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赤間神宮(山口県下関市)2010年06月02日 11時32分35秒

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===水天門===
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写真をクリックすると大きくなります。◇◇◇赤間神宮◇◇◇御祭神 第八十一代 安徳天皇   御祭日 五月三日先帝祭 十月七日例大祭 寿永四年三月二十四日源平壇浦合戦に入水せられた御八歳なる御幼帝をまつる天皇社にして下関の古名なる赤間関に因みて赤間神宮と宣下せらる。昭和二十年七月戦災に全焼せるも同四十年四月二十四日御復興を完成し同五十年十月七日御創立百年祭を斎行、同六十年五月二日勅使御参向のもと高松宮同妃両陛下の御台臨を仰ぎ御祭神八百年式年大祭の盛儀を厳修せり ◇◇◇水天門記 ◇◇◇惟時昭和三十二年十一月七日 大洋漁業副社長中部利三郎氏は率先多額の御寄進に加えて曰く即ち関門海底国道隧道の完成と下関市制七十周年大博覧会開催の秋 吾国未曾有の御由緒と関門の此の風光明媚とに鑑み水天門の建立こそ今日より急務なるはなしと 此処に 昭憲皇太后より賜はりし御歌 今も猶袖こそぬるれわたつ海の龍のみやこのみゆきおもへはに因みて龍宮造となし御造営し奉れは昭和三十三年四月七日畏くも天皇皇后両陛下此の神門の御通初め御参拝を賜はり 赤間神宮並に安徳天皇阿弥陀寺陵に詣でて と題し給ひて みなそこにしつみたまひし遠つ祖をかなしとそ思ふ書見るたひにの御製一首をも下し賜ひし空前の行幸啓に輝く水天門是なり ◇◇◇太鼓楼記◇◇◇水天神鎮の恩頼を蒙り奉る関門港湾建設社長靖原梅義氏は本宮崇敬会長として夙に敬神の念に篤く時恰も下関市制百周年を迎うるや本市の発展は陸の龍宮の具現に在りと太鼓楼の造立を発願せられ平成二年一月二十七日元旦を期し見事に竣成す蓋し新帝即位御大礼の佳歳にして全国民奉祝記念事業の嚆矢を以て除幕奉献せらる 打鳴らす鼓音とうとうと関門海峡にわたり国家鎮護世界平和の響き四海に満ち水天皇の神威愈を光被せむ ◇水天門掲額の記◇神門橋上に関門海峡を見はるかし黒漆地に金波輝く水天門の御額は寛仁親王殿下の御染筆をたまわり平成17年5月3日御祭神と仰ぐ安徳天皇八百二十年大祭に際して宮様お成りのもと思召を以て御自ら除幕を頂いたものであります。◇御神宝類 ◇重要文化財 平家物語長門本 全二十冊 同上 赤間神宮文書 全十巻一冊 山口県文化財 安徳天皇縁起絵巻図 全八幅 平家一門画像 全十幅 源平合戦図屏風 一双ほか 宝物殿にて適時公開す ===赤間神宮境内説明板より===

◇◇◇赤間神宮◇◇◇

御祭神 第八十一代 安徳天皇   御祭日 五月三日先帝祭 十月七日例大祭 寿永四年三月二十四日源平壇浦合戦に入水せられた御八歳なる御幼帝をまつる天皇社にして下関の古名なる赤間関に因みて赤間神宮と宣下せらる。昭和二十年七月戦災に全焼せるも同四十年四月二十四日御復興を完成し同五十年十月七日御創立百年祭を斎行、同六十年五月二日勅使御参向のもと高松宮同妃両陛下の御台臨を仰ぎ御祭神八百年式年大祭の盛儀を厳修せり

◇◇◇水天門記◇◇◇

惟時昭和三十二年十一月七日 大洋漁業副社長中部利三郎氏は率先多額の御寄進に加えて曰く即ち関門海底国道隧道の完成と下関市制七十周年大博覧会開催の秋 吾国未曾有の御由緒と関門の此の風光明媚とに鑑み水天門の建立こそ今日より急務なるはなしと 此処に 昭憲皇太后より賜はりし御歌  今も猶袖こそぬるれわたつ海の龍のみやこのみゆきおもへは に因みて龍宮造となし御造営し奉れは昭和三十三年四月七日畏くも天皇皇后両陛下此の神門の御通初め御参拝を賜はり 赤間神宮並に安徳天皇阿弥陀寺陵に詣でて と題し給ひて  みなそこにしつみたまひし遠つ祖をかなしとそ思ふ書見るたひに の御製一首をも下し賜ひし空前の行幸啓に輝く水天門是なり

◇◇◇太鼓楼記◇◇◇

水天神鎮の恩頼を蒙り奉る関門港湾建設社長靖原梅義氏は本宮崇敬会長として夙に敬神の念に篤く時恰も下関市制百周年を迎うるや本市の発展は陸の龍宮の具現に在りと太鼓楼の造立を発願せられ平成二年一月二十七日元旦を期し見事に竣成す蓋し新帝即位御大礼の佳歳にして全国民奉祝記念事業の嚆矢を以て除幕奉献せらる 打鳴らす鼓音とうとうと関門海峡にわたり国家鎮護世界平和の響き四海に満ち水天皇の神威愈を光被せむ

◇水天門掲額の記◇

神門橋上に関門海峡を見はるかし黒漆地に金波輝く水天門の御額は寛仁親王殿下の御染筆をたまわり平成17年5月3日御祭神と仰ぐ安徳天皇八百二十年大祭に際して宮様お成りのもと思召を以て御自ら除幕を頂いたものであります。

◇◇◇御神宝類◇◇◇

重要文化財 平家物語長門本 全二十冊 同上 赤間神宮文書 全十巻一冊 山口県文化財 安徳天皇縁起絵巻図 全八幅 平家一門画像 全十幅 源平合戦図屏風 一双ほか 宝物殿にて適時公開す

===赤間神宮境内説明板より===

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===左側太鼓楼と水天門===
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写真をクリックすると大きくなります。 ◇◇◇神門橋上に関門海峡を見はるかし黒漆地に金波輝く水天門の御額は寛仁親王殿下の御染筆をたまわり平成17年5月3日御祭神と仰ぐ安徳天皇八百二十年大祭に際して宮様お成りのもと思召を以て御自ら除幕を頂いたものであります。

神門橋上に関門海峡を見はるかし黒漆地に金波輝く水天門の御額は寛仁親王殿下の御染筆をたまわり平成17年5月3日御祭神と仰ぐ安徳天皇八百二十年大祭に際して宮様お成りのもと思召を以て御自ら除幕を頂いたものであります。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===水天門裏より前は関門海峡===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===大安殿===
この石段を上れば左側に社務所・宝物殿・平家一門の墓・芳一堂などがあります。
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===水天供養塔説明板===
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写真をクリックすると大きくなります。 ◇◇◇水天供養塔の由来、安徳天皇は、御位のまま御入水され水天皇・水天宮と申し上げます。吾が国民は、天皇の御守護のもと斯く永らへ安心して冥黙も出来ます。同時に亦、国民同胞の中に、或いは海難・水難にと幾多の水没者の方々は、即ち、水天皇さまの御膝元に冥りたく、此の石塔の台石下に幾多の小石に名を留めて納められています。人は名を留むる事に依り安心を得るもので、即ち是を水天供養塔と申します。 一、昭和二十五年三月建立 一、今次大戦中水歿者霊位

水天供養塔の由来、安徳天皇は、御位のまま御入水され水天皇・水天宮と申し上げます。吾が国民は、天皇の御守護のもと斯く永らへ安心して冥黙も出来ます。同時に亦、国民同胞の中に、或いは海難・水難にと幾多の水没者の方々は、即ち、水天皇さまの御膝元に冥りたく、此の石塔の台石下に幾多の小石に名を留めて納められています。人は名を留むる事に依り安心を得るもので、即ち是を水天供養塔と申します。

一、昭和二十五年三月建立 一、今次大戦中水歿者霊位
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===水天供養塔===

壇ノ浦古戦場址(山口県下関)2010年06月09日 23時07分02秒

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===壇ノ浦古戦場址===
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写真をクリックすると大きくなります。◇日本史の節目を刻む関門海峡◇  西へ東へと1日に4回、その流れの向きをかえる関門海峡。せまい所では、両岸の幅は700mあまりで、潮流の速度は、最高で約10ノット(時速18km)にもなります。また、瀬戸内海の入口に位置する地理的条件から、昔も今も交通の要衝で、日本の歴史の節目を刻む舞台となっています。 寿永4年(1185年)3月24日、平知盛を大将にした平家と、源義経が率いる源氏が、この壇ノ浦を舞台に合戦をした。当初は、平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると、源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められた。最期を覚悟した知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え8歳の安徳天皇を抱いて入水。知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していった。なお、この戦いにおいて義経は、平教経(のりつね)の攻撃を、船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を見せたといわれている。 ===現地石碑説明板より===

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◇日本史の節目を刻む関門海峡◇  西へ東へと1日に4回、その流れの向きをかえる関門海峡。せまい所では、両岸の幅は700mあまりで、潮流の速度は、最高で約10ノット(時速18km)にもなります。また、瀬戸内海の入口に位置する地理的条件から、昔も今も交通の要衝で、日本の歴史の節目を刻む舞台となっています。 寿永4年(1185年)3月24日、平知盛を大将にした平家と、源義経が率いる源氏が、この壇ノ浦を舞台に合戦をした。当初は、平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると、源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められた。最期を覚悟した知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え8歳の安徳天皇を抱いて入水。知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していった。なお、この戦いにおいて義経は、平教経(のりつね)の攻撃を、船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を見せたといわれている。


===現地石碑説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===源義経 彫刻像===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===平知盛 彫刻像===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===二位尼辞世===
写真左横にある石碑は安徳天皇御入水之処が記されています。
今ぞ知る みもすそ川の 御なかれ 波の下にも みやこありとは
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===天保長州砲===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===天保製長州砲===
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写真をクリックすると大きくなります。 幕末、関門海峡での6次にわたる攘夷戦は、元治元年(1864年)8月、 長州藩兵と英・仏・蘭・米4カ国連合艦隊との交戦をもって終結したが、 同時にこれは明治維新の具体的始動につながった。この歴史的事件 で下関海岸砲台に装備された長州藩の青銅砲は、すべて戦利品とし て外国に運び去られ国内から姿をけしていた。 1966年春、東欧中の作家古川薫氏がパリ・アンヴァリット軍事博物館 に保管されている攘夷戦長州砲を発見、以来返還運動が進められた が実現困難のところ、郷土出身の外務大臣安倍晋太郎氏の努力と フランス政府の好意によって1984年6月、貸与の形式で里帰りを見る に至った。この機会に下関東ロータリークラブでは、フランス政府の了 解を得、創立20周年記念行事として、これを原寸大かつ精密に模造し 下関市に寄贈した。 同長州砲は天保15年(1844年)萩藩の鋳砲家郡司喜平治信安の手に なるもので、幕末日本人の対外危機感を象徴する歴史的逸品である。 鎖国に眠っていた日本史がようやく世界史に組み入れられる瞬間を 目撃したこの物言わぬ証人を、海峡のほとりへ永久に安置しようとする のは、歴史に富むこの地の発展と世界平和を祈念する趣旨にほかなら ない。

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幕末、関門海峡での6次にわたる攘夷戦は、元治元年(1864年)8月、長州藩兵と英・仏・蘭・米4カ国連合艦隊との交戦をもって終結したが、同時にこれは明治維新の具体的始動につながった。この歴史的事件で下関海岸砲台に装備された長州藩の青銅砲は、すべて戦利品とし て外国に運び去られ国内から姿をけしていた。1966年春、東欧中の作家古川薫氏がパリ・アンヴァリット軍事博物館に保管されている攘夷戦長州砲を発見、以来返還運動が進められたが実現困難のところ、郷土出身の外務大臣安倍晋太郎氏の努力とフランス政府の好意によって1984年6月、貸与の形式で里帰りを見るに至った。この機会に下関東ロータリークラブでは、フランス政府の了解を得、創立20周年記念行事として、これを原寸大かつ精密に模造し下関市に寄贈した。同長州砲は天保15年(1844年)萩藩の鋳砲家郡司喜平治信安の手になるもので、幕末日本人の対外危機感を象徴する歴史的逸品である。 鎖国に眠っていた日本史がようやく世界史に組み入れられる瞬間を 目撃したこの物言わぬ証人を、海峡のほとりへ永久に安置しようとする のは、歴史に富むこの地の発展と世界平和を祈念する趣旨にほかなら ない。


===現地天保製長州砲説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===長州砲(八十斤加農砲)===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===長州砲(八十斤加農砲)===
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写真をクリックすると大きくなります。文久3年(1863年)5月から6月にかけて、長州藩は関門海峡を通る外国船を5回にわたって砲撃しました(攘夷戦)翌年8月、アメリカ・ イギリス・フランス・オランダの四国連合艦隊17隻が報復のため下関にやってきました。海峡の最もせまい所に築かれたこの壇之浦砲台は、前田砲台と共に重要な役割を果たしましたが、連合艦隊に大敗し、すべての砲台が占領・破壊されました。外国の進んだ軍備にめざめた長州藩は、開国・倒幕へと転換し、明治維新を実現する言動力となりました。

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文久3年(1863年)5月から6月にかけて、長州藩は関門海峡を通る 外国船を5回にわたって砲撃しました(攘夷戦)翌年8月、アメリカ・ イギリス・フランス・オランダの四国連合艦隊17隻が報復のため下関にやってきました。海峡の最もせまい所に築かれたこの壇之浦砲台は、前田砲台と共に重要な役割を果たしましたが、連合艦隊に大敗し、すべての砲台が占領・破壊されました。外国の進んだ軍備にめざめた長州藩は、開国・倒幕へと転換し、明治維新を実現する言動力となりました。