留まって眺めるので、この名が付いたという。◇◇◇
(click..play)(click..play) 平田城跡よりの眺望は素晴らしい。目の前に聳える岩山、すぐそばに山国川が流れているこの一帯は奇形の岩が多く点在しいる。この岩山は国道212号線に接する巨岩の山で今から約200年前に一夜轟然と大音響を発して巌腹崩落して今日の景をなしたというこの景は、道行く人々が、自然立ち留まって眺めるので、この名が付いたという。