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大洲城 (愛媛県)2012年08月14日 17時18分56秒

(写真をクリックすると大きくなります)===石垣に映える大洲城===

名  称 : 大洲城 (おおずじょう) 別 名 : 比志城 ・地蔵ヶ嶽城 ・大津城

築城年間 : 元徳3年(1331年)

築城者 :宇都宮豊房   主な改修者 : 藤堂高虎 ・ 脇坂安治 ・ 加藤貞泰

城 主 : 宇都宮氏 ・ 藤堂氏 ・ 脇坂氏 ・ 加藤氏

形 式 : 梯郭式 平 山 城

所在地 : 愛媛県大洲市大洲903番地

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この大洲城は、鎌倉時代末期、伊予国の守護、宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城が始まりといわれています。 激動の戦国時代を経て、小早川隆景が伊予を平定した後、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治が相次いで城主となりますが、このころ4層4階の天守を中心とした本格的な近世城郭に整備されたのではないかと考えられています。

元和3年(1617年)米子から加藤貞泰が入城しました。 以後、明治維新を迎えるまで加藤氏が6万石の城主としてこの地を治めました。 明治維新後、幕藩体制が崩壊し、明治21年(1888年)には天守も取り壊されました。 しかし、4棟の櫓は解体をまぬがれ、いずれも国の重要文化財に指定されています。 城跡も県史跡に指定され今日も大切に保存されています。

===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸跡からの天守閣===
(写真をクリックすると大きくなります)===天守閣と高欄櫓===

高欄櫓は江戸時代末期、万延年(1860年)に再建されたもので、二重二階櫓、本瓦葺である。天守の南側に位置し、天守とは多門櫓で結ばれています。上層の屋根には軒唐破風がつけられ、擬宝珠のついた高欄が縁をめぐらしている。また西南隅に袴腰形石落しを付け、この建物に威容を添えています。

(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸からの高欄櫓と天守閣===
(写真をクリックすると大きくなります)===左から多門櫓・天守閣・台所櫓===

台所櫓は、安政6年(1859年)に再建されたもので、二重二階櫓、本瓦葺です。天守の東側に位置し、天守とは多聞櫓で結ばれています。  内部は、1階が土間と板張り2室、2階が1室となっています。規模は高欄櫓よりやや大きく、入母屋造で、北側中央には花頭窓が設けられているのが特徴です。

(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸からの天守閣、多聞櫓、高欄櫓===
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この大洲城は明治維新後は、城内のほとんどの建築物が破却されたものの、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓は一部保存されましたが、明治21年(1888年)老朽化により、惜しくも天守は解体されました。その後、大洲城を愛する地元住民の城郭への保護活動と、市民による寄付等によって平成16年(2004年)に復元されました。

四層四階の複連結式天守の復元にあたっては、明治時代の古写真や「天守雛形」と呼ばれる江戸期の木組み模型など豊富な資料を基に当時の姿を正確に復元されました。このように復元に必要な多くの資料が残っていることは大変稀なことで、大洲城の天守の復元は、まさに地元住民の想いと、史料研究の集大成と言えます。現在、江戸時代から残る台所櫓・南隅櫓など4棟の櫓は国の重要文化財、城跡一帯が県指定史跡に指定されています。