宇和島城(愛媛県) ― 2012年08月09日 10時31分09秒
名 称 : 宇和島城 (うわじまじょう) 別 名 : 鶴島城 ・板島城 ・丸串城
築城年間 : 天慶4年941年
築城者 :橘 遠保 主な改修者 : 藤堂高虎 ・ 伊達宗利
城 主 : 藤堂氏 ・伊達氏
形 式 : 梯郭式 平 山 城
所在地 : 愛媛県宇和島市丸之内1丁目

戦国時代、高串道免、城主の家藤監物が、天文15年(1546年)板島丸串城に入ったというのが、板島丸串城の記録に現れた始めである。 その後、天正3年(1575年)、西園寺宣久の居城となったが、同13年(1585年)には伊予の国が小早川隆景の所領となり持田右京が城代となった。
その後、同15年(1587年)宇和郡は戸田勝隆の所領となり戸田与左衛門が城代となった。文禄4年(1595年)藤堂高虎が宇和郡7万石に封ぜられ、その本城として慶長元年(1596年)築城工事を起こし、城堀を掘り、石垣を築いて、天守閣以下大小数十の矢倉を構え、同6年(1601年)ごろまでかかって厳然たる城郭を築きあげた。
慶長13年(1608年)高虎が今治に転封となり富田信高が入城したが、同18年(1613年)に改易となったので、約1年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり、藤堂良勝を城代とした。 慶長19年(1614年)12月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石に封ぜられ、翌元和元年(1615年)3月に入城の後宇和島城と改めた。
それ以後、代々伊達氏の居城となり、2代宗利のとき寛文4年(1664年)天守閣以下城郭全部の大修理を行い、同11年(1671年)に至り完成した。 天守閣は国の重要文化財に、また城跡は史跡に指定されている。 別称鶴島城ともいう。
===現地説明板より=== (写真をクリックすると大きくなります)===宇和島城・天守閣の破風===宇和島伊達家2代宗利が寛文6年(1666年)頃に再建、3重3階総塗籠式(そうぬりごめしき)、層塔型(そうとうがた)の天守です。各階の装飾性の高い破風(はふ)や懸魚(げぎょ)などから太平の世を象徴するものとして評されるとともに、小さいながらも御殿建築の意匠が随所に見られ、非常に格式を重んじた造りとなっています。万延元年(1860年)、昭和35年(1960年)に大修理を受けていますが、昔の姿を今もなお伝えています。
この石垣は13メートルを少し切る位の高さで、藤堂高虎時代に築かれた古いものと考えられています。 こうした直線的に高く積む石垣は、築城の名手藤堂高虎が得意としたところで、高虎が築いた他の城にも見出せます。藤兵衛丸では、現在城山郷土館となっている里倉庫は、弘化2(1845年)に三の丸に建てられた武器庫です。
(写真をクリックすると大きくなります)===宇和島城・西角櫓石垣===
この門は、現在の中央町一丁目(現桑折医院)にあった宇和島藩の家老桑折氏の長屋門を、昭和二十七年にここに移したものである。その際向かって左方の長屋の大部分を切り取ったので、現在ではかなりその原形を失っているが、なお往時の壮大な規模と構造の特徴を知ることができる。門に向かって右の部分はもとの厩で、左の長屋には、門番と家付きの使用人をはじめ中間、小者が居住していたものである。建築年代は確かなことはわからないが、江戸中期と推定される。
===現地説明板より===
最近のコメント