川之江城 (愛媛県) ― 2012年08月03日 04時29分33秒
名 称: 川之江城 (かわのえじょう) 別名: 仏殿 城
築城年間: 延元3年(1337年)~
築城者: 土肥義昌
城 主: 土肥氏、妻鳥氏、河上氏
形 式: 山 城
所在地: 愛媛県四国中央市川之江町
望楼部は基本的に、下層部の梁の上に載る形で築かれています。 この川之江城も望楼型の天守で、望楼部は物見櫓としての役割から回り縁を持っています。また接合部分は千鳥破風・唐破風を築き、防御性/装飾性を高めています。

南北朝動乱の頃、南朝方河野氏の砦として、土肥義昌が延元3年(1337年)鷲尾山(城山)に川之江城を築いた。 興国3年(1342年)北朝方細川頼春が讃岐より7千の兵を率いて攻めてきた。義昌は出城の畠山城主由良吉里と共に防戦したが破れ、城を落ち延びて各地を転戦した末、武蔵国矢口の渡で戦死している。 細川氏の領有後、河野氏に返され、城主は妻鳥友春になった。元亀3年(1572年)阿波の三好長治が攻め入ったが撃退している。
土佐の長宗我部氏の四国平定の力に抗しきれなかった妻鳥友春は、河野氏に背いて長宗我部氏に通じた。怒った河野氏は河上但馬守安勝に命じて、城を攻め取らせた。天正7年(1579年)前後のことと思われる。 河上但馬守は、轟城の大西備中守と戦い、討たれたという話も残っているが、天正10年(1582年)長曽我部氏の再度の攻撃に破れ、戦死落城している。その時、姫ヶ嶽より年姫が飛び込んで自殺したという秘話伝説も残っている。
天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国平定に敗れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替わり、加藤嘉明の時、最終的に廃城となった。数々の攻防は、川之江が地理的に重要な位置にあった為の悲劇といえる。 戦国の世も終わった寛永13年(1636年)一柳直家が川之江藩2万8600石の領主になり、城山に城を築こうとしたが、寛永19年(1642年)病没し、領地は没収されて幕領となり、明治に至ったため、わずか6年の「うたかたの川之江藩」で終わった。
===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)===川之江城・模擬天守涼櫓側から===この川之江城跡は本丸付近の石垣に僅かに名残りを留めるに過ぎませんでしたが、川之江市制施行30周年記念事業として城の再建がなされました。この櫓門は昭和61年に天守閣、涼櫓、櫓門、空塀などが復元されました。
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